【外伝第一章】 『夏のスケッチブック』
美咲が遼介と出会ったのは、七月の終わりだった。
瀬戸内海は一年で最も美しい季節を迎えていた。
空は高く青い。
海も青い。
島々は濃い緑に包まれている。
港へ観光客が降り立つたび、島の子供たちは誰が来たのか興味津々で見に行った。
その日も同じだった。
定期船が到着した。
乗客は十人ほど。
その中に一人の青年がいた。
背が高く、少し日に焼けた顔。
肩から古いカメラを提げている。
東京から来た大学生。
三上遼介だった。
美咲は港の売店を手伝っていた。
観光客に地図を渡したり、飲み物を販売したりする仕事だ。
「すみません」
遼介が声を掛けてきた。
「この島で景色が一番きれいな場所ってどこですか?」
美咲は少し考えた。
観光パンフレットに載っている場所はいくつもある。
展望台。
神社。
海岸。
だが本当に好きな場所は別だった。
「夕方なら西の岬です」
「岬?」
「観光客はあまり行きません」
遼介は笑った。
「そういう場所の方が好きです」
その笑顔が妙に印象に残った。
その日の夕方。
美咲は何となく西の岬へ行った。
理由は自分でも分からない。
すると本当に遼介がいた。
防波堤に腰掛けて海を見ている。
「来たんですね」
思わず声を掛ける。
遼介は振り返り、少し驚いた顔をした。
「案内人が来てくれるとは思いませんでした」
二人は並んで海を見た。
夕陽が沈む。
空が黄金色になる。
島々の影が海へ伸びる。
瀬戸内ならではの風景だった。
「きれいですね」
遼介が言う。
美咲は頷く。
「でも慣れると普通ですよ」
「東京にはないです」
その言葉に少し嬉しくなった。
自分にとって当たり前の景色が、誰かにとって特別なもの。
そんなことを考えたことがなかった。
遼介はスケッチブックを取り出した。
鉛筆を走らせる。
意外だった。
カメラだけではないらしい。
「絵を描くんですか」
「趣味です」
美咲は覗き込む。
驚いた。
ほんの数分で夕暮れの海が紙の上に現れていた。
柔らかい線。
優しい陰影。
まるで風まで描かれているようだった。
「すごい」
思わず言った。
遼介は照れたように笑う。
「あなたは?」
「え?」
「何か好きなことありますか?」
美咲は困った。
島ではそんな質問をされない。
将来どうする。
どこへ就職する。
そんな話ばかりだ。
好きなこと。
改めて考えると難しい。
「絵を見るのは好きです」
そう答える。
本当だった。
雑誌や画集を見るのが好きだった。
「描かないんですか?」
「下手なので」
「関係ないですよ」
遼介は真顔だった。
「好きなら描けばいい」
簡単に言う。
だがその言葉が妙に心に残った。
その日から二人は時々会うようになった。
港。
岬。
神社の石段。
島を歩きながら話す。
東京の話。
島の話。
夢の話。
将来の話。
遼介は聞き上手だった。
否定しない。
笑わない。
最後まで聞いてくれる。
それが美咲には新鮮だった。
八月になる頃には、一緒にいるのが当たり前になっていた。
だが美咲は気付いていた。
この時間には終わりがある。
夏が終われば遼介は東京へ帰る。
島へ残る自分とは違う世界の人間だ。
だからこそ。
一緒にいる時間が大切だった。
ある夕方。
二人は再び西の岬へいた。
夕陽が海を染めている。
遼介が突然言った。
「東京へ来ませんか」
美咲は驚く。
「無理ですよ」
「どうして」
「島の人ですから」
遼介は少し考えた。
そして静かに言った。
「島の人だから行けないんじゃなくて、自分でそう決めてるだけじゃないですか」
その言葉は胸に刺さった。
図星だった。
怖かったのだ。
失敗することが。
島を出ることが。
夢を見ることが。
遼介は海を見る。
「もったいないです」
その横顔を見ながら。
美咲は初めて思った。
この人の隣にいたい。
もっと話したい。
もっと知りたい。
もっと同じ景色を見たい。
瀬戸内の夕暮れは静かだった。
波も穏やかだった。
だが美咲の心だけは少しずつ変わり始めていた。
祭りの日まで。
あと十日だった。




