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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第四部 海鬼】  『第二十章 父が守ったもの』


港には夜の帳が降りていた。


海は黒く静かだった。


その沖を、一艘の小舟が進んでいる。


船首には白いワンピースの美咲。


提灯の群れに囲まれながら。


まるで海そのものに導かれているようだった。


遼は目を離せない。


その姿が消えてしまいそうで。


「遼介が持ち去った物がある」


藤本の言葉が頭から離れない。


父は何を持ち去ったのか。


なぜ島を去ったのか。


そして、なぜ何も語らなかったのか。


藤本はゆっくり話し始めた。


「美咲が亡くなった後じゃ」


波音が響く。


島民たちも静かに聞いている。


「遼介は春香の事故を調べ始めた」


当然だった。


愛する人を失ったのだ。


真実を知りたかった。


誰よりも。


「そして見つけた」


藤本の声は重い。


「録音テープを」


遼は息を呑む。


「録音……」


「春香が残したんじゃ」


祭りの日。


春香は木箱を見つけた。


そして万が一のため、島の大人たちとの話し合いを録音していた。


真実の証拠。


誰が何を決めたのか。


誰が沈黙したのか。


全て残っていた。


「そのテープは?」


遼が訊く。


藤本は静かに答えた。


「遼介が持って行った」


島は再び隠そうとした。


春香の死を事故として。


美咲の死も事故として。


全てを終わらせようとした。


だが遼介は拒んだ。


「このまま忘れられる方が辛い」


そう言ったという。


しかし公表はしなかった。


いや。


できなかった。


なぜなら。


「誰も悪人じゃなかったからじゃ」


藤本は苦しそうに言う。


誰かが故意に殺したわけではない。


事故だった。


恐怖だった。


弱さだった。


後悔だった。


だからこそ難しかった。


白か黒かで裁けない。


人間の弱さそのものだった。


遼は空を見る。


父は知っていたのだ。


全てを。


それでも沈黙した。


美咲を忘れたわけではない。


守ろうとしていた。


真実と、人々の人生の両方を。


その時だった。


「遼」


声がした。


振り向く。


誰もいない。


だが今度ははっきり分かった。


美咲だった。


小舟の上。


月明かりの中で微笑んでいる。


そして沖を指差した。


海の向こう。


島のさらに外側。


暗い水平線。


遼の脳裏に、一つの記憶が蘇る。


父の遺品。


古いトランク。


実家の押し入れ。


誰も開けていない箱。


「まさか……」


心臓が大きく鳴る。


父は持ち去ったのではない。


残したのだ。


誰かが辿り着く日を待って。


そのために。


自分は呼ばれた。


祖父も。


美咲も。


海鬼も。


全てが繋がる。


遼は初めて理解した。


この旅は幽霊を鎮めるためではなかった。


忘れられた物語を完成させるためだったのだ。


その瞬間。


沖の提灯が一斉に輝いた。


海面が星空のようになる。


瀬戸内の島々が浮かび上がる。


静かな海。


穏やかな風。


その美しさに遼は息を呑んだ。


美咲が愛した海。


春香が守ろうとした海。


恒一が生き続けた海。


そして父が忘れられなかった海。


全てがここにあった。


美咲が微笑む。


悲しみはもうない。


ただ優しい笑顔。


その姿が少しずつ薄れていく。


遼は叫ぶ。


「待って!」


美咲は立ち止まる。


そして初めて言葉を残した。


「書いて」


風が吹く。


髪が揺れる。


提灯が揺れる。


「忘れないで」


その声は穏やかだった。


怒りも。


恨みも。


何もない。


ただ願いだけ。


忘れないで。


それが全てだった。


次の瞬間。


美咲の姿は夜の海へ溶けていった。


提灯も消える。


海は静けさを取り戻す。


誰も言葉を発しない。


長い時間が流れた。


やがて藤本が呟く。


「終わったかもしれんな」


遼は首を横に振る。


まだ終わっていない。


父のトランクが残っている。


録音テープが残っている。


そして。


自分には書かなければならない物語がある。


祖父から託されたもの。


美咲から託されたもの。


海鬼が残したもの。


その全てを。


夜空には満天の星が広がっていた。


瀬戸内の海は静かに凪いでいた。


まるで長い長い物語の終わりを見届けるように。



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