【第四部 海鬼】 『第十九章 あの日の海』
港へ向かう坂道を、遼は走っていた。
潮風が強い。
空は暗くなり始めている。
遠くから鐘の音が響く。
島の人々も海へ集まり始めていた。
誰もが異変を感じている。
三十年前と同じ現象。
海鬼の夜。
だが今回は違う。
遼には分かっていた。
これは終わりの始まりだ。
港へ着く。
人々が沖を見つめていた。
提灯の群れ。
その中心。
小さな舟。
そして。
白いワンピースの女性。
美咲。
遼は目を離せなかった。
風が吹く。
波が揺れる。
その瞬間だった。
視界が大きく歪んだ。
足元が消える。
世界が回転する。
誰かの記憶が流れ込んでくる。
三十年前。
祭りの夜。
美咲の視界だった。
太鼓の音が聞こえる。
祭りは最高潮だった。
提灯が揺れる。
人々は笑っている。
だが美咲の胸はざわついていた。
春香がいない。
探しても見つからない。
嫌な予感がした。
神社の裏。
海辺。
岩場。
ようやく見つけた。
春香だった。
一人で海を見ている。
その手には木箱。
あの木箱だった。
「春香さん!」
美咲は駆け寄る。
春香が振り返る。
泣いていた。
「返さないと」
それだけを繰り返している。
「危ないです」
「でも返さないと」
春香は海を見る。
沖を。
暗い海を。
その時だった。
背後から複数の足音がした。
男たちだった。
島の有力者たち。
三十年前、木箱を沈める決定をした者たち。
その中には若い頃の藤本もいた。
恒一もいた。
皆青い顔をしている。
春香が叫ぶ。
「返す!」
木箱を抱き締める。
「このままじゃ駄目!」
男たちは近づく。
必死だった。
真実が広まることを恐れていた。
島が壊れることを恐れていた。
その時。
誰かが春香の腕を掴んだ。
春香が振り払う。
足が滑る。
岩場だった。
雨上がりで濡れていた。
一瞬。
本当に一瞬だった。
春香の身体が傾く。
海へ落ちる。
悲鳴。
誰かが叫ぶ。
恒一だった。
春香は波に飲まれた。
皆が凍りつく。
事故だった。
確かに事故だった。
だが。
誰も動かなかった。
数秒。
十秒。
もっとだったかもしれない。
その沈黙が全てを変えた。
美咲だけが海へ飛び込んだ。
遼は息を呑む。
記憶が続く。
冷たい海。
暗闇。
波。
春香の姿を探す。
必死に。
必死に。
だが見つからない。
その時。
海の中で何かが見えた。
提灯だった。
無数の灯り。
水中に浮いている。
あり得ない光景。
そして。
たくさんの人影。
海底に立っている。
帰れなかった人々。
忘れられた人々。
海鬼だった。
美咲は恐怖を感じなかった。
悲しみだけを感じた。
海の底に残された無数の願い。
帰りたい。
会いたい。
忘れないで。
その声。
その思い。
そして。
春香を見つけた。
沈んでいく。
手を伸ばす。
あと少し。
届きそうだった。
その時。
大きな波が来た。
世界が白くなる。
美咲の意識が遠のく。
最後に見たのは。
岸で泣き叫ぶ遼介の姿だった。
記憶が終わる。
遼は膝をついた。
港だった。
現代へ戻っている。
息が荒い。
涙が流れていた。
全て分かった。
春香は事故だった。
だが事故だけではない。
大人たちの恐れ。
沈黙。
ためらい。
その積み重ねが悲劇を生んだ。
そして。
美咲は誰かに殺されたわけではなかった。
助けようとして海へ入ったのだ。
最後まで。
自分の命より他人を優先して。
その時だった。
沖の舟の上で、美咲が微笑んだ。
初めてだった。
悲しみではない。
穏やかな笑顔。
そしてゆっくり首を横に振る。
まるで言っているようだった。
違う。
まだ全部じゃない。
遼は顔を上げる。
胸騒ぎがした。
まだ何かある。
まだ語られていない真実が。
その時。
藤本が呟いた。
顔面蒼白だった。
「遼介が……」
遼は振り向く。
老人は震えている。
「遼介が持ち去った物がある」
世界が再び止まる。
父。
三上遼介。
美咲を愛していた青年。
彼が持ち去った物。
それこそが。
三十年間、誰にも語られなかった最後の秘密だった。
海風が強く吹く。
提灯が揺れる。
美咲の舟はゆっくりと沖へ向かい始める。
まるで遼を誘うように。
最後の真実が眠る場所へ。




