【第四部 海鬼】 『第十八章 届かなかった手紙』
小屋の中は静かだった。
窓から差し込む午後の光が、古い机を照らしている。
遼は封筒を見つめていた。
《遼介へ》
美咲より。
三十年以上前の文字。
黄ばんだ封筒。
届けられることのなかった手紙。
藤本は何も言わない。
ただ静かに待っている。
遼はゆっくりと封を開いた。
中には便箋が三枚入っていた。
美咲の字だった。
丁寧で優しい文字。
少し震えているようにも見える。
遼は読み始めた。
遼介へ
この手紙を渡せるか分からない。
でも書いておきたい。
もし言えなかったら困るから。
短い書き出しだった。
だがそこに切実さが滲んでいる。
最初に会った時、東京の人は皆冷たいと思っていた。
でも遼介は違った。
私の話を聞いてくれた。
絵の話も。
島の話も。
将来が不安な話も。
笑わなかった。
それが嬉しかった。
遼の胸が締め付けられる。
父はそんな青年だったのか。
何も知らなかった。
私は東京へ行きたい。
でも怖い。
失敗するかもしれない。
島へ戻れなくなるかもしれない。
でも遼介と話していると少しだけ勇気が出る。
便箋に小さなシミがあった。
涙の跡かもしれない。
もし東京へ行けたら、一緒に海を見に行こう。
瀬戸内海じゃない海も見てみたい。
約束。
遼は目を閉じた。
叶わなかった約束。
未来へ向かうはずだった言葉。
その続きがあった。
それから。
一つだけ言わなければならないことがあります。
私は最近、変な夢を見ます。
海の夢です。
誰かが呼んでいます。
返してと言っています。
たぶん私は、何かを思い出そうとしています。
もし私に何かあったら。
どうか真実を探してください。
遼の鼓動が速くなる。
次の一文。
それが全てを変えた。
そしてもう一つ。
私のお腹には赤ちゃんがいます。
世界が止まった。
遼は息を忘れた。
文字を見つめる。
理解するまで時間が掛かった。
赤ちゃん。
つまり。
「……まさか」
声が出ない。
手が震える。
便箋が揺れる。
まだ誰にも言っていません。
もちろん遼介にも。
先に話そうと思っていました。
祭りが終わったら。
ちゃんと会って。
遼の視界が滲む。
美咲は伝えられなかった。
祭りの夜が来てしまったから。
もし男の子なら、海が好きな子になるかもしれません。
もし女の子なら、絵を描くかもしれません。
そんな未来を考えるだけで幸せです。
そこで手紙は終わっていた。
最後の署名。
《美咲》
それだけだった。
小屋の中は静まり返る。
藤本が目を閉じる。
長い沈黙の後、口を開いた。
「遼介は知らんかった」
遼は顔を上げる。
「父は……」
「祭りの夜の後に知った」
藤本は海を見る。
「美咲が亡くなった後じゃ」
遼は立ち尽くす。
頭の中が整理できない。
もし手紙が届いていたら。
もし祭りの夜がなかったら。
自分の人生そのものが変わっていた。
そして一つの可能性が浮かぶ。
「その子は……」
藤本は首を横に振った。
「生まれとらん」
静かな声だった。
遼は目を閉じる。
胸が痛む。
だが同時に理解した。
海鬼が呼び続けた理由。
それは単なる遭難者の記憶ではなかった。
失われた未来。
生まれるはずだった人生。
語られなかった愛。
それら全てだった。
その時だった。
窓の外から風が吹き込む。
便箋がめくれた。
最後の余白。
今まで気づかなかった文字があった。
小さな走り書き。
祭りの日の夜に追記したのだろう。
そこにはこう書かれていた。
春香さんが海へ向かいました。
止めなければ。
誰かが嘘をついています。
本当は事故じゃない。
そこで途切れている。
それが最後だった。
遼は立ち上がる。
「事故じゃない……」
藤本は何も言わない。
だがその沈黙が答えだった。
三十年前。
春香は海へ向かった。
美咲もまた海へ向かった。
そして二人とも帰らなかった。
だが。
春香の死と美咲の死は同じではない。
祖父の記録には、まだ空白がある。
誰かが語っていないことがある。
その時。
外から鐘の音が聞こえた。
港だった。
島中へ響く警鐘。
藤本が立ち上がる。
顔色が変わる。
「始まったか……」
遼も外へ飛び出す。
山道の向こう。
瀬戸内海が見える。
海の上には再び無数の提灯が浮かんでいた。
だが今度は違った。
提灯の中心に、一隻の小舟があった。
誰も乗っていないはずの小舟。
その船首に。
白いワンピースの女性が立っていた。
美咲だった。
そして彼女は初めて遼へ向かって手を伸ばした。
まるでこう告げるように。
――まだ真実は終わっていない。




