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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【最終章】   『凪の亡霊』


東京へ戻ったのは九月だった。


夏の終わり。


空は少し高くなり、街路樹の葉にも秋の気配が混じり始めていた。


遼は実家へ向かった。


父の遺品を整理するためだった。


古い家。


静かな廊下。


幼い頃から見慣れた景色。


だが今日は違って見えた。


押し入れの奥。


父のトランクはすぐに見つかった。


黒い革製。


長い年月を感じさせる傷が付いている。


鍵は掛かっていなかった。


ゆっくり開く。


中には衣類や本が入っていた。


その底。


一つの箱があった。


金属製の小さなケース。


蓋を開ける。


中にはカセットテープが一本だけ残されていた。


白いラベル。


そこには父の字で書かれていた。


《祭りの日》


遼は長く息を吐いた。


ついに辿り着いた。


祖父が託したもの。


美咲が待ち続けたもの。


春香が守ろうとしたもの。


全ての始まり。


そして終わり。


翌日。


遼は古い再生機を探し出した。


今では珍しい機械だった。


テープを入れる。


再生ボタンを押す。


雑音が流れる。


しばらくして声が聞こえた。


若い男の声。


島の有力者の一人だった。


続いて別の声。


恒一。


藤本。


春香。


何人もの声が重なる。


会議だった。


木箱をどうするか。


真実を公表するか。


皆が迷っている。


怒鳴り合いではない。


誰も悪意を持っていない。


ただ恐れていた。


島が壊れることを。


先祖を否定することを。


自分たちの弱さを認めることを。


録音は一時間以上続いた。


最後に春香の声が聞こえた。


はっきりと。


静かに。


そして強く。


「誰かが覚えていればいいんです」


沈黙。


その後、彼女は続けた。


「悪かったことを隠さないでください」


「でも憎まなくていい」


「忘れないでください」


雑音。


そこで録音は終わっていた。


遼はしばらく動けなかった。


涙が出ていた。


春香が守ろうとしたもの。


それは告発ではなかった。


復讐でもなかった。


記憶だった。


忘れないこと。


それだけだった。


数日後。


遼はパソコンに向かった。


祖父との約束。


美咲との約束。


そして父が遺した時間。


全てを文字にするために。


書き始める。


瀬戸内の島。


静かな海。


祭り。


提灯。


春香。


恒一。


藤本。


美咲。


遼介。


そして海鬼。


何度も手が止まった。


何度も涙が落ちた。


だが書き続けた。


書かなければならなかった。


忘れないために。


三か月後。


原稿は完成した。


長い物語だった。


島の歴史。


悲しみ。


愛。


後悔。


希望。


全てを書いた。


最後の一行を書き終えた時。


窓の外では雪が降り始めていた。


冬だった。


遼はパソコンを閉じる。


静かな部屋。


その時だった。


潮の香りがした。


東京ではあり得ない香り。


瀬戸内の海の匂い。


遼は振り返る。


誰もいない。


だが。


窓辺に白い光が立っていた。


美咲だった。


若いままの姿。


優しい笑顔。


初めて会った時と同じように。


彼女は原稿へ目を向ける。


そして微笑んだ。


ありがとう。


そう言った気がした。


遼も笑う。


「こちらこそ」


声に出していた。


美咲は少し驚いたような顔をした。


そして。


静かに頷いた。


その姿が雪のように溶けていく。


窓の外へ。


空へ。


どこまでも広がる光の中へ。


今度こそ。


本当に。


帰っていった。


遼は立ち上がる。


窓を開ける。


冷たい冬の空気が流れ込む。


遠くに海は見えない。


だが確かに感じた。


あの島の風を。


瀬戸内の穏やかな波を。


凪いだ海を。


人は忘れる。


だから記録する。


だから語り継ぐ。


だから物語を書く。


忘れられた人々が、本当に消えてしまわないように。


帰れなかった人々が、誰かの心の中で帰れるように。


遼は空を見上げた。


雪が静かに降っている。


その向こうには、きっと同じ空が続いている。


瀬戸内の島へ。


あの海へ。


そして。


愛した人たちのいる場所へ。


それから数年後。


島には小さな資料館ができた。


豪華な建物ではない。


古い倉庫を改装しただけのものだった。


だがそこには記録が残されている。


遭難した人々の名前。


春香の言葉。


恒一の日記。


美咲の手紙。


そして一冊の小説。


『凪の亡霊』


訪れた人々は海を見る。


穏やかな瀬戸内海。


青い空。


行き交う船。


静かな島々。


そして思う。


美しい景色の裏にも、誰かの人生があるのだと。


誰かの悲しみがあるのだと。


誰かの愛があるのだと。


夕暮れ。


資料館の前に立つと、海が黄金色に輝く。


風が吹く。


提灯はもう現れない。


海鬼も現れない。


けれど。


波の音に耳を澄ませば、時々聞こえる気がする。


懐かしい笑い声が。


優しい呼び声が。


それはきっと亡霊ではない。


生きた証だ。


忘れられなかった記憶だ。


瀬戸内の海が抱き続ける物語だ。


海は今日も静かに凪いでいる。


まるで全てを受け入れるように。


全てを覚えているように。


そして新しい朝を迎えるように。




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