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凪の亡霊  作者: 鷹司 怜


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【第四部 海鬼】  『第十六章 祖父からの手紙』


蔵の中は静かだった。


遼は長い時間、動けずにいた。


春香。


海鬼。


海底の木箱。


そして三十年前の祭りの夜。


記録帳に残されていた出来事を読み終えた時、自分までその場にいたような気持ちになっていた。


隣では澪も黙っている。


窓から差し込む午後の光が、埃を照らしていた。


「これが……全部」


遼が呟く。


祖父が抱えていた後悔。


島の秘密。


そして海鬼の正体。


ただの怪談ではなかった。


人々が忘れてしまった悲しみ。


それが形を持ったものだった。


その時だった。


澪が木箱の底を見つめる。


「まだあります」


遼も覗き込む。


確かに何か残っている。


古い封筒だった。


黄ばんでいる。


表には文字。


《遼へ》


遼の心臓が大きく鳴った。


自分の名前。


祖父の字だった。


震える手で封を開ける。


中には便箋が一枚。


遼は読み始めた。


遼へ。


この手紙を読んでいるということは、わしはもうこの世におらんのじゃろう。


まず謝らんといけん。


お前を島へ呼んだ。


それは偶然じゃない。


わしの意思じゃ。


遼は息を止める。


呼んだ。


やはりそうだった。


祖父は自分が来ることを望んでいた。


わしは最後まで真実を語れんかった。


島も守りたかった。


亡くなった人たちのことも忘れたくなかった。


だが中途半端なまま歳を取った。


だからお前に託す。


文字が少し震えている。


祖父も迷っていたのだろう。


本当の意味で海鬼を終わらせるには、記録を残さなければならん。


語り継がなければならん。


人は忘れる。


だが忘れられた時、本当に死ぬんじゃ。


遼の目が潤む。


それは海鬼の話だけではなかった。


祖父自身の人生でもあった。


お前は東京で文章を書く仕事をしておる。


だから頼む。


書いてくれ。


この島のことを。


帰れなかった人たちのことを。


美しい海のことを。


生きた人たちのことを。


そこで手紙は終わっていた。


短い。


だが十分だった。


遼は便箋を握りしめる。


祖父が自分を呼んだ理由。


ようやく分かった。


「小説……」


澪が小さく言う。


遼は顔を上げる。


「え?」


「恒一さん、ずっと言ってました」


澪は少し笑う。


「誰かが書かなきゃいけないって」


蔵の空気が少しだけ柔らかくなる。


外から蝉の声が聞こえる。


夏だった。


三十年前と同じ季節。


その時だった。


蔵の外から呼ぶ声が聞こえた。


「三上くん!」


藤本だった。


遼たちは外へ出る。


老人の顔は険しい。


何かあったのだ。


「どうしたんですか」


藤本は少し躊躇う。


そして言った。


「海じゃ」


嫌な予感がした。


三人は急いで港へ向かう。


夕暮れが近づいていた。


瀬戸内海は穏やかだった。


だが港には人が集まっている。


漁師たち。


島の老人たち。


皆、沖を見ている。


遼も視線を向ける。


そして凍りついた。


海の上に灯りが浮かんでいた。


提灯だった。


一つではない。


二つでもない。


数十。


いや。


百近い灯り。


静かに並んでいる。


祭りでもない。


誰も流していない。


それなのに。


沖一面に広がっている。


人々がざわめく。


「また出た」


「何十年ぶりじゃ」


「嘘じゃろ……」


老人たちの顔色は青い。


遼は理解する。


これは三十年前の現象。


海鬼の夜だ。


しかし。


今回は違った。


提灯の列がゆっくり動いている。


島へ向かって。


まるで何かを伝えようとしているように。


その時。


遼の耳元で声がした。


「まだ終わってない」


振り返る。


誰もいない。


だが確かに聞こえた。


若い女性の声。


美咲だった。


海から吹く風が強くなる。


空が赤く染まる。


提灯の灯りが揺れる。


そして遼は気づく。


これは祖父が終わらせた物語ではない。


続きがある。


三十年前に解決したと思われていた出来事には、まだ語られていない最後の真実が残っている。


海の上の灯りは、静かに島へ近づいていた。



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