【第四部 海鬼】 『第十五章 海から還るもの』
祭りの夜。
月は高く昇っていた。
沖には無数の提灯が浮かんでいる。
海は静かなはずだった。
だが美咲には聞こえた。
声が。
帰れなかった人々の声が。
波の向こうから。
風の中から。
長い年月を越えて。
恒一は海を見つめていた。
その視線の先には木箱が浮かんでいる。
三十年前に沈められたはずの箱。
春香が命を懸けて守ろうとした真実。
「行く」
恒一が立ち上がる。
美咲は驚く。
「今から?」
「今しかない」
その声は決意に満ちていた。
三十年間逃げ続けた男の声ではなかった。
港へ戻る。
祭りの喧騒は続いている。
誰もまだ知らない。
この島の過去が今、海の上に浮かび上がっていることを。
恒一は漁船を出した。
美咲も乗り込む。
エンジン音が夜を裂く。
船は沖へ向かった。
提灯の間を進む。
灯りは逃げない。
まるで導くようだった。
やがて木箱の近くへ辿り着く。
波間に揺れている。
古びた木箱。
だが不思議だった。
三十年も海底にあったとは思えない。
誰かが守っていたかのように形を保っている。
恒一は震える手で箱を掴んだ。
重い。
海水を含んでいる。
それでも船へ引き上げる。
その瞬間だった。
風が止んだ。
波も静まる。
提灯の灯りが揺れなくなる。
世界が息を潜めた。
恒一はゆっくり蓋を開けた。
中には布に包まれた書類があった。
紙は傷んでいる。
だが読める。
遭難船の記録。
救助要請。
乗客名簿。
そして最後の一枚。
当時の寄り合いの議事録だった。
そこにははっきりと書かれていた。
《救助は危険と判断し出航を見送る》
美咲は目を閉じる。
これが真実だった。
事故ではない。
嵐だけが原因ではない。
助けられる命があった。
それでも助けなかった。
島の大人たちはその事実を隠した。
だから春香は怒った。
だから命を懸けてでも守ろうとした。
恒一は書類を握りしめる。
涙が落ちる。
「すまん……」
小さな声だった。
だがその言葉には三十年分の重みがあった。
「春香」
風が吹く。
今度は優しい風だった。
提灯がゆっくり揺れる。
そして。
海の上に人影が現れた。
一人。
二人。
十人。
百人。
数え切れないほど。
老若男女。
誰も恨みの顔をしていない。
怒りもない。
ただ静かだった。
美咲は気づく。
彼らは許しを求めていたのではない。
覚えていてほしかったのだ。
自分たちがいたことを。
帰れなかったことを。
忘れないでほしかった。
それだけだった。
その時。
人影の中から一人の少女が現れる。
春香だった。
月明かりの中で微笑んでいる。
恒一は声を失う。
春香も何も言わない。
ただ兄を見る。
優しく。
懐かしそうに。
そして小さく頷いた。
それだけだった。
次の瞬間。
提灯が一斉に空へ舞い上がる。
無数の光。
夜空を埋め尽くす灯り。
まるで星になったようだった。
海も光る。
空も光る。
瀬戸内の島々が静かに浮かび上がる。
美咲は涙を流していた。
なぜなのか分からない。
悲しいのに温かい。
寂しいのに優しい。
そんな涙だった。
春香の姿が薄れていく。
他の人影たちも。
提灯も。
光も。
全てが夜空へ溶けていく。
最後に残ったのは波音だけだった。
静かな瀬戸内の海。
いつもの海。
だがもう何かが違っていた。
恒一は海へ向かって深く頭を下げる。
長い間。
動かなかった。
美咲も頭を下げた。
忘れられていた人々へ。
帰れなかった人々へ。
そして。
ようやく帰ることのできた人々へ。
船が港へ戻る頃には夜明けが近づいていた。
東の空が白み始めている。
祭りは終わった。
だが本当は今、何かが始まったのかもしれない。
島が過去と向き合う時間が。
真実を語る時間が。
そして。
春香が残した願いを果たす時間が。
夜明けの海は美しかった。
まるで何事もなかったかのように。
穏やかで。
静かで。
優しく凪いでいた。




