第六話 ハナ
「あの、一つお聞きしたいのですが、この猫ちゃんは、亡くなってるんですか……?」
猫の顎の下をひたすら堪能していた獏の手が止まる。それでも尚、猫は気持ちが良さそうにごろごろと喉を鳴らしながら、獏の膝で寝転んでいた。
「……この猫はまだ生きているよ。本体はしっかり現世にある」
「え、そうなんですか?」
獏が頷く。そして再び猫の顎の下を指先で転がし始めた。
「でも、死期が近い」
「……死期が」
「うん。だから魂だけが迷い込む」
獏にすっかり心を許し甘えきっているその子を見下ろしながら、少しだけ胸に棘が刺さったような気持ちだった。確かに感触はあって、ぬくもりも感じて、大きな瞳で一生懸命猫じゃらしの動きを見ている。
それなのに、この子はもうすぐ死んでしまうというのか。
猫は死を感じたその時、大切な人の前からいなくなるという。
「……獏さん。この子、首輪がついてるから飼い猫ですよね」
「まぁ、そうだろうね」
「だったら尚更、早く元の場所へ帰してあげないと」
「ここにいるのは魂だけだよ。肉体はちゃんと現世にある」
「……ちゃんと飼い主さんの所にいますか?」
「……さぁね」
嫌な予感がした。根拠なんかない。だけどこのままでは後悔する気がした。
「あの、迷い子ってどうやって帰すんですか?」
「いや、ちょっと待って。さすがにまだ沙耶ちゃんには帰せないよ! 天舞の許可だってもらってないし!」
「で、でも、時間がないです。早くしないとこの子、一人で死んでしまうかも……」
焦りを隠せず猫に手を伸ばそうとすると、ひょいと獏に遠ざけられてしまう。
「えっ、獏さん……!?」
「どこに連れて行く気? 帰し方もわからない癖に」
「っすみません。でも……! このままじゃ後悔します!」
「それは誰の後悔? この子のじゃないよね? 自分のでしょ?」
自分のでしょ?
正論だった。
正論という強い鈍器で思い切り頭を殴られ、脳震盪を起こしたみたいにその場から動けなくなる。
私は何も言い返せずにただ歯噛みした。
「猫は弱ってる姿を見られたくないんだ。それだけじゃない。身を守るためにも暗い場所や涼しい場所に隠れたりもする。考えて、そうしてる。
この子の魂を現世に帰すのは協力する。だけど、それ以上の関与は絶対にするな。渡し守は、送り届けるだけでいい」
釘を刺すように獏は言った。
恐らく、私が飼い主とこの子を最後に引き合わせようなどという愚かな考えを持ったことを悟ったのだろう。
――そうだ、それはただの自己満足でしかない。
私は危うく猫としてのこの子の矜恃に傷を付けてしまう所だった。
「ごめんね………ごめんなさい……」
涙がぽろぽろと零れた。
叔父の葬儀ではあんなにも出なかった涙が、嘘みたいに零れて止まらない。
「……泣くなよ。人間って面倒くさいね」
「獏」
「はぁ……」
覚に制され、獏は言葉を飲み込む代わりに頭をがしがしと掻いた。
「にゃあ」
薄灰色の体が私の手に擦り寄ってくる。
「にゃあ、にゃあ」
何度も、何度も、顔や体をこすりつけてきた。
「……許してくれるの?」
にゃあ、と、鳴いた。
♢♢♢
獏と覚に連れられてやって来たのは、流れの穏やかな川だった。さらさらと衣擦れのようなせせらぎが聞こえてくる。
「いい? その猫を向こう岸に置いてくる。そして“在るべき形に還りたまえ”と言いながら宙で魂を掴んで、ふわっと放す。その魂の幸福を心から願いながら」
「……それだけ?」
「それだけって……。まぁ、言葉にしたら簡単だけど簡単じゃない。魂を掴むのも感覚がいるし、放す時はしっかり霊力を込めながらだよ。出来るの?」
「……やってみないとわからない、かな」
はぁ、と大きなため息をつかれる。だってやったこともないのに出来る! だなんて嘘はつけない。
「ここで待っていてね」
向こう岸に渡り、そっと小さな体を置く。指を立てながらそう言うと、にゃあ、と猫は返事をくれた。
「あ〜あ。勝手に渡し守の仕事させたこと天舞にバレたら減俸だよ、減俸」
「天舞の気分次第では、首飛ぶかも」
「勘弁して」
世知辛いふたりのやり取りを尻目に、私はただ目の前のことに集中をする。
霊力とか言われても正直まだ要領を得ない。だけど、なんとかしたいという気持ちだけは体の底から湧いてくる。
何より、この子の幸せを願っている。今世も、来世も、この子にとって幸せが溢れる人生だといい。
「――在るべき形に還りたまえ……!」
宙で魂を掴んで―――放す!
「どうかあの子が、今世でも来世でも幸せでありますように。だいすきな人とまた会えますように。寂しくありませんように」
♢♢♢
――現世
「ハナ! ハナ! どこにいるの!?」
三十代くらいの女性が誰かを探して街中を駆けずり回っていた。すっぴんにサンダル、ジャージ姿。恐らく着飾る時間も余裕もないほど緊急事態なのだろう。何事かと訝しげに振り返る人々の視線も気にせず、女性は必死に声を上げる。
「すみません! 猫を見ませんでしたか!? 薄灰色と白の毛が混ざった子で……」
道行く人々に聞いて回っても、有力な情報は一つも得られなかった。その猫は女性にとって娘のような、妹のような、とても大切な家族だった。
数時間経っても、猫が見つかることはなかった。力なく女性が自宅マンションへ帰ると、女性がいつも弾いていたピアノの下に薄灰色の体が丸くなっていた。
「ハナ……!」
体はもう、冷たくなっていた。
「ハナ………ここにいたんだね……」
ハナは飼い主のその女性と、彼女が弾いてくれるピアノの音色が大好きだった。
最愛の人の腕の中で、ハナは永い眠りについたのだった。
時を同じくして、事の顛末を見届け、マンションのエントランスから人知れず去った白い髪のあやかしの姿は誰にも視えていない。
「はぁ。首、飛ぶかなぁ」




