第三十九話 馬鹿
獏の静かな闘志を前に、夢魔は嬉々として舌なめずりをした。
「……夢魔」
しかし、今にも飛びかかってきそうな勢いの夢魔にストップをかけたのは他ならない獏だった。
「……ボコす前に一旦、あんたと話がしたい」
「……は?」
夢魔が左眉をぴくりと上げた。
苛立ちながらもとりあえず話を聞く気はあるのだろう。
殺気は出したままに、夢魔は一度踏み込んだ足をぴたりと止めた。
「……確かに俺はあんたと組んで、悪事を働いた。どんな理由があろうと許されないし、いくら罪を償ったところで許されちゃいけない。
生きてたってしょうもないし、ムショを出たら死のうと思ってた。
でも怖くて死ねなかった。死ねなかったから生きるしかなかった。……今もそうやって惰性で生きてる」
知らなかった。
獏が、そんなことを考えながら生きていたなんて。
私は本当に何も知らなかった。
表面上で相手を見て、決めつけて。
真実は、目に見えないことの方が多いのに。
「地獄じゃん」
夢魔が鼻で笑う。
「地獄だよ」
獏は怒ることも、嘆くこともなく、ただその言葉を受け入れた。
「死ねたら楽なのにって何度も思った。食べる物がなくて、安心して眠れる場所もなくて。頼れるヒトもいなかった。
夢魔……あんたと出会うずっと前から地獄だったんだよ、ここは……」
獏の口から断片的に語られる過去。
獏の主食は悪夢。
そんな獏が食べる物に困り、安心して眠れる環境に身を置くことも出来ず、結果的に夢魔と手を組んで罪を犯さざるを得なかった……。
やっと夢魔が語っていた、夢魔が人間に悪夢を見せて、その悪夢を獏が食らっていたというあの話が点と線で繋がる。
獏は生き延びる為に夢魔と手を組んだ。
そして今でもそれを後悔して、自分を責め続け、自分は許されてはいけないのだと心に重石を付けて。
「うんうん、わかってるよ。本当にお前、可哀想だったもん。
……で、それが何?」
夢魔の声がワントーン低くなる。
夢魔のあの口ぶりでは獏の過去、そしてなぜ獏が犯罪の片棒を担ぐことにしたのかをすべて把握しているのだろう。
だから夢魔にとってこの話は“今更”でしかない。
「……渡し守は魂を守る。そんな渡し守の守護あやかしをすれば、俺も魂を守れる、かもしれない。
許されたいわけじゃない。何をしたって俺とあんたが奪った人間の人生は元通りにはならない。でも、今は一人でも多くの魂を救いたいと思ってる。
それが例え、ただの自己満だとしても」
ぽつり、ぽつりと雨のように静かに語られた獏の独白は想像以上に静かで、重い。
「ぷっ……、くははははははははっ!!」
その静かな空間を切り裂いたのは夢魔の邪悪な高笑いだった。
獏は何も言わずに、ただ夢魔の歪んだ笑い声を聞いている。
(夢魔は、狂ってる……)
濡れ女の言動には深い理由がなかった。面白いから遊ぶ、食いたいから食う。それ以上の感情はない。
でも夢魔は違う。
今の夢魔を突き動かしているのはすべて“獏への私怨”でしかない。
獏を苦しめたい。獏を貶めたい。獏を傷つけたい。獏が平穏な日々を送ることを許さない。
その言動にはすべて獏が紐づいている。
「ありがとう獏! 最高だよ! 感動した。素晴らしい懺悔だったよ!」
夢魔は拍手をしながら獏の苦しい独白に終止符を打つ。その表情は恍惚としており、酷く興奮していた。
「……でもさぁ。違うよ獏。
オレが欲しいのは人間の真似事みたいな綺麗なお話をするお前じゃない。生きることに絶望してた……空っぽで、ただ流されるだけの、可哀想なお前だよ!」
獏は夢魔をじっと見ている。獏のその赤い瞳には、ここへ来た時のような激情はもう宿っていなかった。
「つーかさ、お前が変わったのって、あのお嬢さんのせい? それとも天狗のせい? こいつら消せばお前はまた生きるのが辛くなる?」
夢魔には獏の想いは届かない。
獏は諦めたように静かに息を吐き、薄い唇を開いた。
「……わかんないなら仕方ない」
外套の袖に手を入れる。
取り出したのは複数枚の札。
吸引、とでかでかと書かれたその札は異様な光り方をしている。
そして、私はその緑色の光にやけに見覚えがあった。
「……天舞、さん?」
獏がこくりと頷く。
緑色の幻想的な光を放つその札の文字は、濡れ女を落とした魔法陣のあの光に限りなく似ている。
「天舞が持たせてくれた。手っ取り早く勝ちたい時にこれ使えって」
「手っ取り早く……なんという雑な……」
それは無駄が何よりも嫌いな天舞らしい、だいぶ力技の解決法だった。
「あははっ、天舞さんらしい」
思わず笑いがこぼれる。
しかし、根拠なんかないのに天舞がそうしろと言うのなら間違いないと思えてしまうのだから不思議だ。
周りにそう思わせる力こそが天舞を烏天狗の頭領兼、守護あやかし筆頭たらしめているのだろう。
「なに? 陰陽師ごっこでもすんの?」
夢魔は獏が掴んだ札を見てせせら笑った。
獏はそんな夢魔を見ても表情一つ変えない。
まずは一枚。人差し指と中指で札を挟み、滑らせるように夢魔へ向かって――放つ!
同時に「往け」と獏が呟くと、まるで命を持ったように札が夢魔の体へと張り付いた。
そして二枚、三枚、四枚、五枚と同様に札は意思を持って夢魔の体のあちこちにひっついていく。
「は? なにこれ? は?」
夢魔が顔や腕についた札を無理に剥がそうとしてもびくともしない。なんなら剥がれるどころか粘着力の強いテープのように皮膚まで引っ張られてしまっている。
「っ、ざけんなよ……! おい獏! なんだこれ! こんなのっ……お前にはできねぇよな!? あの天狗の入れ知恵か!?」
獏へ向かって責め立てるように喚き散らすと、夢魔はふらつきながら一歩後退をして、そのまま片膝をついた。
さっきまでの全身から漲る生命力が嘘のように顔は青白く覇気がない。
一体、何が起こっているのか。
未だ理解が出来ずに獏と夢魔をおろおろと交互に見ている私へ、補足するように獏は言う。
「天舞のあの札、一時的に霊力を吸い上げてくれるらしいよ。まぁ、数刻で元には戻るらしいけど」
「……あ、だから吸引!」
札にわかりやすく書いてあった吸引の文字の意味を理解してすっきりする。身代わりくんしかり、吸引しかり、天舞のネーミングセンスがなんの捻りもなく安直であるということには一旦、触れないでおこう。
「……夢魔」
獏は畳に片膝をついたまま動けなくなった夢魔の前まで歩くと、同様に片膝をついた。
夢魔は今にも飛びかかりそうなほどその目に獏への執念の炎を宿しているが、吸引された霊力が思いのほか多かったのか、立ち上がれずにいる。
ただ、憎き獏を前に何も出来ず膝をつくだけの自分が許せないのか、ぎりぎりと奥歯を噛みしめていた。
獏はそんな夢魔へと静かに語りかける。
「……俺はあんたと組んでいたあの頃、それがいけないことだって考えもしなかった。そんなことに気づけないくらい、馬鹿で、空っぽで……飢えてた。別に死んでも良かったんだから、食わずに死ねば良かったんだ。
でも、そうしなかったのはきっと多分、もしかしたら……もしかしたら、いつか今よりはマシな未来があるって、心のどこかで期待していたのかも。
まぁ、その後すぐあんたと出会って無事犯罪者になるんだけど」
「ははっ、馬鹿だねぇ」
「うん、馬鹿だね。でも、だから、俺は死なない。いけないことをしてまで食いつないでここまできたんだ。この命を絶対無駄にはしない。
この町で、守護あやかしとして……やれること、やってみる」
それは獏なりのけじめだったのかも知れない。
獏のその声は、表情は、先程までの雨のような懺悔ではない。無駄な言葉で飾り立てない、ありのままの獏の本音だ。
夢魔は「だからもう邪魔すんなってか?」と左の口角を上げた。
獏は首を横に振る。
「俺は自分の命を無駄にはしない」
「それはさっきも聞いたっつの」
「でも、八百年経っても俺のことが憎くて仕方なかったらまた殺しに来てよ」
「……は?」
八百年。
それは夢魔の刑期が終わる年月。
獏は片膝をついたまま、真っ直ぐと、静謐に夢魔へと語りかけ続ける。
「俺はもう何があってもあんたとは手を組まない。堕ちない。だからあんたの望みは叶わないかもしれないけど……八百年後も許せないままだったら代わりに殺しにきていいよ。まぁ、抵抗はするけど」
途方もない時間だ。
あやかしや悪魔からしたってきっと短い年月ではないだろう。
殺しにきていいよ、と言う獏は、決して以前のように死にたいと願って口に出したわけではないだろう。抵抗するというのは、大人しく殺されるつもりはないということだ。
その言葉は、ただ、夢魔に、生きてほしい、と言っているように聞こえた。
憎しみでも、執着でもいい。
八百年先まで、生き抜いてここへ来いと。
「馬鹿だね、お前は。……本当に」
吐き捨てるように笑う。
その表情からは先程までの殺気や毒気はすっかり抜けきっていた。
「相変わらず世間知らずで甘いねぇ。そんなんだから騙されんだよ。馬鹿の癖になに語ってんだよ」
「…………」
「はぁ……お前みたいな馬鹿と共犯なんてするんじゃなかった。
馬鹿はすぐ罪悪感とかいう下らねぇ感情で裏切る。なんもできなくなる。それでヘマして捕まる。
役立たずのお荷物だ」
夢魔の言葉に、ぐっと獏は唇を噛みしめた。
「……なのに、なんでこうなったのかなぁ」
そう語る夢魔の瞳には今も――獏の姿しか映っていない。
それでもその眼差しはさっきまでとは明らかに違う。
夢魔は過去ではなく、今、目の前にいる獏のことを見ていた。
「いつでも切り捨てられるお荷物だって馬鹿にしてたお前に……気付けばオレの方が捨てられてたんだなぁ」
夢魔は笑った。
今までの他人を小馬鹿にしたような笑い方ではない。
お荷物だと軽んじていたはずの獏はもう、この世のどこにもいないのだと気が付いた瞬間、自分の敗北を知った。
そんな自分の愚かさを嘲笑うように。
それからの夢魔は幽世から刑務官が来るまでの間、余計な言葉を発することはなかった。
獏もなにも言わず、ただその傍らで体育座りをしていた。
「……朝だ」
縁側の障子を開けると、庭の池にきらきらと朝日が反射して光の帯を広げている。
庭の草木から立ち上る青い香りに夏を感じた。
夜中の争闘などまるでなかったかのように、三人で静かな夏の朝の中にいた。
――蜩が鳴いている。
今日も暑くなりそうだ。




