第三十八話 言うこと聞いてあげる
「……で、昔話はもう終わりですか?」
男の顔が憎悪に歪む。元の作りの良さが嘘のように醜悪だ。
そして怒りでぶるぶる体を震えさせたかと思うと、凄まじい勢いで腕を伸ばし――
「ぐっ……」
私の首を絞め上げてきた。
「あーあ。獏の悪行を暴いて、悪夢をたっぷり見せてどん底に突き落としてから食らおうと思ったけど気が変わった。めんどくせぇ。
もういいよ――お前このまま死ねよ」
「あ、がっ……」
ぎりぎりと無遠慮に締め上げられ、気道が既に苦しい。逃げ場のない息苦しさに涙すら出ない。
なんとか首に食い込む指を外そうと精一杯の力で抵抗しても、男にとっては私の微々たる力など小鳥に啄まれているような物だ。
私の首を絞め上げている最中でさえ、男がその目に映しているのは獏ただ一人だけだった。
「お前を殺したら獏は狂うかなぁ。そうしたらオレを殺すのかなぁ。
ああ、それもいいな……。さっさとここまで堕ちてこいよ、獏……」
恍惚とした声と表情で語る。
まるで愛する恋人に焦がれるように。
(だめだ……苦しい……)
光が、閉じていく――
音も色も遠ざかって、ただ呼吸がしたくて、でももう私のいる世界のどこにも酸素が残っていない。
(叔父さん……ごめん……。私、何も成し遂げられなかった。やっと渡し守見習いになれたのに……)
意識が遠退いて、もう何も考えられない。
終わりを覚悟した次の瞬間――
「っ、沙耶っ……!」
誰かに名前を呼ばれたかと思ったら、私の体は大きく畳の上へと放り出されていた。
「かはっ……はっ……はっ……はっ……!」
なにが起きたのか状況を理解しようにも、まずはやっとの思いで吸えた酸素を取り込まないことには思考どころか視界すらも定まらなかった。
ようやく肺に酸素が巡って世界に色が戻ってきた時。
私は、私を庇うようにして立っている背中の存在に気がつく。
黒い外套、綺麗な白い髪の毛、そしてお世辞にも良いとは言えないその姿勢。
「っ、ば……く……さっ……」
来てくれた。助けに。
素直に嬉しい気持ちがまず最初に込み上げてきた。
けれど、獏に蹴り飛ばされ奥の部屋に繋がる襖ごと張り倒して倒れ込んでいるその男は――危険だ。
獏への歪んだ執着をまざまざと見せつけられた後だからこそ。
(獏さんをここに連れてきても良かったの……?)
付随して、言いようもない不安が付きまとってくる。
男は外れた襖を持ち上げながら、気味が悪いくらいの満面の笑みを貼り付け立ち上がる。
「……痛いじゃん、獏」
そしてそのまま襖を畳へと強く叩きつけた。
のどかな田舎町の夜には相応しくないその騒音に思わず耳を塞いだ。
獏の表情は見えない。
それでも背中越しに伝わる。
纏っている空気が、酷くぴりついている。
これまで見てきた獏は感情の起伏があまりなく、その声はいつもどこか平坦だったのに。
「……夢魔っ……!」
獏が、怒っている。
獏が夢魔の名を叫んだのを合図に夢魔は凄まじい速さで獏へ飛びかかってきた。
獏は背中に私を庇ったまま攻撃をいなす。その反応のよさに夢魔はすっかり気分を良くしたのか、更に追撃の手を早めた。
夢魔の拳は何度も獏の毛先や足先を掠めるも、獏は器用に腕で受けて流したり身を捻ったりしてどれも華麗に交わしてしまう。
にも関わらず夢魔はニタニタと笑って、まるでダンスでも踊るかのように獏へと襲いかかる。
「あっはは! 体は鈍ってないみたいだねぇ! えらい人達とつるんで、お嬢さんの警護ごっこなんかしてるって聞いたから心配してたけど、オレの杞憂だったかなぁ!?」
獏は答えない。
その間も夢魔の攻撃は緩まなかった。
「あ、そういやさぁ」
夢魔はなんてことない、あくまで友人とのただの雑談のように軽い声で話す。
「さっきそこの渡し守のお嬢さんに、お前の過去……
お前がぁ、オレと組んで何をしてたか――話しちゃったけどいいよな?」
「……え」
獏の動きが明らかに鈍くなる。
夢魔は目を細め、この瞬間を待ってましたと言わんばかりに獏の鳩尾に重たい蹴りを一発入れた。
「ぐぁっ……!」
「うっ……」
その衝撃で獏の体が後ろへ大きく飛び、獏の背に庇われていた私もまとめて一緒に吹き飛ばされてしまう。
幸い少しずれて転がったので私が獏の体に下敷きになることはなかったが、獏は呻き声を上げながら鳩尾を押さえて畳の上に這い蹲っていた。
「ばくさんっ……!」
呼びかけても返事はない。
夢魔は獏が苦悶の表情を浮かべ床に倒れ込む姿を見て、思わず耳を塞ぎたくなるような甲高い声を上げて笑った。
そして、ゆったりとした歩みで獏の方へと一歩、また一歩と近づいていく。
(駄目だ……獏さんが、危ない……!)
私は考えるより先に立ち上がり、転がるように獏と夢魔の間に割って入った。
しゃがみながら両手を広げ、これ以上は行かせない、と強い意思を込めて睨みつける。
「……あ?」
夢魔はもうその声に苛立ちを隠そうとはしなかった。
せっかく獏と楽しく遊んでいたのに邪魔をするな、といったところだろう。
それでも私は大人しくここを退くわけにはいかない。
「邪魔だよぉ、お嬢さん」
「邪魔してるの!」
「はぁ? なにこいつ。やば。え、渡し守ってこんなめんどいの? つか獏……お前、よくこんなうるさい女を守ってんねぇ」
まるでゴミを見るように夢魔は私を見下し、けらけらと笑いながら爪先で何度か私の肩や膝を軽く蹴った。その衝撃で後ろにふらつくも、私は絶対にどかないという強い意思表示を込めてもう一度、夢魔を睨みつけた。
「……本当に可愛くない女だね。可愛くない女に価値なんかないよ」
夢魔の声に影が落ちる。
獏の前から一向に退こうとしない私にいよいよしびれを切らしたのか、夢魔は振り子のように片足を後ろに大きく振り上げた。
「それ以上ブスになったら可哀想だから顔はやめといたげるね。オレって優しいね」
――やられる。
そう覚悟した瞬間、私の体がふわりと浮いた。
そしてその先の布団の上へと優しく下ろされる。
「獏さんっ……!」
獏は私を布団に下ろした後「ごめん」と目を伏せた。
声がかすかに震えている。
(この人は……)
他人に無関心なのではない。優しすぎて、臆病で、怖がりなんだ。
自分が傷つくのも、誰かを傷つけるのも怖い。だから知らないふりをする。見ないふりをする。一人を選ぶ。
そもそも本当に無関心なら、わざわざ魂を救う仕事なんかしない。誰かを守ろうなんて思わない。
……私を助けになんかこない。
「……獏さん」
手を伸ばして、白い頬に触れてみた。
びくり、と臆病な体が跳ねる。
そして――後悔で伏せられた赤い瞳は、揺れながらも私の姿を映した。
これだけは今、伝えなくてはならない。
揺れる視線を捕まえるように、真っ直ぐと見つめて言葉にする。
「……助けにきてくれて、ありがとう」
獏とこんなに長い間、目が合ったのは二回目だった。
初めては、燃えていない魂を前に、不安で泣きそうだったあの時。
「まだ間に合う。大丈夫」
そう言ってくれた時と――今。
獏はきっと私が危険な目に遭ったのは自分のせいだと責めて、ごめんと口にしたのだと思う。
けれど私が危険な目に遭うなんて今回に限った話ではない。きっとこれからもあるだろうし、だからこそ渡し守には守護あやかしがいる。
そして私はこれからも図々しく獏に頼る気満々だ。むしろ謝らないといけないのはこちらの方かもしれない。
(でも今は何より……)
にたにたと趣味の悪い笑みを浮かべながら私達のやりとりを傍観していた男を見据える。
これ以上、この男を獏の傍に置きたくない。
男は私の視線に気づいたのか、笑いながら手を振ってきた。
さっきまで蹴り飛ばそうとしていた相手に、だ。
(嫌いだ、こいつ……)
「獏さん」
私は不快感を微塵も隠さず、なんなら悪意すらうっすらと込めて言った。
「お友達を悪く言って申し訳ないんですけど……個人的にあいつがとても嫌いなので、軽くボコしてもらえると助かります」
獏は目を丸くして……そして――噴き出した。
「ふはっ」
「えっ」
「やっぱりあんた、変だよね」
「あ、やば……。もしかして個人的な好き嫌いで守護あやかしを使うのって、さすがにまずいですか? パワハラ?」
あたふたする私を見て、獏はまた笑った。そしてその背に再び私を隠すように立ち上がった。
「……うん。あいつとは友達なんだけど、渡し守が嫌いなら仕方ないね」
そして獏は夢魔と向き合う。
「守護あやかしとして、たまには言うこと聞いてあげる」
「……いいねぇ」
獏の静かな闘志を前に、夢魔は嬉々として舌なめずりをした。




