第三十七話 昔話
「お嬢さんは獏とだいぶ親しいのかなぁ」
――獏。
男の口から語られた名前にわかりやすく短い呼吸をしてしまった。
その音を男は決して聞き逃さない。
右側の口角を上げて、まるで獲物を見つけたかのように追い詰めてくる。
「……別に親しくはないですけど」
「はい嘘ぉ」
突慳貪にそう言うも、男は取り合おうとしない。けらけらと馬鹿にしたように笑うばかりだ。
ピンク色の髪の毛をくるくると長い指に巻き付けながら言った。
「獏があんなに楽しそうにしてんの初めて見たからさぁ」
嫉妬しちゃった、と甘い声で呟く。砂糖というより蜂蜜のようにねっとりと鼓膜にまとわりついてくる。
けれど、その甘い声に反して私を見る目はちっとも笑ってはいなかった。
むしろ私に嫉妬するほどの価値があるのかどうか、値踏みしているようにすら思える。
そこで私はふと首を傾げる。
――獏が楽しそうにしている? 私といる時に?
今日一日どころか、出会ってから今までを振り返っても全く身に覚えがなかった。
あの無愛想な獏が、楽しそうだったなんて。
獏は口数が多い方ではないし、積極的に会話に参加するタイプでもない。むしろ私だけが勝手に一人で話している。
いつも気怠げで、口を開けば「めんどい」「眠い」を繰り返しているし、だから会話だって必要最低限、だと思う。
「……勘違いだと思いますよ」
さすがに身に覚えがないことで嫉妬されるのは困るので正直に申告した。
すると男は声を上げて笑う。
「君って、すっごく鈍いんだねぇ」
その言葉はなんてことないただの私への評価であるはずなのに、その裏側には細かい刃のような物が無数に仕掛けられていてチクチクと皮膚を刺した。
明確な敵意だ。
――この男は危険。
渡し守としての能力なのか、それとも私個人の好き嫌いなのかはわからないが、本能が警鐘を鳴らしている。
じりじりと後ずさり少しずつ距離を取るも、男はそれさえも面白そうにして同様に少しずつ距離を詰めてきた。
「昔話ってさっき言いましたけど……一体なんの話ですか?」
内容はどうでもいい。
このまま距離を詰められ続ければ、遅かれ早かれ殺される。
そう思った私は少しでも話を引き伸ばすことにした。その間になんとかこの状況から脱する方法を探さないと……。
私の質問に気を良くした男はよくぞ聞いてくれました! と言わんばかりの満面の笑みで、わかりやすく声を弾ませた。
「決まってるじゃん!
オレと、獏の昔話」
獏、と発した声だけ心なしかワントーン下がったような気がして、私の疑念はここでようやく確信へと変わる。
この男の真の狙いは私ではなく、獏だ。
けれど私はまだその事実に気がついていないように接する。
「ねぇ。お嬢さんから見て、獏ってどんな奴?」
こてん、と首を傾げて無邪気にそう聞いてきた。
何も知らなかった頃であれば、まんまとその仕草に騙され顔を真っ赤に染めていたかも知れないが、今はそれすらも不愉快だ。
不愉快だが、少しでも会話を引き伸ばさなければ……。
私は渋々、言葉を探しながらも獏のことを考える。
「獏さん、は……、最初は無気力でやる気がない人だと思ってました。でも思い返せば、口数は少ないけど、少ないなりにいつも大事なことを教えてくれていた気がして……」
初めての迷い子。
ネコの魂に必要以上に関与しそうになった時も、薫さんや浅田さんの時も――そして今日の夢魔によって悪夢を見せられ続けていた男性の時も。
獏はいつだって、必要最低限の言葉と行動で正解を示してくれていた。
「獏さんのこと……今は尊敬しています。とても」
自然と出た言葉だった。
顔を上げて、真っ直ぐそう言い切った私に、男はうんうんと何度も満足そうに頷きながら「ブラボー!」と拍手をした。
「つまりお嬢さんは獏のこと、善人だって思ってるってことだ?」
「……なにが言いたいんですか?」
「あはは、ごめんね。お嬢さんの獏への評価が高ければ高いほどこの後の展開を思って……くっははは……笑いがっ……止まらないよっ……」
目尻に涙を溜めながら笑う。どこまでも人を小馬鹿にした不愉快な奴だ。
私はキッと強く男を睨みつけた。
「さっきからなんなんですか?」
男は笑いながら、ごめんごめんと心にもない謝罪を口にしながら目尻の涙を指で拭って言った。
「だってさぁ、獏ってぇ……
昔、オレと組んで犯罪行為をしてたんだよ?」
「……は?」
思いもよらない暴露に何も言えなくなる。目を見開いて、言葉も発しなくなった私を見て、男は「あ……知りたくなかったよね。ごめんね」とわざとらしく謝って、言葉を続けた。
「いや、別に大した話じゃないよ。犯罪っていうのはさぁ……オレがまず、悪夢を作って人間の女に無理やり悪夢を見せるでしょ? そんでぇ、獏はその悪夢をおいしく食らって、で、オレはその後、弱りきった女の生命を食らうの。
各々の能力を活かしたよく出来た仕組みでしょ?」
冷や汗が背中を伝った。
獏が……あの獏が犯罪行為……?
「うそだ……」
今日、あんなにも必死に魂を救おうとしていた人が、直接的ではなくても生命を奪う行為に加担していた……?
どうしてもそこが直結しなくて、私は現実逃避をするように何度も首を横に振った。
私の知る獏と、男の口から語られる獏がどうしても結びつかない。
男はそんな私の心の揺らぎを見逃さなかった。
ここぞとばかりに追撃の手を緩めない。
「騙されてるよ、お嬢さん」
「……」
「信じたい気持ちはわかるけどさ。残念ながら悪い奴だよ、あいつ。
共犯の癖にさっさと自分だけ刑期を終えて、なんか運よくすごぉい天狗様に拾ってもらってさぁ。今は善人ぶって魂を救うお手伝いしてるんだっけ? ムショの中でそれ聞いて、オレびっくりしちゃってさぁ。オレなんかあと八百年はムショから出られねぇのにさぁ」
男はもう獏への憎しみを隠そうとはしない。言葉のすべてに獏への憎悪が乗っかっている。
「オレ、友達思いだからさぁ。ムショから出たってどうせシャバに居場所はない。落ちぶれていって、またすぐに戻ってくるって信じてたのに……何が守護あやかしだよ。ありえねー」
ヘラヘラとそう語る男に私は思わず顔を顰めた。
友達? どこが?
男が語った獏への思いの中に一つでも獏を思いやる言葉はあっただろうか? その根底にあるのは獏への妬みばかりで、何一つ獏の幸福を願うような物はなかった。
私は。
過去の獏を知らない。
私が知っているのは今の獏だけだ。
無気力で面倒くさがりで、でもなんだかんだいって面倒見のいい、渡し守の守護あやかし。
私の中にある答えはたった一つだった。
「……さい」
「んん? なぁに? 暗い顔してどうしたの? あ、もしかして、絶望しちゃった?」
「うるさい」
「ええ?」
「うるさい、黙れ!!」
突然叫び出した私に、男は目を丸くして僅かに動きを止めた。
多分、私が絶望して獏を非難するとでも思っていたのだろう。
こいつが作ったそんな陳腐な筋書きにのってたまるか!
「過去の獏なんてわからない! だって私の知らない人だもん! 私が知ってるのは……一緒にいるのは今の獏! 今の獏が今の自分の行いに胸を張れるならそれでいい。過去なんか過去でしかない。
過去は過去。夢は――夢!」
私が叫んだ瞬間。
空間にピシッとひびが入る。
ひびが入った所からパズルのように崩れ落ちていき、空気が少しずつ清浄に戻っていく。
「は、何してくれてんの……!? オレの悪夢は完璧だったはずなのにっ……!」
男は悪夢を破られた経験がないのか、半狂乱で崩れていく空間を止めるために必死に手で押さえようとしていたが、それよりも崩壊の方が遥かに早かった。
気づけば私達は叔父の自宅――寝室へと戻っていた。
寝室は眠る前と何も変わらない。
布団に枕に、ちょっとした文机と掛け軸が掛かっているくらいの簡素な部屋。
『夢は夢』
叔父が授けてくれた言葉を胸の内でなぞる。
夢は夢でも、叔父さんと会えて良かった。
この言葉がなければ今もきっと私はあの悪夢に囚われたままだった。
(ありがとう、叔父さん……)
叔父との逢瀬をぎゅっと宝箱にしまいこんで、私は現実と対峙する。
「……で、昔話はもう終わりですか?」




