第三十六話 黒い薔薇
私はどうすべきか考えあぐねていた。
ここで夢魔の正体に気付いたことが夢魔本人にバレたとして、早々に殺されるリスクが上がるのではないかと思ったのだ。
先日の濡れ女と同様、夢魔も人間が恐怖に震えるのをおもしろがるタイプだと仮定しよう。
それならばまだ助かる算段がつくまでは、夢魔の手の上で踊らされていた方がいいのではないか。
「叔父さん! どこなの!? 返事をして!」
私は未だに悪夢の中で叔父を健気に探し続ける姪の猿芝居を続けていた。
渡し守は霊力が高く、迷い込んだ魂を元の場所へ迅速に戻せる以外は普通の人間だ。とてもじゃないが一人であやかしや悪魔と戦えるほどの身体能力はない。
だからこそ渡し守の守護あやかしが存在するのだろうが、なんといってもここは私の夢の中だ。誰でも彼でも入ってこられるわけではないだろう。
恐らく、獏、以外は。
獏が助けにきてくれる保証など勿論ない。
忘れ物と言って道を引き返してから結局は戻ってこなかったし、そもそも私が今、夢魔に襲われているなんて思ってもいないだろう。
襲われた張本人である私ですら、一体いつ狙いを付けられていたのかもわからないのだから。
それに私だってただ大人しく助けにきてくれるのを待つような、お飾り渡し守にはなりたくない。
(大人しく悪夢に囚われてたまるか……!)
酸素が薄いせいで息が苦しい。仮に今、戦闘になったとして、夢魔から逃げるために走り続けるのはかなりきつい物がある。
だからこそ私はなるべく体力を消耗しないように叔父を探す“ふり”をして、辺りを警戒しながらゆっくりと歩を進めた。
できるだけ時間稼ぎをして、なんでもいいからこの状況を打破する糸口を探してみせる。
すると――こつこつこつ、と後ろから踵を鳴らす音が響く。
「……叔父さん?」
振り返ってもそこには誰もいない。
さっきまで風なんか吹いていなかったのに、びゅうと生温い風――のようなものが首筋を掠めた。
私は反射的に首筋をおさえる。
「熱っ……!」
首筋がひどく熱を持っていることに初めて気がついた。火傷するほどではないが、明らかにじわじわと熱を帯びている。
さすがに夢の中だしいつも持ち歩いているミラーはないよな……と半ば諦めながらポケットを探ると、固いプラスチック素材が指先に当たる。
(ミラー、ある……)
夢だからなのか、それとも夢魔なりの気の利いた演出なのか。
やけに都合よく用意されたミラーを取り出して首筋を確認した。
「……な、にこれっ……」
熱を持っていたそこには黒い薔薇のような模様が浮かび上がっており、妖しい光を放っていた。
気味が悪い。
何度か強めに手のひらで擦っても消えることはない。
そこで私はようやく思い出す。
獏と別れて、緊急対応室へ向かう途中。
モデルのようなイケメンとぶつかった。
そしてその後、首筋にチクリとした痛みがはしって、この鏡で確認した時、赤く腫れていたのだ。
あの時、ただの虫刺されと思って気にも留めていなかったけれど、あれはもしかして――
「やっと思い出してくれたかな? うれしいよ!」
後ろから……ではない。声は真上から降ってきた。
真上を睨みつけた時、また生温い風が首筋をぞわりと撫で上げた。
「あはは。そっちじゃないよ」
今度は右側から。
「また会えたね! 渡し守のお嬢さん……」
ねっとりと耳元で聴こえた声に肌が粟立つ。
反射的に距離を取ると、男は残念そうに「え〜、もう少しくっついてようよ」と唇を尖らせた。
知ってる。
私はこいつを知ってる。
「こわぁい顔だね、渡し守のお嬢さん。
でも、すっごくおいしそうだ」
綺麗な顔にはそぐわない下卑た笑みを浮かべる男。
ぞくりと嫌な予感が背筋をはしる。
そいつは今日、確かに帰りがけにぶつかった。鮮やかなピンク髪を持つ、油断すればつい魅入られてしまいそうなほど派手な生命力をまとった、あの男だった。
違うことといえば頭から真っ黒い山羊のようなツノが二本生えている。
はだけたシャツからは、胸元から首筋にかけて彫られた蔦のようなタトゥー。蠍や蜘蛛のタトゥーも見えていた。
「……わあ、首筋の印きれいに出たね」
男は首を少し傾げて自分の首筋を指でとんとん、としながら自分がつけた物であることを指し示した。
「これ、あなたがつけたんですか? 今すぐ消してください。渡し守、多分タトゥーはNGなので」
「ええ? そうなの? 時代錯誤も甚だしいね。……でも駄目だよ。その首の印は、今夜あなたの夢にお邪魔しますっていう招待状みたいなモンなんだから。
ていうかさ、薔薇なの可愛くない?」
勝手に招待しておいてよく言う。
「可愛くない。悪趣味です。私は薔薇より向日葵が好きなので」
私は男を睨みつけながら今の自分にできる精一杯の反抗をする。
男は「向日葵かぁ」とくつくつと笑い、しばらく私の反応を楽しんでいたが、何かを閃いたのか、突然、あっと声を上げた。
……嫌な予感がする。
男が次になんと言うのか、身構えながら言葉を待った。
「まだ時間はあるし……ちょぉっとだけ昔話をしようか」
にこりと優しく微笑んだはずなのに、その表情はどこか退廃的で昏かった。
まるでこの夢そのものであるかのように――




