第三十五話 普通になりたい
獏は走っていた。
町ですれ違うあやかし達は、息を切らしながら全力疾走をする獏を見て思わず足を止めた。二度見、いや三度見までするあやかしも現れる。
そして皆が揃いも揃って墨色の空を見上げた。
「……今日は雪でも降るのか?」
真夏だというのに。
緊急対応室にはまだ灯りがついていた。
ばたん! とやたらと大きな音を立てて獏が入ってくる物だから、さすがの天舞も目を丸くして作業の手を止める。
いつもはのそのそと怠そうにそのドアを開ける獏が珍しく息を切らせてそこに立っていた。
「どうした?」
天舞の問いかけに答えもせず、獏は何かを探すようにきょろきょろと室内を見回す。
「……渡し守は?」
「とっくに帰った」
天舞は獏から視線を外し、再びタイピングを始める。
時計の秒針、タイピング音、獏の荒い呼吸の音だけが今この瞬間にある音の全てだ。
「何かあったか?」
獏は答えない。
答えない、というより、答えられないといった方がいいか。獏が酷く動揺しているように映った。
珍しいこともあるもんだ、と天舞は目を見張る。
この獏という男は出会った時から感情表現が乏しかった。喜怒哀楽に殆ど波がなく、笑うことはあっても声を上げることは滅多にない。理不尽な目にあっても怒り狂うこともなく、ましてや泣くことなどはもっと有り得なかった。
そんな男が今、見たこともないくらいに取り乱しているのだ。
こんなに面白いことはない。
獏は乱れた呼吸を整えながら静かに、しかし明確な怒りを滲ませて告げた。
「あいつが……あの“夢魔”が……
幽世刑務所から脱獄したっ……」
「……は?」
天舞が立ち上がり、椅子ががたりと床に倒れた。
「今日の燃えない魂の件、あいつのやり口とは違うし、結界が弱まったことで流れ着いた別の夢魔による犯行だと思った。でも、念のため幽世刑務所まで面会に行ってきたら……看守を買収して、正々堂々と脱獄してた……!」
看守を買収。
どうりで手配書が出回らないわけだ。
はぁぁぁぁ……と深いため息をつきながら天舞は倒れた椅子を直す。
そして再び腰かけて獏へと問いかけた。
「……で、なぜお前は渡良瀬沙耶の所在を真っ先に確認した?」
獏は何も言わない。
ゆっくりと拳を握りしめ、やがて俯いた。
天舞はスっと目を細め、過去の獏を今の獏の姿へと重ねる。
獏は“あいつ”が関わるとどこか弱気だった。
付き従っているわけではない。恐怖に支配されていたわけでもない。利害の一致だと互いに語った。そう調書にはあったが、獏が投げやりに生きていたからこそ悪友に足元をすくわれたのだと思っている。
投げやりだから深く考えない。流され悪事に手を染める。人生そんなもんだと諦める癖がつく。
共に仕事をする中で、少しはマシになったと思っていたその悪癖が、夢魔という過去の古傷との邂逅をしたことでまた顔を出していた。
またそうして俯くのか、お前は。
天舞は獏の過去も、今も知っている。だからこそ苛立っていた。
「下を向くな!」
獏の肩がぴくりと揺れた。
天舞は畳み掛けるように言った。
「お前の“過去”なんざどうでもいい。今更誰も気にしちゃいねぇよ。罪を償って、お前はあの日、俺の手を取って、この町に来たんだろう?
お前は今、渡し守の守護あやかしだろうが!」
渡し守の守護あやかし。
その響きに、後悔で枯れそうだった獏の心が水を吸ったスポンジのように潤っていくのがわかった。
無能。孤児。犯罪者――
かつて獏が世間から向けられていた言葉からは考えられないくらい、渡し守の守護あやかしは誇り高い肩書きだった。
大げさに聞こえるかも知れないが、渡良瀬凌に渡し守の守護あやかしになってほしいと直々に頼まれたあの日、やっと自分が普通になれた気がしたのだ。
獏は強く唇を噛んで、そして絞り出すように答えた。
「意味なんかない……。あいつは……夢魔はそういう悪魔だ。昔一緒に落ちぶれていた俺だけが普通になることをあいつは許さない。善人ぶって守護あやかしなんかしてる俺をあいつが許すわけない。
あいつは本来、女の生命しか吸わない。そういう歪んだ執着を持ってた。だから今日の男の件は別の夢魔だって思った。……けど、胸騒ぎがしたんだ」
獏は未だ顔を上げようとはしない。
獏の胸には、いつも消えることのない後悔が燻っている。
今日もまた一つ後悔が増えた。
「……俺は今日ずっと渡し守と一緒にいたから、あいつは悪夢を通して見ていたんだと思う。今の渡し守が女だと知った夢魔が狙わないわけがない……!」
強く握った手の爪が手のひらに食い込んで痛い。
それを痛いというのだと気付いたのもこの町に来てからだった。
『もしかして……もう手遅れってことですか……?』
今にも泣き出しそうな瞳でそう問いかけてきたあの女の子のことを思い浮かべる。
渡し守。
渡良瀬凌の姪。
馬鹿で無知で、根性だけはある、生意気で涙脆くて、多分……優しい人間。
「……天舞、俺」
いってくる。
獏が静かに顔を上げて、前を見た。
「おい」
飛び出して行こうとした獏を呼び止めたのは天舞だった。
「こいつは“とっておき”の時短アイテムだ。持っていけ」
引き出しから“とっておき”だというそれを取り出すと、獏の手に半ば無理やり握らせた。
いつものあの、敗北など知らない顔で笑いながら。
「まぁ、手っ取り早く勝ちたい時のお守りみてぇなもんだ。負けは絶対に許さねぇからそのつもりで」
「……パワハラ」
「ああ?」
「……ありがと」
言うが早いか獏はばたばたと足音を立てて駆け出していた。
大丈夫。
大丈夫。
間に合う。
まだ間に合う。
手遅れなんかにはさせない。
あの時、渡良瀬沙耶に言った言葉を今度は繰り返し自分に投げかけながら。




