第三十四話 夢
「――以上で報告はすべてとなります」
天舞はこちらに目もくれず相変わらず山のように積まれた事務仕事をこなしていた。
いつもブレイクタイムのコーヒーをいれてくれる覚も出張でいない為、デスクの上は書類の束しか乗っていない。
凄まじいスピードでタイピングをしながら「ご苦労。今日はもう上がっていいぞ」と天舞が退勤許可をくれるも、どうにも仕事に追われる天舞を置いて自分だけ帰る気にはなれない。
「あの、天舞さん」
返事はない。代わりにカタカタというキーボードの音が絶えず返ってくる。
「コーヒーいれましょうか?」
ぴたり、とタイピングの音が止む。
天舞はゆっくり顔を上げると、まるで恐ろしい物を見るかのように「なにが狙いだ?」と言った。
毎度、毎度、本当に失礼だと思う。
「いらないんですか?」
不貞腐れた言い方になってしまった。
こういう所は自分でも子供っぽくて駄目だなと思う。
天舞はそんな私を見て、いつもの調子で、ガキだなと鼻で笑う――と思いきや、それには特に触れることなく「熱いのを頼む。ブラックで」と言った。
♢♢♢
覚がいつも仕事中の天舞に出しているコーヒーカップに熱いコーヒーを注ぎ入れる。
重厚感のある漆黒のカップとソーサーはいかにも高級そうではあるが、色といい質感といい天舞のために誂えたのではないかと思う程ぴったりと馴染んでいた。
(疲れた顔してたなぁ)
気まぐれに、なんとなく、疲れが少しでも取れたらいいと思い小さなお皿に個包装のチョコレートも三つほど転がしてコーヒーと一緒にトレイに乗せた。
「お待たせしました」
デスクの上は相変わらず隙間なく書類にまみれている。汚さないよう片手で束を寄せ、ちょっとした隙間を作ってからコーヒーとチョコを置いた。
天舞はちらりと確認するように見て、そしてコーヒーよりも先にチョコに手を伸ばす。
包み紙を外しながら「気ぃ利くじゃねぇか」とほんのり口の端を上げて、そのまま口内にチョコを放り込んだ。
いつも怒られてばかりの天舞に気が利くと言われただけで、なんだかやけに嬉しくて無意識に口元がゆるむ。
(なんか今日はいい夢が見られそう)
特に意味はないけれど、そんな風に思った。
悪夢を見せられ続けたあの人だって、きっと今日見る夢は幸せなはずだ。
そこで私はふと思う。
獏は悪夢を食らうあやかしだというけれど、そんな獏も眠る時は、幸せな夢を見たりするのだろうかと。
そもそも主食が悪夢というのも大変な話だ。なにかしら特殊能力で、今日この人は悪夢を見ると予め予知できたりするのだろうか。
何はともあれ、利害の一致だとしても人を悪夢から救ってくれるなんて獏は優しいあやかしなのかもしれない。
なんて、この時は呑気にそんなことを考えていた。
♢♢♢
帰宅して早々に、お風呂も夕飯も済ませた。
今日はテレビをみるような気分でもないので早めに寝支度を整える。
紐で引っ張る電気をカチッと消して、布団に入って天井を眺める。
叔父の家は広く、それこそ私が以前泊まった客間もあったけれど、私はあえて叔父の部屋で毎日眠っていた。
なんとなくその方が夢枕に立ってくれる気がしたからだ。
私がこの町へきて、叔父が夢枕に立ってくれたことはまだ一度もない。
しかし今日はいい夢が見られる予感がある。
淡い期待を込めて、私は段々と重くなっていく瞼に抗えずに目を閉じた。
今日は特別疲れているのか、身体が布団へ沈んでいく感覚を最後に私は意識を手放した。
♢♢♢
「――やちゃん」
もう朝……?
瞼がまだ重くて目を開けるのが辛い。
正直、今日は疲れているし体も怠いのでもう少し寝ていたい……。
「沙耶ちゃん!」
その時。
はっきりと鼓膜に届いた聞き馴染みのある声に私は飛び起きた。
さっきまであんなに目を開けるのも億劫だったのに、あまりの衝撃に私は目を見開いた。
「お、叔父さ……ん?」
そう呼ばれた叔父はくすりと柔く微笑んでうなずいた。
懐かしいその笑い方にじんわり涙があふれてくる。
「叔父さんっ……!」
勢いよく抱きつくと、わっと少し鈍臭い声を上げながら蹌踉めいた。それがたまらなく叔父らしくて私は思わず噴き出す。
と同時に、これが夢であることも理解してしまって、あんなに夢枕に立って欲しいと願っていたにも関わらず胸が苦しくなった。
――叔父は死んだ。
最初は理解できなかったけれど、この町で生活をして、叔父がいた痕跡を辿る度に少しずつ思い知っていった。
だからこそ私は今もこの町に留まり、渡し守見習いをしている。
それなのにまだ、心のどこかで、叔父がこの世界の私の知らない場所で生きているような気もしていたのだ。
常に一緒に生活していればもっと早くに実感していたのかもしれないが、元々離れて暮らしていたから頻繁に会えないのは普通で。
だからこそ、どこか現実味がなかった。
それなのにこんな風に本当に夢枕に立たれてしまっては認めざるを得ないじゃないか。
喉の奥から、いや、胸の底からせり上がってくるそれを留めておく方法を私は知らなかった。
「っ……叔父さんの馬鹿! なんで死んじゃったの!?」
私は叔父の胸にすがりついて泣いた。
本人に直接伝えることが叶わなかった寂寞の思いをぶつけるように。
「病気じゃないよね? そんなの一言も言ってなかったじゃん! ねえなんで!?」
「沙耶ちゃん……」
「嫌だよ……私の味方は叔父さんしかいないって言ったじゃん……。もう私ひとりぼっちだよ……」
「うん……ごめんね」
叔父は躊躇いながらもそっと、まるで壊れ物に触れるかのように私の髪に手を滑らせた。
亡くなっても尚、困らせている。心配させている。
手のかかる姪でごめんなさいと心の中で謝りながらも叔父を責める言葉を止めることが出来ない。
私は父の顔を知らない。
母は私をいらない子だと言った。
父と母の結婚を最後まで反対していた祖父母も、私を可愛がってはくれなかった。
そんな中で叔父だけが私のことを「可愛い」と言ってくれた。「大切」だと言ってくれた。美味しいご飯を作ってくれて、プレゼントもくれた。誕生日も祝ってくれた。相談にものってくれた。
私を認めて、慈しんでくれたのはいつだって叔父だけだった。
この町へやって来て、叔父の秘密を知り、渡し守になると決めて無我夢中でやってきた。
泣いている時間なんかなかった。
だけど本当はふとした瞬間に、叔父を思い出して、この町に叔父が生きた証を見つける度に泣きたい気持ちがあふれてしまいそうで。
叔父がもし夢枕に立ったら、もっと伝えたいことがあったはずなのに。
口から出るのは子供じみた我儘と嗚咽ばかりで嫌になる。
「……沙耶ちゃん」
叔父は泣きじゃくる幼い子供を宥めるように私の名前を呼ぶと、やさしく抱きしめてくれた。ふわっと鼻腔をくすぐる伽羅の香りにまた胸がぎゅっとなる。
生前、叔父がよく焚き染めていた香の匂いだった。
「ごめんね……今は時間が足りない。僕も本当はゆっくり話したかったんだけど、詳細を話すことは禁忌なんだ。だからこれだけは言わせて。
“夢は夢”だ。
どんな夢も現に持ち帰ってはいけないよ。今を生きる君には必要のない物だから……。だから僕とのこの時間も、これから先もし君を苛む悪夢に見舞われたとしても、すぐに忘れてしまうこと」
いいね? と念を押した叔父の顔はやけに真剣だった。
それは一体どういう意味なのか。
聞く前に叔父の姿は煙のように消えてしまう。
抱きしめられていた熱はまだ残っているのに叔父だけがいない。
しん、と静まり返る閉じた世界。
「……叔父さん?」
確かめるように呼んでみるも返事はない。
……ああ、嫌だ。
私はまたひとりぼっちだ。
僅かに残っていたぬくもりも、ゆっくりと冷めていく。
「叔父さんっ……! ねえ! 叔父さん!」
暗闇の中、返ってくるのは反響した自分の声だけで望んだ声は返らない。
それにおかしい。
夢って大抵、夢の中で話していた誰かが消えたらその瞬間に覚めたりする。
もしくは突然場面が変わり、細切れのように不自然に繋がって続いたりするものが殆どなのに、今日の夢は叔父が消えて私が一人になっても続いている。
まるでカットが掛からない一発撮りの映画のようにカメラだけが向けられている感覚だ。
「……ここ、どこ」
呟けば、ずん、と急に息苦しく感じる。
なんとなく肌寒くて私はそっと腕をさすった。
肌寒いのに肌にまとわりつく空気はねっとりと生暖かい。気持ちが悪い。
(息苦しくて、気持ちが悪い……?)
私は、この空間を知っている。
「叔父さん! 叔父さん! いないの!?」
呼んでも叔父がそこにいないことはもうわかっている。
それでも私は叔父を探すていでその空間をさまよい歩く。
私はこの空間に今日、すでに一度入っているのだ。
だから知っている。
(夢魔……!)
叔父が消える寸前に言った言葉の意味をようやく理解した。
私はいつの間にか、夢魔の悪夢に引きずり込まれていたようだ。




