第三十三話 一難去ってまた一難
獏が指を一つ鳴らし「留まれ」と命ずると、さっきまであてもなくさまよっていた男性の足がぴたりと止まった。
「えっ、なんですか今の! 催眠術?」
「もう寝てるんだから催眠術もクソもないでしょ。
悪夢の中なら、ちょっと俺の力が強いだけ」
言いながら男性の身体を再び軽々と持ち上げ、寝かせていたソファまで抱えて戻ってくる。
ソファに座らされた男性はその間もされるがままだった。
相変わらず虚ろな目のまま、ソファから投げ出された手足もだらんとしている。
獏は男性の体を支えたままソファの後ろに立つと、さっき私にそうしたように頭に手を乗せ、そしてそのまま――
手の甲に、唇を寄せた。
「な、ななな!? 何してるんですか!?」
獏は答えない。
俯いたことにより黒い外套のフードが獏の赤い瞳を隠す。それがまたなんとも耽美的だ。
直接、口は触れていないとはいえ、それは所謂――キスだ。
(これ見ていいやつ……? 大丈夫だよね?)
動揺を隠せない私は慌てふためきながら、目のやり場に困って目を逸らす。
獏が男性の頭に乗せた手の甲にキスを始めて数十秒後、夜のように暗かった夢の中は次第に白んでいく。
気が付けば息苦しさもなくなり、私は確かめるように思いきり息を吸った。
辺りには脱ぎ散らかされた服、丸まった靴下が落ちている。
そこはもう、獏の生活感あふれる自宅に戻っていた。
「……あれ?」
ソファに座らせられたままの男性の目の焦点が少しずつ合っていく。
獏はそっと手のひら、そして唇を離す。
「ご馳走様」と口元を親指で拭い、満足気にほんの少しだけ笑った。
あんなにも悪夢に苦しめられていた男性は要領を得ない顔で「は、はぁ……」と首を傾げている。
(す、すごい……)
私はというと、獏の鮮やかな仕事ぶりに圧倒されていた。
そしてそんな獏に対して、やる気がないだとか、給料泥棒だとか、そんな風に思っていた自分を酷く恥じた。
結局、私は何も出来ずにただ見ているだけ……。助けられてばかりだ。
「ちょっと」
獏はズカズカと歩いてきて、そして――
「あいたっ……!」
私の額に強めのデコピンを食らわせた。前回のよりもだいぶ特大だ。ヒリヒリして涙が出てくる。
「な、何するんですか!」
額を押さえながら、またしても反論するように睨み付けると、獏は形のいい薄い唇を少し上げて笑った。
「自己嫌悪おつ」
「いちいちデコピンしなくていいですからね!?」
「えー、だって殴るわけにはいかないじゃん。曲がりなりにも人間だし、女の子だし」
「あやかしでも男でも殴っちゃ駄目ですからね」
ほんのり赤くなった額を押さえながら、私は獏をもう一度見上げる。
私が自分を責めたり、くよくよしているとそのデコピンは飛んでくる。
そう気が付いたから、以前のように怒る気持ちはない。
「ていうか、今からがあんたの仕事でしょ」
獏に、背中を押し出された。
「……ですね!」
狐につままれたような顔でこちらを呆然と見ている男性に慌てて駆け寄る。
「こんにちは! ご気分はいかがですか?」
ここが現世ではないこと、そしてご自身の身に起きていたこと、無事に解決したこと……話せることの全てを説明した。
男性は夢のことは覚えていなかった。
「すごく……苦しかったような気はするんですが……」
と困惑しながら語った。
記憶がなくとも、とんでもない疲労感が体には蓄積されているようで、その突拍子もない説明もすんなりと受け入れてくれた。
「――拝見します!」
改めて視たその魂は、とても鮮やかな朱色の炎を持っており、健康そのものというような燃え方をしていた。
この灯火を守ることができて良かった……。
私は心の底からそう思った。
♢♢♢
「――それではお送りしますよ!」
渡し守の川の向こう岸にて男性は手で大きく丸を作った。
獏はさっきまでのしごでき具合が嘘かのように、すっかりいつもの調子で大岩に腰かけながら、ぼんやりしている。
「――在るべき形に還りたまえ……!」
男性は現世に転送される直前、私達に向かって深々とお辞儀をしてから帰っていった。
現世のあの人が目覚めた時、この町のことも、私達のことも綺麗さっぱり忘れてしまうだろう。
それでも私はこの町で、今日あの人が穏やかで幸せな夢路につけることを願っている。
「……そういえば、あの魂、最初から炎が消えてたわけじゃないんですよ。もしそうなら整番を渡す前に獏さんや天舞さんに確認を取っているはずだし……」
「整番を渡す前に視た時は、現世の肉体が起きて活動していた。次に視た段階で炎が消えてたのは、絶賛悪夢なうだっただけ」
「悪夢なう」
「あの炎って生命力に直結してるらしいから。寝ている間、夢魔に精気を吸われ過ぎて消えちゃってたんだろうね」
「猫舌ですか、夢魔」
「さぁ。そうなんじゃない?」
そんなことを話しながら私達は天舞への報告も兼ねて、一度緊急対応室へと戻ることにした。
並んで歩く獏の横顔を盗み見る。
自分の中の獏に対するこれまでの評価に訂正線を引き、そっと“頼りになる先輩”と直した。
私もいつか、あんな風に冷静に状況を判断して、そして迷い子の魂を迅速に救ってみたい。
「あ」
ぴたりと立ち止まる獏に倣い、私も同様に止まる。
「どうしました?」
「ちょっと忘れ物。先に天舞のとこ行ってて」
「え? 私も一緒に行きますよ」
「いらない。あんたが先に行って天舞に報告してた方が効率いいでしょ。じゃ」
一息にそう告げると、獏は私の反論など受け付けないと言わんばかりに早々に踵を返す。
「……逃げたな」
小さくなっていく後ろ姿を見て、ため息をつく。
(でも今日は、見逃してもいいかな)
今日の活躍を思い浮かべて、そんな風に思った時、曲がり角の所で誰かにぶつかってしまう。
「わっ」
思いがけない衝撃にバランスを崩し、後ろに倒れそうになった。
「おっと」
誰かに腕を強く引かれて、なんとか転倒は免れた。
……気がつくと、私は見知らぬ男性の太い腕の中にいて、がっしりと抱き留められていた。
「ひゅっ……」
残念ながら私は有事の際でも「きゃあああ」なんていう女性らしい悲鳴を上げることが出来なかった。
そもそも助けてもらっておいて悲鳴を上げるのもおかしな話だし、別に自分の男性に対する免疫力の低さと恋愛経験値のなさが露呈したなどとは断じて思っていない。
かちこちに固まった私を見て、男性はくすりと笑いながら「ソーリー」とそっと体を離した。
「いえ、こちらこそすみません。支えて頂きありがとうござ……」
思わず、言葉を失った。
(えっ、芸能人? モデルか何か? すごいイケメンだぁ)
その男性の圧倒的なオーラと端正な顔立ちに目が釘付けになってしまう。
濃いピンク色の髪に長めの襟足、切れ長の瞳に白くて美しい肌――引き締まりながらも鍛えられた体躯、身長も高く百八十は優に超えているはずだ。
男性はそういう視線にも慣れているのだろう。特に気にする様子もなく、またくすりと笑った。
そして「また会えるといいね」と甘い声で囁いて、にこやかに去っていく。
私はなんの返事もできず、ただ呆然とその人を見送ることしか出来なかった。
……訂正しよう。どうやら私は本当に男性への免疫がないらしい。
(叔父さんは男性って感じじゃないし、現世にも一人男友達がいたくらいで他は全然だったしなぁ……)
ふと、違和感を覚える。
さっきの人は一体なぜこの町にいたのか。
「あやかし……?」
肉体は確かにあったから魂ではない。でもこの町に住んでいるあやかしは三界から公的に許可を得て住んでいるから、私もそれなりに把握してきている。
そもそもあのピンクお兄さんは、本当にあやかしなのだろうか……?
「いたっ……」
突然、首筋にちくりとした痛みがはしり、反射的に手で押さえた。
ポケットに入れていた小さなミラーで首元を写してみると、ほんのり赤く腫れている。
「ええ……? 虫刺され……? やだなぁ」
首に手を当てながらぼやく。
首筋に触れた指先がやけに熱いような気がして、もう一度鏡で確認するも、赤く腫れている以外、特に変わった様子はなかった。
だというのに、なぜだか妙に胸がざわついて落ち着かない。
この時はまだ、知らなかった。
まさかあのピンクお兄さんが、新たな波乱を巻き起こす張本人だったなんて――




