第三十二話 獏
獏はひょいと男性を持ち上げたかと思うと、米俵のように担いだ。
ひ弱な印象だったが、人間仕様の変化を解いて本来のあやかしとしての力を扱えるのもあるのだろう。
涼しい顔で成人男性を担ぎながら、一瞬で駆け出した。
「えっ……ちょっ……はやっ」
行き先も目的も告げられず、突然置いていかれてしまう。
あやかし界には、報告、連絡、相談の概念はないのだろうか。
離されるわけにはいかないので、負けじと私も駆け出した。先日の濡れ女事件といい、渡し守は走ってばかりだ。
ふと以前、叔父がインドア派で運動は苦手だと恥ずかしそうにファミレスで語っていた姿を思い出す。そんな叔父も、息を切らしながらこんな風にこの町を駆けずり回っていたのだろうか。
想像するとなんだか少しおかしかった。
♢♢♢
獏の後を追ってなんとか辿り着いたのは、山奥とまでは言わないが自然光すら入りづらい雑木林だった。
町の中心からやや外れているそこは、野鳥や虫の声しかしない。
その中にぽつんと佇む古家。まるで他者の侵入を拒んでいるかのように近寄りがたい雰囲気を放っている。
獏は迷いなく古家の引き戸を開け、ズカズカと家の奥へと入って行ってしまう。
小さな声で「お邪魔します」と言って、慌てて玄関で靴を脱ぎ追いかけると、真っ先に目に入ったのは草臥れたソファ。そして脱ぎ散らかされた服。丸まったまま床に置かれた靴下。
キッチンは薄暗く、マメに使われている感じではない。
外観から受けた厳かな印象よりもだいぶ生活感のある室内に私は足を止める。
獏は構わず抜け殻のように捨て置かれた服を足で蹴飛ばしながら歩くと、よいしょとソファの上に男性を下ろして、そのまま横たわらせた。
もともと覇気のなかった男性は抗うこともなく、そのままソファに横たわっている。
私はここが誰の家で、どんな場所なのかもわからないまま所在なさげに立っていた。
すると何かを察した獏が「あ、ここ、俺んち」と軽く言いながら、虚ろな目で天井を見上げる男性の額に手のひらを当てた。
「えっ、ここ獏さんの家なんですか!?」
「うん」
辺りを見回す。
脱ぎ散らかされた衣服。使われている気配のないキッチン。大きな家具は、草臥れたソファとやや控え目なサイズの冷蔵庫のみ。テレビすらない。
この雑で簡素な生活の感じ――言われてみれば確かに獏だ。
「深淵。夢幻。烏有――」
男性の額から瞼に手のひらを移し、獏が呪文のような何かを唱え始める。すると、空気が一気に変わる。途端に、元々光の入らなかった部屋が更に何段階も昏く沈んだ。
暗闇とまではいかないが、例えるなら街灯がついた夜道を一人で歩いている、あの感じだ。
しかしこのどんよりとした空気感は、ただの夜道などではない。風も吹かなければ星の一つもない。
気づけばそこは獏の部屋の中ではなく、何も無い――ただただ薄暗い空間へと変わっていた。
街灯のような光のおかげで、獏の顔がほんのり見える程度だ。
何より酸素が薄く、息がしづらい。ねっとりと肌に不快感がまとわりついてくる。
「ここは……どこなんですか?」
息苦しさに耐えきれず口元を押さえる。眉間に皺を寄せながら尋ねた。
ここは明らかに普通の場所ではない。
暗がりの中、獏の赤い瞳だけがやけに鮮やかだった。
「この空間はもう“悪夢”の中」
「悪夢……?」
「そ。この人が見てる夢の中に入り込んでる」
獏が頷くのと同時に、男性は横たわっていたソファからのそりと起き上がる。
慌てて「大丈夫ですか!?」と駆け寄るも、男性が私の声に答えることはない。
男性はそのまま足を擦りながら歩き出してしまう。
相変わらず目は虚ろで、表情もなかった。
「ちょっ……獏さん! どうしますか!? なんとかして止めないとっ……」
「大丈夫だよ」
私の焦燥とは裏腹に、獏は酷く落ち着き払っていた。
こんな時すらやる気がないの? そう思うと怒りが込み上げてくる。
今度こそはっきり言ってやる。
睨み付けるように見上げると獏はそれすらも想定内、というような顔で私を見下ろしていた。
「簡単。俺が悪夢を食えばいいだけ」
悪夢を、食う。
一瞬考える。
「…………」
考えるもわからないので、恐る恐る尋ねた。
「えっ……悪夢を、食べるんですか?」
「うん。むしろそれが俺の主食」
「主食!?」
確かに獏はラムネや駄菓子、バナナミルクなどをよく口にはしているが、食事という食事を摂っているところはあまり見ない。
「し、知らなかった……」
「うん。知ってる」
獏はなんてことない顔で言った。
私はあやかしのことを殆ど知らない。天舞は天狗、覚は相手の心の内を読める、猫又は猫だった魂が無念で天に昇れずあやかしとなった存在――そこまではわかっていたものの、獏がどんなあやかしで、どんな能力を持つのかは何も知らなかった。
守護あやかしは渡し守にとって、なくてはならない存在だ。本来なら、もっと興味を持って知ろうとしなくてはならない。
(ほんとに勉強不足だな、私は……)
「はぁ。めんどいからいちいち落ち込まないでくれる?」
「な、なんで私が落ち込んでるってわかるんですか!? もしかして獏さんも心の中が読める……?」
「読めない。あんたがわかりやすいだけ。覚のお家芸を取ったら泣いちゃうでしょ、あいつ」
覚が泣いちゃうかどうかはわからないが、確かに同じ能力を持っていたら、同時に守護あやかしには選ばれないだろう。
どうやら普通に私がわかりやすいだけのようだ。昔からよく感情が顔に出やすいと言われるしな、と一人納得していると「話、続けていい?」としびれを切らした獏がカットインした。
お願いしますと姿勢を正す。
「うん。じゃあ続きから。この人は、誰もいない、この薄暗くて重苦しい世界からなかなか出られない。
……そういう悪夢を多分繰り返し見せられてる」
「見せ“られてる”って……一体誰に?」
「夢魔」
「……すみません。わかりません」
「知ってる」
間髪入れずに断言され、肩を落とした。
あやかしについてしっかり勉強しようと決意した瞬間だった。
獏の説明によると、夢魔とは、あやかしではなく西洋から渡ってきた悪魔だという。人の夢に侵入し、悪夢を見せては精神を壊して生命力を吸い取るのだとか。
「め、めちゃめちゃ悪い奴じゃないですか!」
「うん? まぁ……そうだね」
「じゃあこの人は今も、その夢魔に悪夢を見せられているんですか?」
「そう。夢からさめられるタイミングは自分ではなく夢魔が決める。毎日その人にとっての悪夢を見せ続けて精神を弱らせていくから、最悪、気が狂って廃人みたいになる」
廃人。
今も尚、出口を探して力なくさまよい続けるその人の背中を見る。
彼は果たして今も明確な意志を持ちながら、出口を探す為にさまよっているのだろうか?
そういえば未だに私は彼の声を聞いたことがない。言葉を交わしていないのだ。こちらが指示を出せば動くものの、その目は常に虚空を見つめており、体にも力が入っていない。
砂利を引きずるようなあの歩き方も、ソファに下ろされた時も。
思い返せば、獏に担がれた時も力なく手足をだらんと投げ出していた。
私はそこでハッとする。
「この人、魂が燃えていないんです。
もしかして……もう手遅れってことですか……?」
言葉尻が震えた。
渡し守がこの町にいれば魂の灯火を守れると思っていた。
それがこんなにも呆気なく否定されるなんて。
(嫌だ……)
初めからすべてを救えるなんて思っていない。
私は傲慢で、傲慢だったとここへ来て思い知ったからこそ、露ほども思わなかった。
それでもこの町で、この手が届く範囲なら、守れるはずだと信じていたのだ。
でもきっと、それすら思い上がりだったのかも知れない。
手を固く握りしめたまま黙り込む私を、獏はいつもの眠たげな目で見つめていた。
また、落ち込むな。めんどい。と言われるんだろうな。自分でも嫌になる。
でも獏は何も言わなかった。
その代わり、ふわりと私の頭に手のひらを乗せた。
獏の手はひんやりと冷たくて、その体温もなんだか獏らしい。
視線を上げると獏と目が合った。
その瞳には呆れも、侮蔑も滲んでいない。
ただ私だけを映していた。
「まだ間に合う」
大丈夫、と付け加えて、静かな声でそう言った。
まだ間に合う。大丈夫。
その短い言葉に固くなっていた心が、ふっと緩んで、涙があふれてくる。
今度こそ獏は呆れたように言った。
「……あんた、能天気なようでほんとによく泣くよね。面倒くさ」
その言葉とは裏腹に、獏の手のひらはまだ私の頭に乗せられたままそこにあった。




