第三話 現世と幽世
「はい、どうぞ。カモミールティー。これ飲んで少しは気持ちを落ち着かせてね」
覚という青年はソーサーに乗せてティーカップを目の前に置いてくれた。いかにもお高そうだ。
湯気からふわっと香り立つハーブの匂いは、確かに存外ざわついた心を落ち着かせてくれた。
着席を促されたソファは、これまで座ってきたソファなど比べものにならないほどふかふかとしていたが、それを堪能できるほど今の私に余裕はない。
目の前に座った天舞と名乗る青年は、切れ長の赤く鋭い瞳でこちらを明らかに品定めしている。
金色の髪を緩く団子のように後ろで結び、鋭い眼光、見える限り三つはピアスを付けている。その風貌と鋭い目つきからは、なんとなく怖い印象を受けた。
(ヤンキー……いや、チンピラ……?)
しかし、口調は丁寧で、ちゃんとしている。なにより覚や獏とのやりとりを見ても、この天舞と名乗る青年がこの中で一番何らかの権力を持っていると見て間違いないだろう。
「――まず、渡し守について」
天舞はハーブティーを一口含み、ソーサーにゆっくりと戻した。
「この世には現世と幽世があります。その上が天界。まぁ、他にも細かく言えば色々ありますがわかりやすいのはこの辺でしょう。この三つを、我々は三界と呼んでいます」
「三界……」
シリアスな顔で呟いたが、正直なんのこっちゃわからない。
しかし、会話の流れを止めるのも憚られたので、一旦話を聞いてみようと思った。
「そしてこの田舎町はその両方がちょうどよく交わってしまう場所にあります。例えば、君が歩いてきたであろうあの畦道は現世で、すぐ側の田んぼの向こう側は幽世。
ですから、厳密に言えばこの町は現世でもあり幽世でもあり、そのどちらでもない」
「……は?」
自分でも相当間抜けた声が出たと思う。
だって、今の説明で、すんなり理解できるわけがない。現世だとか幽世だとか天界だとか、普通に生きていたら聞かされることもない単語だ。
後ろに立っていた覚が、解説をするように口を挟む。
「ほら、車で走っててナビをつけてたら、ぐねぐね道で、青森県に入りました、岩手県に入りました、青森県に入りましたって忙しなく喋ってくる怒涛の県境ラッシュみたいな。あれみたいにここでは現世に入りました、幽世に入りましたって、歩く場所によってはコロコロ変わっちゃうんだよ」
「……車に乗らないのでその例えはピンとこないですが、言いたいことはなんとなく」
「察しがいいね。ありがとう」
しかし言いたいことが理解できても、その内容を理解できたかどうかは別問題だ。
「……す、すみません。急なので、すぐには信じられません。幽世とか天界とか、そんなこといきなり言われても……」
「まぁ、それはそうですよね。あ、ちなみに今、君がいるこの部屋。渡良瀬凌の自宅一部もギリ幽世判定ですよ」
「えっ?!」
天舞に淡々と言われて思わず立ち上がる。
とはいえ、目を凝らして辺りを見回しても別になんてことない普通の部屋だ。
しかし不意に思い出す。
……確か、この部屋だった。
叔父の書斎の更に奥にある古びた扉の部屋を五年前に一度、勝手に開けようとしたことがある。
普段ならあちこち色々な部屋を物色したり歩き回りたいとは思わなかった。
けれどあの日だけは、どうしてもその扉を開けてしまいたい衝動に駆られて手を伸ばした。
「――沙耶ちゃん」
「ひっ」
気付いたら、叔父が背後に立っていた。
私は驚いて短い悲鳴を上げる。
そしてすぐに、罪悪感に襲われた。
言い訳もできずに俯いた私を見て、叔父は困ったように、私を怖がらせないよう笑って言った。
「その部屋はね、僕が書き損じた作品を保管してる場所なんだ。沙耶ちゃんに見られたら恥ずかしいから、隠してるんだよ」
「そ、そうなの……?」
「うん。だから、この部屋には入らないようにしてくれるかな?」
私は頷いて「ごめんなさい」と謝ってそそくさとその場を後にした。
その部屋へ入りたい衝動に駆られることは、もうなかった。
「……もしかして、この部屋が幽世だったから叔父さんは私を入れたくなかったの?」
浮かび上がった過去の問いに答えてくれる叔父は、もういない。
そもそも幽世がどんな場所なのかも、私にはいまいちわかっていない。
ただ、怖い。わからないからこそ、恐ろしい。
未知への恐怖に、体が震えた。無意識に叔父から譲り受けたペンダントを手の中でぎゅっと握る。
ペンダントが守ってくれるわけなんかないのに、とにかく今はなんでもいいから、何かに縋りたかった。
「……で、ここからが本題ですが」
――本題。
その言葉に、思わず唾を飲み込んだ。
「渡し守は、現世と幽世の境界線が曖昧なこの地で発生する“迷い子”をあるべき場所へと送り届ける役目を担っています」
「…………」
それを受けて、私の脳裏に浮かんだのは、ショッピングモールやテーマパークで放送される迷子のお知らせだった。
「……ここってもしかして、迷子センター的な所ですか? 渡し守は、迷子のお知らせの放送してる人?」
「なにそれ、ダサい」
獏の呟きに覚が「こら」と肘打ちした。
天舞は咳払いをして「まぁ、認識的にはそんな感じで」とうなずく。
あ、これ詳しい説明が面倒くさくなったやつだってわかった。
「まぁ、でも、方向性は合ってるよ。意外と多いんだよね。生きてる人間でも魂だけ幽世をふわふわしちゃってたり、あと厄介なのは幽霊ね。あの人ら、結構な確率で自分が死んだことを理解してないから、現世も幽世も関係なくウロウロしちゃってたりさぁ」
「魂……幽霊……」
覚が当たり前のように言った単語に、未だ私の理解は追いつかない。
だって幽霊はいるかもしれないし、いないかもしれない。
そういう認識の世界で今まで生きてきたのだから。
「……そもそもこの町、普通の人間はそうそう来ないからね」
覚は明らかに私を見て、含みのある言い方をした。
普通の人間はそうそう来ない。
じゃあ、あれか。私は“普通の人間”ではない、とでも言いたいのだろうか。
でも、なんと言われようが私は普通にここまで来た。電車とバスを乗り継いで、歩いて。
そもそも、叔父の仕事仲間を悪く言いたくはないが、この人達は揃いも揃って怪しい。
(一体なんなの……この町は……。この人達もちょっと怖いし……)
ぐるぐると一人考え込むも、答えが出るわけもない。そしてそれは、半ば強制的にぶった切られてしまう。
「渡良瀬凌はこの町で、十六の頃から渡し守の任についていました」
「え……」
どくん、と心臓が脈打つ。
渡し守。
間違えて迷い込んだ魂を、本来在るべき場所へ戻す仕事。
ついさっき知ったばかりの馴染みのない職業。
「ちょ、ちょっと……待ってください……。えっ……?
叔父が……その、渡し守、なんですか?」
「そうなりますね」
どう受け入れたらいいのかわからない。
嘘だと否定するのも違うし、そうなんですねとあっさり受け入れるには、この仕事に対しての知識がなさすぎる。
だが、言われてみれば叔父には確かに謎が多かった。
母いわく育った環境がどうやら複雑で、母と叔父は母親が違う……いわゆる腹違いの姉弟というやつだった。
叔父は幼少期から変わった子だったようで、見えない何かといつも話をしていたらしい。
母はそんな叔父を気味が悪いといつも言っていた。
幽霊がいる。あやかしがいる。そんなおかしなことを話す叔父は親族からも除け者にされており、進学する高校も勝手に決めて、一人でこの田舎町に移り住んだような話をしていた。
仕事も、作家活動の傍ら農業をしている。その程度しか把握していなかった。
私が五年前に滞在したあの短期間ですら、叔父は昼夜問わず忙しくしていた。
それはつまり、本職は“渡し守”だったから。
そう考えれば、この田舎町に若くして一人移り住んだことも、あの不自然な生活サイクルにも合点がいった。
同時に叔父が生前、必死に隠していた真実へ勝手に手を伸ばしてしまい、言いようのない罪悪感に襲われた。
叔父はなぜ一人で黙って逝ってしまったのか。なぜ打ち明けてはくれなかったのか。
言いたくなかっただけかもしれない。
何らかの事情で言えなかったのかもしれない。
それはわからない。
だが、仮に言える状況だったとしても言えるわけがない。気味が悪いと言われ、親族一同に除け者にされてきたのに“現世”だとか“幽世”だとか……。
そんな話をすれば、また頭のおかしな奴だと石を投げられただろう。
「叔父さん………」
叔父はとても綺麗で、穏やかで、優しい人だった。
なぜこんな人のことを母は「気味が悪い」と忌み嫌ったのか、私にはずっとわからなかった。
それでも叔父は、自分に理不尽な悪意を向ける姉の娘である私を可愛がってくれた。
叔父になら、なんでも話せた。
(死んだなんて、まだ信じたくないよ……)
叔父の本当の仕事。
真実。
幽世、現世、天界。
――渡し守。
そんなことを聞かされたところで、私には何一つ落とし込めない。
叔父が死んだ……その事実すら、まだ飲み込めていないのだから。
「嬢ちゃん、あんた………次の渡し守にならないかい?」
大きな図体、酩酊した時のような赤い顔、大きな口、やや怖い人相。まるで人間が想像している“鬼”のような風貌をしたその“人”はソファから身を乗り出して軽く提案をした。
「………はい?」
「おい、てめぇ朱の盆 ! なに勝手なこと言ってやがる!」
さっきまでの丁寧な口調はどこへやら。
別人のように目を吊り上げながら、天舞は鬼のような人の胸ぐらを荒々しく掴む。
「だははは! やっと本性が出たなぁ天舞! 途中までは筆頭らしく頑張っておったのに惜しかったなぁ?!」
「くっ……」
悔しげに唇を噛む天舞と無関心そうに壁を見ている獏、笑いをこらえる覚に、豪快に笑う鬼のような人。
なんというか、かなりカオスだ。というか、絶対今、ふざけるような雰囲気ではなかったはずだが、なんと気の抜けた人達だろう。
「……話を戻す! いくら先代の渡し守の血縁者だからといって、こんな無知な小娘に務まるわけがないだろう! 馬鹿か! 考えてから物を言え!」
「ちょ、天舞、言い過ぎ」
覚に止められても尚、烈火のごとく怒り狂っている。負けじと鬼のような人も応戦する。
「だからといってお前達だけでずっと回すのは無理だろうが! 結界問題だってある。
なにより、渡し守は“その鍵”が視える……適合した“人間”でないと!」
「………適合?」
私は首からぶら下げたままのペンダントを見る。
きらきらと、まるで生きているかのように輝きを放つそれを見て、私はあの日、綺麗だと言った。綺麗だと言ったから叔父はくれた。沙耶ちゃんに持っていて欲しいのだと。
つまり私には、視えた。
確かにあの時から不思議だった。こんなに高価そうな物をいくら姪だからといって、突然譲ったりする物なのだろうか。
しかも、あんなに切実な顔で――
“視えた”から預けたの?
もしかすると、何か理由があるの……?
今頃気付いたところで肝心の叔父はもういない。
どうすることも出来ず、胸のざわつきをなんとか抑え込んで私は前を見る。
「チッ……。とにかく次の正式な適合者が現れるまで、ここ一帯の迷い子は“俺たち”で管理する」
「もしかしてその“俺たち”にボクって含まれてる?」
予期せぬ指名に覚は不平を隠そうともしない。
「……え、俺も?」
獏は、嫌そうな顔で自分を指さした。
「なんだ、その顔は。お前らも守護あやかしだろうが! やる気がねぇなら減俸すんぞ」
「いくらなんでも横暴だぞ、天舞」
「最低」
「うるせぇ。俺はこれでも守護あやかし筆頭だからな。その権限が十分あるってことは忘れんなよ」
彼らはいわゆる上司と部下、みたいなものなのだろうか。関係性がいまいちわからない。
守護あやかし。それが彼らの仕事なのだろうか。
「……あの」
全員が一斉にこちらを見た。
想像以上の威圧感に腰が引ける。
だがしかし、ここでうだうだ悩んでいたって叔父の真意も、叔父が何を考えこの地で生き、渡し守という仕事をしていたのかも何もわからないままだ。
何より、叔父はなぜ、突然死んだのか。
詳しい死因はわからないと言われた。
何なんだそれは。
そんなことが罷り通っていいのか? 警察はなぜ調べない? 関与できないのか?
わからないことだらけだ。
この町はおかしい。だけど私は渡し守のことも、渡し守の鍵のことも、この町のことも、何も知らな過ぎる。
―――ならば、進むしかないだろう。
「……私、渡し守のお仕事、やってみたいです」




