第二十六話 濡れ女、幼児誘拐事件終幕
「はぁっ……はぁっ……はぁっ」
いくら目的地までさほど距離が離れていないとはいえ、全速力で走り続けている人間に対し、片や浮遊しながら汗一つかかず余裕綽々のあやかしでは勝負にすらなっていない。
相変わらず私は濡れ女に遊ばれている、ということだ。
「ほらほらぁ、もっと早く走らないと捕まっちゃうわよぉ」
言いながらすれすれの所まで手を伸ばしたり、わざと追い越したりしてくる。
ひぃっと小さく悲鳴を上げる私を見て、また長い舌を出しながらにんまりと笑った。
性格わるっ! 気持ち悪っ!
内心げんなりとしつつ、口に出したら即効で喰われそうなので、なんとか言葉にはせずに飲み込んだ。
あの空き家から陣のある緊急対応室は恐らく一キロメートルも離れていない。歩いてもせいぜい十分程度で着くような距離だ。だというのに休憩なしの全力疾走はなかなか堪える物がある。
呼吸の間隔はどんどん短くなり、肺は空気を吸うことすら億劫だと言った。
(やば、苦しいかも……)
足がほんの少し縺れたタイミングで、濡れ女はさっきまでの猫なで声からは一変した低い声で告げた。
「なんかもう飽きちゃった」
くるくると私の体の周りを龍のような長い下半身で囲み、そして狼狽する間も与えず締め上げた。ぬらぬらとした皮膚と鱗のような固い物が皮膚をチクチクと刺す。
「ぐあっ……」
喉から聞いたことのない声が上がった。いくら身を捩っても逃げ場はなく、ぎゅうぎゅうと圧迫され骨が軋む。痛いとか苦しいとか、もうそんな感情では言い表せない。
(やばい、本当に死ぬ)
初めて直面した死の予感にじわじわと絶望が広がっていく。あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった、と短い時間でそんな風に後悔ばかりが呻き声と共にせり上がってくる。
その時、私の耳元で誰かが囁いた。
『――散』
生温い風が頬を撫で、濡れ女はなぜか突然私の拘束を解くと「お前、いつの間に!? 瞬間移動ができるのか!?」と叫んだ。
濡れ女は何もない……誰もいない場所へ向かって“私”へと話しかけていた。
(なに……どういうこと……!?)
放置されたままの私を見向きもせず、濡れ女は相も変わらず架空の私と話している。
今の濡れ女には、本物の私の姿が見えていない。
『――散』
あの時、耳元で聞こえたその声は――天舞の物だった。
きっと天舞が何らかの術を施してくれていたに違いない。
(天舞さん……!)
私はそれを信じ、一目散に駆け出す。すると術の効果は切れたようで濡れ女は私に気が付くとすぐに追ってきた。
「人間のくせにちょこざい術なんか使いやがって!」
やはり何らかの術が施されていたらしい。
それだけで鉛のように重かった足は嘘みたいに軽くなり、肺は必死に酸素を取り込み始めた。
(私には……あのあやかし達がいる)
その事実は、どんなまじないよりも心強かった。
何があのあやかし達をまだ信用していない、だ。
私は自分がいかに思い上がっていたのかを思い知る。
私がこんな訳の分からない町で何不自由のない生活をし、今命懸けで走れているのは、間違いなくあのあやかし達のおかげだ。
(とっくに信用しちゃってたじゃん)
我ながら馬鹿だなぁと思うし、きっと正直にすべてを打ち明けた所で私以上にあのあやかし達は呆れながら馬鹿だと罵ってくるだろう。
それでも私は今、あえて罵られたい。
この一件が片付いたら、叔父の死の真相を追いかけたい、知りたいのだと正直に打ち明けてみよう。
だからこそ、今は私に与えられたこの役目を全うしてみせる。
「――私が喰いたきゃこっちに来い!」
挑発するように叫ぶと、濡れ女はまたニタリと笑って私の後をついてきた。
私の体に濡れ女の指先や鱗が触れる度に私の気配は辺りに散らばり、濡れ女は私を見失う。そしてその効果が切れる条件は私が全力疾走した時。そうすれば濡れ女はまた本物の私を追ってくる。
濡れ女は私が移動したり、かと思えば別の場所から出てきたりするのが面白いのか、なかなか捕まえられないことに苛立つこともなく楽しそうに笑っていた。
(すごいな、天舞は……)
身代わりくんとは別なのか、それともこれを媒介にしているのか仕組みこそわからないが、とにかく天舞がいつの間にか施した術のおかげで今も私はこうしてギリギリの中、生きながらえている。もしもの時の為に、何重にも策を講じているのがなんとも用意周到な天舞らしい。
逆に言えば私はこれっぽっちも信用されていないということにはなるが、それが結果的に私を守ってくれているのだから何の不満もない。
「はぁっ……はぁっ……はぁ……」
緊急対応室が見える。
そこで少し進む足がもたつきそうになるが、ここで気を緩めてはいけない。
今一度気を引き締め、ポケットにそっと手を突っ込み、身代わりくんを掴んだ。
ドアを開けて、陣のある広い客間を一直線に目指す。
濡れ女が後をついてきているのを確認して客間のドアも思いきり開けると、大股で陣の近くまで走った。
「こんな建物に逃げ込んだら袋の鼠なんじゃないのぉ? 逃げ切れそ? 大丈夫ぅ?」
濡れ女がくすくすと笑う。部屋の中にその姿を探すが、天舞や覚、猫又は怪しまれないように気配ごと消しているようだった。
少し離れた所にある結界内からは拓人くんが不安な顔をして、半べそをかきながらこちらを見ているのがわかった。
私は拓人くんに向かってピースをキメて、そして、妖しい光を放ち続ける陣の中へ身代わりくんを落とし、天舞に言われた通りに横に逸れる。
濡れ女は何の疑いもせず、私――もとい身代わりくんを捕まえようと必死に手を伸ばし、そのまま陣の中へと落っこちた。
「ぎゃああああああああああ!!!」
濡れ女の断末魔ごと飲み込みながら陣は更に激しく閃光を放つ。まるで落ちた濡れ女を咀嚼するようにバチバチと激しい音を鳴らし続けた。
程なくして音は止み、徐々に光を失っていく。光を失うと次は一つずつ文字が消えていき、最終的には跡形もなくなってしまった。
久しぶりの静寂が緊急対応室を包む。
「……終わったな」
どこからともなく天舞がやって来た。
「お疲れみんな」
「濡れ女、前に見た時よりちょっと老けたんじゃない? アタシが前に見たのもう百年くらい前だけど」
「そりゃ老けるでしょ」
それに続いて覚、猫又、獏も出てくる。
それだけで急激に足の力が抜け、その場に崩れ落ちてしまった。
「ちょっ、大丈夫?!」
猫又がしゃがみこみ、体を支えてくれる。
「体力なさすぎ。運動不足なんじゃない?」
獏は欠伸をしながらソファにだらっと座った。
「体力ないのは獏もだろ?」
覚がくすくすと笑う。
「お前にしちゃ上出来だ、渡良瀬沙耶」
天舞は珍しく機嫌が良さそうだった。
じわり、と、名前のわからない感情が胸の内に広がった。
どこかから戻ってきて、こんな風に心の底から安堵したことがこれまで一度だってあっただろうか。
「何だ? そのアホ面は」
このあやかしはこうしてすぐに水を差すようなことを言ってくる。
「はぁ。天舞さんに言ってもこの繊細な私の気持ちはわかりませんよ」
「繊細? は? 誰の何が?」
「私の気持ち」
「はっ」
「あ、鼻で笑った!!」
そして結局すぐにこうなってしまうのだが、今日は雇用主の多少の失言は笑って流そうと思う。
「……そういや、出てきていいぞ」
天舞は指を鳴らし結界を解除すると拓人くんを手招きした。
拓人くんはすぐに駆け寄ってくる。
覚が拓人くんの“中”を視て、濡れ女のマーキングも完全に消滅したことを確認すると、天舞は拓人くんの小さな頭に手を置いた。
「いいか? 小僧。人間だろうがあやかしだろうが、もう簡単に誰も信用すんなよ。信じられんのはいつだって自分だけだ」
「なんつー教育に悪影響なことを教えてるんですか」
拓人くんはきらきらとした瞳で天舞を見上げ、大きな声で、うん! と返事をした。
「てんまさん、おねぇちゃん、ほかのあやかしのひとたちも、ありがとう。オレ、じぶんをしんじられるように、ちゃんとつよくなる。ママがいなくても、がんばるから」
ママがいなくても。
そう語る拓人くんの瞳は爛々としていたけれど、それでも胸はぎゅっとなった。
七歳の子供が言うような台詞ではない。だって大体の子供は無理に強くなろうとしなくても、親が――大人が守ってくれるはずなのだから。
「……お前、父親は?」
天舞が拓人くんの頭に手を置いたまま問いかける。
「いるけど、ママがいなくなってからずっとたいへんそうだから。おしごとして、オレといもうとのおせわして……だから、オレがはやくつよくなんないと」
拓人くんが俯く。
この小さな体にどこまで一人で抱え込んでしまったのだろう。
だけど私は少しだけ羨ましく思う。
私は自分の家族を――親を支えるために強くなりたいなどと思ったことがなかった。なんなら父親は顔すらもわからないし、母親とはずっと反りが合わず、そこから逃げ出したいとばかり考えていた。
だから拓人くんのあやかしに騙されてでも亡くなったお母さんに会いたいという気持ちも、自分達の世話で大変な思いをしているお父さんを助けたいと思う気持ちも、私にはどうしようもなく眩しくて目にしみた。
天舞はしゃがんで、拓人くんと目線を同じくして言った。
「ガキの内はパパに頼れ。おもいっきり。それが親孝行だ。いつかパパが歳をとって今よりも体が小さくて弱くなったそん時はお前が守ってやんな。今すぐ大人にならずとも、その頃には自然と強くなってるよ」
「……うん」
拓人くんの目から、涙が粒になって零れ落ちた。
ああ、この人は本当に狡いなと思った。
♢♢♢
渡し守の川辺にきた私達は、拓人くんを向こう岸へと渡した。
「みんな、ありがとう!」
拓人くんが叫ぶ。
「てんまさん! オレ、てんまさんみたいにかっけぇおとこになるから!」
真っ直ぐ憧憬をぶつけられ照れたのか、天舞は右手を軽く挙げるだけだった。横で獏が「照れてる」と呟くと無言で足を踏まれていた。
「……じゃあ、送りますね」
瞳を閉じる。
そして、願う。拓人くんの健やかな成長を、拓人くんと拓人くんの家族の幸せを――
「――在るべき形に還りたまえ……!」
宙で魂を掴んで―――そして、放す!
拓人くんは、ふわりと柔らかな風に乗って、愛する家族の場所へと帰っていった。
彼は寝ている間に濡れ女に拐かされ、魂だけをこの町へ連れて来られてしまったようだったが、霊力が高くて再び迷い込んでしまうことを懸念した天舞に、この町へ来る方法や道順を忘れるまじないをかけられた。
きっともうここへ来ることもなければ、天舞や濡れ女のことも忘れてしまうかもしれない。
それでもきっと、彼の中にはずっと在り続けるだろう。
他人の言葉に惑わされることなく、自分を一番に信じられるくらい強い男になって、いつか家族を守る。
その約束だけは。
「――あ、そういえば」
「あ?」
「濡れ女ってどうなったんですか?」
私の声にあやかし達は揃って悪い顔で笑う。
「あいつはなぁ、元々は脱獄犯だ。今頃は幽世刑務所できつぅい折檻でもくらってるんじゃねぇか?」
「……え?」
「その昔あやかし界で法改正された時、人間の食い過ぎで幽世の刑務所に投獄されてたんだが、何らかの手違いで脱獄を成功させたのち運悪く幽世・現世間の結界が手薄だったタイミングで……まぁ、このザマよ」
「え、じゃあ色んな意味で良かったですね」
「本当にね。おかげさまでボク達にも懸賞金が配当されちゃうしいいこと尽くめ。なに買おうかなぁ」
「……懸賞金? え、なんの話ですか?」
首を傾げる私に猫又は「察しが悪いわねぇ」と深いため息をつきながらも、スイーツお取り寄せカタログと書かれた冊子を捲って、見せてくれた。
「さ、どれにする? 今回はアンタの活躍あってこそだからね! 一個くらいなら好きなの選ばせてあげるわよ」
鼻歌混じりに猫又は次々とページを捲った。
あ、ナポレオンパイおいしそう……
「じゃなくて! 懸賞金ってなんですか!?
私なにも聞いてないんですけど!」
「……天舞、言ってなかったの?」
普段は物欲がなさそうな獏も珍しく何かのカタログを開いている。
「どうだったかなぁ
忘れた」
天舞は悪びれもなくそう言うと、テーブルの上に積まれたお取り寄せカタログを乱雑に手に取った。
「……肉か。いいな」
つまり。つまり、だ。
私は一人、懸賞金のことを知らされず、なんの対価もないままに命を懸けさせられたというわけだ。
「えっ……というか、もしかして初めから懸賞金狙いですか!?」
あやかし達は顔を見合わせる。
そして
「うん」
「まぁ…」
「もちろん」
「当然」
と口々に答えた。
数十分前の自分を思い出して頭を抱える。
(私には……あのあやかし達がいる)
(とっくに信用しちゃってたじゃん)
以上、私の恥ずかしい回想シーンをお送りしました。
ばかやろう、なんであやかしなんか信じちゃったんだ、私。ばかやろう。
「さ、最低! 揃いも揃って最低! 私めちゃくちゃ頑張ったんですけど!? 命懸けだったんですけど!?」
「はぁ。うるせぇなぁ。お前にも分けてやるから騒ぐんじゃねぇよ」
「え」
天舞はニヤリと笑った。
「渡良瀬沙耶。お前、喉から手が出るほど欲しいだろ……ウェイ」
「ウェイ」
悔しい。
正直、喉から手が出るほど欲しい。私はこの町の通貨であるウェイを未だに持っていない。つまりこの町で買い物が一切できない状況が続いていた。
「…………」
「いらねぇのか?」
ヴィラン顔でチラつかされた紙幣。
夢にまで見た一万ウェイ。
「くっ……!
ありがたく……頂戴いたします……」
大人しく頭を垂れた私を見て獏が「はい、陥落」と呟き、これにて濡れ女による幼児誘拐事件は一件落着したのであった。
♢♢♢
「そういえばさぁ、天舞、言わなくていいの?」
「あ? なにが」
「沙耶ちゃんにまじないかけたでしょ」
「…………」
「発動条件は濡れ女が沙耶ちゃんの体に触れた時、一時的に沙耶ちゃんの気配を分散させる目眩しのまじないでしょ、あれ。
初めから食わせる気なんか更々なかったくせに素直じゃないよねぇ。なんなら恩を着せまくるチャンスじゃん?」
「……あんな奴に着せて得する恩なんざねぇよ。別に深い意味もねぇ。
ただ……たまごの賞味期限が切れそうなだけだ」
「ん?」
「俺とお前だけじゃ明日までに食いきれないだろ」
「ああ……はいはい」
「何だその笑いは」
「はいはい」
「無駄が嫌いなだけだ」
「そうだよね、うん」
「余計な勘違いはすんなよ」
「わかったよ」
「……本当だからな」
「はいはい」
「本当だからな」




