第十九話 雷鳴
埃っぽい納屋の中で少し離れて座る。未だに雨足は弱まることを知らず、雷鳴もうるさい。
そして私は気が付く。ピカッと雷が光ると猫又は身体を強ばらせ、轟音が鳴る度に両手で耳をふさぐ。あの強気だった猫又が小さくなって震えていた。
「雷、こわい……?」
猫又は勢いよく顔を上げて、だけど目尻にはうっすら涙を浮かべながらこちらを睨み付けて言った。
「な、何よ。ダサいって思った? いい気味って思った? 笑えばいいじゃない……」
言葉こそ攻撃的で刺々しいが、真っ青な顔と潤んだ瞳、震えが止まらない身体を見れば笑い事なんかに出来るわけがない。本当に怖くて仕方ないのだろう。
私は恐る恐る手を伸ばして猫又の背中に触れる。猫又はびくっと大きく震え、更に身体を強ばらせた。猫又の背中に置いた手をそのまま、とん、とん、とん、と子供を寝かしつける時のような要領でリズムを刻む。猫又にまた怒られるかも知れないと覚悟したが、されるがままで彼女は何も言わなかった。
母は育児に積極的な人ではなかったし、私は実際誰かにこうされた記憶はない。だけど不安な時、こんな風に誰かが触れてくれれば安心出来るのではないか、と咄嗟にそんなことを思った。
「……渡良瀬も」
「うん?」
「前に、こうしてくれた事があるの……」
「叔父さんが……?」
猫又は小さく頷く。
少し意外だった。叔父は私がすごく小さな頃、泣いている私を上手くあやせなくてアワアワしていた。そして――酷く落ち込んだ。その姿を見て、なんだか自分よりも可哀想になって涙が止まったのを思い出す。すごく優しくて、すごく不器用な人だったから。
「……アタシはね、元々はただの飼い猫だったの」
猫又は雨音にかき消されてしまいそうなほどか細い声で語り出す。
「気が遠くなるほど、すごくすごく昔の話。
アタシの飼い主は姫と呼ばれていたわ。すごく優しくて、綺麗で、かわいくて、アタシはあの子が大好きだった。
……だけどね、あの子が年頃になるとすぐに嫁ぐことが決まって、アタシはそこには一緒には行けなかった」
猫又の声が沈む。
今の時代だって、結婚に限らず進学や就職で家を出れば実家で共に過ごした猫や犬とは離れて暮らすのが普通だろう。けれど猫又が生きた時代はきっと気軽に飼い猫に会いに実家へ戻るというのがままならない時代で、ましてや猫又の飼い主は姫という立場上、更に行動を制限されていたに違いない。
「……でもね、良かったの。もう会えなくてもあの子が幸せなら、それで」
ぽつり、ぽつり、と、静かな雨みたいに猫又の声が落ちる。
「ある日、聞いちゃったんだ。あの子の夫が仕えていた相手に謀反の疑いで処刑されて……それで……妻やその子供にも謀反の容疑がかかったって……生かしてはおけないって奴らがいきり立っているって……」
「そんな……そんなひどいことって……」
猫又は首を横に振る。「そういう時代なの。最低よね」と。
時代。
私の知らない昔の日本。それを惨いと思えるのは、私が今の平和な時代しか知らないからなのだろう。それでも、あまりにも理不尽な話だ。
「アタシはもう老猫だったけど、あちこち痛む身体を引きずって走った。あの子に知らせなきゃって思ったから。
走って、走って、走って、でも、わからなくて。そこがどこで、どれくらい走って、あの子の所に近付いているのかも。馬鹿だよね……」
そんな事はない。ううん、ううん、と何度も首を横に振ると、猫又は眉を寄せて悲しそうに笑った。
「そうこうしてる内に寿命がきちゃって……身体中が痛くて、苦しくて、横たわりながらずっと後悔してた。危険を知らせることが出来なかった……最期に一目会うことが叶わなかった……。
何より、女子供までくだらない争い事に巻き込んで、命まで奪うあいつらが許せなかった」
猫又の目がぎらりと光る。声は昏く、どす黒い感情が底から滲んでいる。
猫又は今でも悔やみ、恨んでいるのだ。
「這いつくばりながら空を睨み付けていたら酷い雷雨になって。何度か近くに雷が落ちた。もうすぐ死ぬっていうのに、アタシ雷がすごく怖くて……」
自嘲する猫又の手をそっと握る。振りほどかれてもいい。引っ掻かれてもいい。どんな手段を使っても、大丈夫だよと伝えたかったのかも知れない。
猫又は少しだけ手を引くも、そのまま力を抜いて手を握られたまま言葉を繋げた。
「最期はね、情けないけど、怖いよ、助けてって……そんな風に思いながら死んだの。ほんとに情けないでしょ……。
アタシがまだ小さな頃、酷い雷雨の日、あの子もまだ小さかったのに一所懸命アタシの体を抱きしめて『大丈夫だよ』って守ってくれたのを思い出して、恋しくなって……」
ぽろぽろと猫又の大きな双眸から雫が溢れる。
外ではまた雷が派手な音で鳴って、猫又が身体を震わせていたので、握った手の力を強める。
「だからね、雷は嫌い。怖いの。どんなに強い言葉で飾り立てて虚勢を張ったって、雷が鳴ると役立たずで無能で弱虫な自分の最期を嫌でも思い出すから」
愛しい飼い主に危険を知らせることも出来ず、もう一度会うことすら叶わず、未練と後悔と憎しみで生涯を終えた猫はあやかしとなった。
「渡良瀬にもこの話をしたんだ。アタシが酷く雷を怖がるからすごく心配していて」
叔父は一体、どんな言葉を掛け、どんな風に寄り添ったのだろうか。神妙な面持ちで言葉を待つ私に、猫又は少し困ったように笑った。
「渡良瀬のヤツ、すごいあたふたしてた」
「……へ?」
「あたふたしながら『音が聞こえないようにイヤホンする? ホットミルクでも飲む? ええと……写経でもする!? 落ち着くよ!』って言いながら、もうね、立ったり座ったり」
思い出して吹き出しながら猫又は話す。私は唖然としながらも、幼少期、泣いている自分を前にあたふたしていた記憶の叔父が重なりつられて笑う。
「はは、叔父さんらしいや。想像できる」
「ほんと頼りないのなんのって」
「あはは」
「でも……」
優しいんだ、と、猫又は呟いた。
その響きには愛情が詰まっていて、胸がぎゅっとなる。
「アンタみたいにね、アタシが落ち着くまでずっと背中をね。とんとんしてくれた。下手な慰めはしなかった。姫は幸せだったと思うよとか、そんな気休めの言葉は一切。
ただね、本当にどうでもいい話をずっとしてた。都会で食べたハンバーグがおいしかった話、夏の匂いが好きだって話、この間出会った迷い子に懐かれてなかなか送れなかった話……本当にどうでもいい話ばっかり。雷の音がしなくなるまでずっとしてた」
猫又の口から語られる叔父はどれも叔父らしくて、嫌でも思い知る。叔父は確かにここで生きていて、そして――死んでしまったのだと。
「……アタシ、嫌なんだ。まだ認めたくないんだ。渡良瀬が死んじゃったって……信じたくない。まだどこかで生きてる気がしちゃうんだよね……。
だって渡良瀬にお別れ言ってないんだもん……。アタシまた、大切な人間の最期に会えなかった……」
声を詰まらせながら、震わせながら、猫又は叔父の死を拒絶した。
私も同じだった。
確かにあの日、私は葬儀に間に合った。納棺された叔父に花を添え、触れて、冷たくなった叔父に何度も声を掛け、覚や獏に引き離されるまで傍を離れることが出来なかった。その姿を見ても尚、まだ叔父が死んだことを受け入れられず、起きるかも知れないなんてどこかで夢を見ていたからだ。
火葬され、骨になった叔父を見て、ようやく諦めに近い感情でなんとか落とし込んだ。それでもまだ、どこかで叔父の姿を探している、追っている。
猫又は叔父の死に目にも会えず、葬儀にも出られなかったのだから、私よりもずっと叔父の死を受け入れ難いのだと思う。
そんな中で突然現れた姪である私が、新しい渡し守の座に収まろうとしているのだから、納得しろという方が難しいだろう。
「猫又、ごめんね……」
「え……?」
「そりゃあさ、嫌だよね。猫又にとっての渡し守は渡良瀬凌、なんだもんね」
猫又の私への敵意はすべて叔父を慕っているがゆえだった。
こんなに向けられて幸せな気分になる敵意は他にないだろう。
それなら私のやることは変わらない。猫又に好かれなくても、わかってもらえなくても構わない。ただ猫又と話がしたい。
「私ね、叔父さんの代わりになりたいわけじゃないの。適当な気持ちで渡し守をやりたいわけでもない」
服の下からペンダント――渡し守の鍵を取り出す。猫又はすぐに、それ……と気が付く。
「……やっぱり失くしてなかったんだ。渡良瀬がそんな大切なものを失くすなんて有り得ないって思ってた」
猫又は叔父のことを思い浮かべたのか、また少し困ったように笑った。
「叔父が私に渡し守の鍵を預けた、その理由が知りたいの。それから――叔父はなぜ突然死んだのか」
水色の猫目が大きく開かれる。
「……アンタも詳しい死因は聞いていないの?」
「詳細がわからない、調査中だって言われた」
――葬儀の日。
叔父の死因を天舞に聞いた。天舞は『遺族といえど部外者に詳細を伝えることは出来ません』と頑なに教えてくれなかった。それでも尚食い下がる私に、見かねた獏がこっそり教えてくれた。
「まだ調査中。俺達にも詳細はわからない」
病死と言われればまだ納得できた。それでも獏は決してそうは言わなかった。
あの日初めて、叔父が渡し守という仕事をしていたことを知った。そして私に託されたこの渡し守の鍵と、叔父の突然死の謎――
何もなかったふりをして帰るなんて、私にはとても出来なかった。
「……叔父の死因を調べていることは天舞さんや覚さん達には言っていないの。今でこそ少しは話せるようにはなったけど、まだ完全に信用しきってないし、向こうも私を信じていないと思うから」
「なんで……アタシには話したの……?」
「猫又は……叔父さんのことを大切に想ってくれてるのがわかったから」
握ったままだった猫又の手に少しだけ力を込める。
猫又の体がぴくりと跳ねた。
「……アンタ、やっぱり渡良瀬の血縁だ」
昏かった猫又の目に光が灯る。
「鈍臭そうに見えて、油断ならない」
――気づけば雨は止んでいた。




