第3章 : 指の記憶
管理人室の空気は重く、古いサーバーの熱気と埃の匂いが充満していた。
久我原がコンソールのメイン電源を入れると、暗闇の中に緑色の起動ログがズラリと立ち上がる。
「これが独立回線用の端末です。ネットワークからは完全に遮断されている……はずですが」
「どいてください」
蓮は久我原を短く押し退けると、パイプ椅子に腰を下ろした。
キーボードに指を置いた瞬間、全身の血が逆流するような錯覚を覚えた。
指先が覚えている。カチカチというキースイッチの反発、画面の明滅、黒いコンソールを流れる緑色のコマンドライン——3年間、必死に殺してきた“Zero”としての本能が、一瞬で目を覚ます。
蓮の指が、黒いキーボードの上を滑り始めた。
カタカタカタカタカタカタッ!
激しい打鍵音が部屋に響き渡る。
残像が見えるほどの速度で打ち込まれるコマンド。素人には残像にしか見えない画面の切り替え速度に、後ろで見守る冴子と久我原は息を飲んだ。
「……なんなの、この速さ……」
冴子の呟きを、蓮は無視した。
コンソールから直接、独立回線の通信ログ(トラフィック)へダイブする。
「……ハッ、独立回線が聞いてあきれるな」
蓮の口から、冷ややかな嘲笑が漏れた。
「数時間前、この端末から外部へポートが開けられている。バックドア(抜け道)だ。このビルのセキュリティ設計者は素人か?」
「そんな……独立回線なのに!?」久我原が狼狽する。
「物理的に繋がっていなくても、事前に感染させておけばいくらでも繋げる。……だが」
蓮の指が、ピタリと止まった。
ログに残されたパケットの分散パターン。
踏み台にする中継サーバーのチョイスと、追跡を交わすための暗号化アルゴリズム。
無駄がなく、美しく、それでいて悪意に満ちたそのロジック。
蓮の目つきが変わる。ボサボサの前髪の奥で、瞳が鋭く細められた。
「……お前か、シグマ」
「シグマ……?」
冴子が身を乗り出す。
「知っている相手なの?」
蓮は答えなかった。
脳裏に浮かぶのは、3年前、自分の背中を追いかけていた青年の姿だ。
蓮が持つ技術の全てを叩き込み、そして——己の過信から闇に落ちていった、かつての唯一の弟子。
その時、緑色だったコンソールの画面が、突如として真っ赤に染まった。
『——久しぶりだな、Zero(師匠)』
スピーカーからではなく、画面上に直接テキストが叩き込まれる。
インタラクティブなリアルタイム・チャットの接続。相手は、蓮がこの端末にアクセスした瞬間に気づいていたのだ。
『キーボードを捨てて清掃員ごっこか? 随分と落ちぶれたものだな』
久我原が息を呑み、冴子が思わず画面に一歩近寄る。
『だが、これで舞台は整った。お前が大事に隠していた過去も、その令嬢が握る父親のゴミデータも、全部俺が暴いてやる。……せいぜい、昔みたいに俺を楽しませてくれよ』
画面が激しく明滅し、通信が一方的に切断された。
残されたのは、静まり返った室内と、赤く点滅するエラー画面だけだった。
冴子が蓮の肩を掴む。その手はかすかに震えていた。
「ねえ……あなた、本当に何者なの? “Zero”って何!? 敵はあなたを師匠って呼んだわ!」
蓮は静かに立ち上がると、作業着のポケットからマイナスドライバーを抜き取り、コンソール横の通信ケーブルをバツンと音を立てて直接物理切断した。
「……言ったでしょう。ただの掃除屋です」
蓮は冴子の直視を避けず、冷たい瞳で振り返った。
「ただし、あいつが散らかしたゴミは……俺が片付けるしかないようです」
(第3章・了)




