第2章:秘書の沈黙
「久我原さん、大丈夫ですか」
冴子の声で、久我原充はハッと我に返った。
背中に嫌な冷や汗が伝うのを感じながら、慌てて眼鏡のブリッジを押し上げる。
「……ええ、問題ありません。少し、状況の整理をしていただけで」
嘘だ。心臓がうるさいほど肋骨を叩いていた。
非常灯の赤い光が明滅する中、久我原はポケットの中のスマートフォンを潰さんばかりに握りしめていた。画面には当然、「圏外」の文字。
(……まさか、奴らか……!)
半年前の記憶が、濁流のように脳裏をよぎる。
『一之瀬勝征が遺したデータを消去してほしい』
取引先を装った男からの、法外な報酬を伴う裏の依頼。
久我原がその依頼に頷いたのは、金のためではない。先代社長が遺した“表に出せない不都合な真実”から、一人娘である冴子を守るためだった。自分が泥をかぶってデータを消せば、全ては闇に葬られるはずだったのだ。
だが、甘かった。
今夜起きているこのサイバーテロは、あの時の判断が引き寄せた悪夢ではないのか。
自分の暗躍が、逆にお嬢様を極限の危機に追い込んでいるとしたら——。
「久我原さん、手が震えてますよ」
背後からの静かな声に、久我原の肩が跳ねた。
振り返ると、作業着姿の清掃員——蓮が、無表情でこちらを見下ろしていた。
その瞳はボサボサの髪の奥で、恐ろしいほど冷たく澄んでいる。
(……なんなんだ、この男は)
先ほど、電子ロックの配線を引きちぎるように秒で解除した圧倒的な手際。
そして、モニターのログを一瞬で見抜いた、プロの眼光。
長年、経営の裏側で数々の“ヤバい人間”を見てきた久我原の直感が警報を鳴らしていた。この男はただの掃除屋ではない。戦場を知る人間の目だ。
「……別に、なんでもありません」
久我原は動揺を隠すように冷たく言い放ち、管理人室のドアノブに手をかけた。
今の自分に、この男の正体を勘繰る余裕などない。自分自身が、お嬢様に到底言えない巨大な秘密を抱えているのだから。
「独立回線のコンソールは中に入って右奥です。……急ぎましょう」
ドアを押し開けると、暗闇の中で非常用端末が不気味な緑色の光を放っていた。
久我原は自分の過ちに怯える拳を固く握りしめ、吸い込まれるようにコンソールへと足を踏み入れた。
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