第1話:その指、伝説につき
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「おい、そこ。水拭きが甘いぞ」
背後から飛んできた横柄な声に、鷹野蓮は手を止めずに小さく溜息をついた。
一之瀬グループ本社の35階、役員フロア。深夜2時。
蓮はグレーの作業着に身を包み、黙々と廊下のポリッシャー(床磨き機)を操っていた。
声をかけてきたのは、ブランド物のスーツを少し着崩した若手の社員だった。
深夜残業の苛立ちを、目の前の「身分の低い清掃員」にぶつけているのは明らかだ。
「……申し訳ありません。やり直します」
蓮は感情の失せた声で短く答え、ポリッシャーの向きを変えた。
ボサボサの髪に、深く被った作業帽。誰も彼の素顔など気にも留めない。
ただの、無口で、どこにでもいる、替えのきく清掃員。
それが今の、そしてこれからの蓮の「正体」のはずだった。
3年前。
“Zero”という名がダークウェブから消えた日、彼はキーボードを捨てた。
友を失ったあの日、デジタルな世界との関わりは全て断った。
今の彼が握るのは、世界を揺るがすコードではなく、モップの柄と洗剤のボトルだけだ。
社員が鼻を鳴らして去っていく。
蓮は再び、ポリッシャーの規則的な振動に意識を沈めた。
この、誰にも干渉されない無機質な時間が、今の彼には心地よかった。
だが、その静寂は、唐突に破られた。
ビーーーーーーーーーーー!!!
鼓膜を突き刺すような非常ベルの音が、役員フロアに鳴り響く。
同時に、廊下の天井照明が一斉に消灯し、不気味な赤い非常灯だけが点灯した。
「な、なんだ!? 何が起きた!」
先ほどの社員が、パニックを起こした声で戻ってきた。
「エレベーターが止まってる! スマホも圏外だ!」
フロアは大混乱に陥った。
残業していた数少ない社員たちが廊下に飛び出し、右往左往している。
蓮は、ポリッシャーを壁際に寄せ、静かに周囲を観察した。
ただの火事ではない。
照明、エレベーター、通信、そしておそらくセキュリティ……。
全てのシステムが、同時に、かつ完璧にダウンしている。
これは、物理的な障害ではない。
——ネットワークからの、全システム強制占拠。
「落ち着いてください! 非常階段へ!」
その凛とした声は、混乱する社員たちを一瞬で静めさせた。
廊下の向こうから、一人の女性が歩いてくる。
一之瀬グループ社長令嬢、一之瀬冴子。
夜会巻きにした髪と、隙のないビジネススーツ。
緊急事態にあっても、彼女の瞳には強い意志が宿っていた。
「冴子お嬢様! しかし、階段の電子ロックが……!」
「……クソ」
蓮は、思わず舌打ちした。
冴子の登場にではない。
その時、近くの壁に埋め込まれた大型モニターが、突然起動したからだ。
そこに映し出されたのは、真っ黒な背景に、不気味なピエロのアイコン。
そして、その下に流れる、無数の複雑なコードの羅列。
『ネメシスへようこそ、一之瀬グループの諸君』
合成された音声が、スピーカーから流れる。
『我々の要求は単純だ。令嬢、一之瀬冴子が持つ“亡き父の遺産”の全データ。これを1時間以内に指定のサーバーへアップロードせよ。さもなくば、このビルの全システムを破壊し、内部データを全てダークウェブへ流出させる』
フロアは再び、絶望的な静寂に包まれた。
誰も、何をどうすればいいのか分からない。
警察を呼ぶことも、外部のセキュリティ会社に連絡することもできない。
この35階は、完全に孤立した密室と化したのだ。
冴子は、ピエロのアイコンを凝視し、唇を噛んだ。
「お父様の……遺産?」
「無駄ですよ、お嬢様」
冷ややかな声が、人々の間から響いた。
声の主は、久我原充。
先代社長の時代から仕える、社長秘書だ。
彼は眼鏡のブリッジを押し上げながら、冷徹に言い放った。
「ネメシスのハッキング技術は世界屈指。一度システムを掌握されたら、外部からの解除は不可能です。彼らの要求を飲むか、全てを失うか……。今の私たちに、選択肢はありません」
「……そんな」
冴子の顔に、初めて絶望の色が浮かぶ。
「終わった……。もう、終わりだ……」
社員たちが崩れ落ちる。
諦めの空気が、フロアを支配しようとしていた。
その時だ。
「……甘いな」
ぽつりと、小さな、だが奇妙に通る声が、その場に響いた。
全員の視線が、声の主を探す。
そこには、役員フロアの豪華な内装には不似合いな、作業着姿の男が立っていた。
ポリッシャーの横で、腕を組んで、ピエロのモニターを眺めている。
「な、なんだ、お前は! 清掃員が、何をして……」
久我原が声を荒らげる。
だが、蓮はそれを無視し、モニターを指差した。
「そのコードの書き方。痕跡消去のスクリプトに、3行目と7行目に無駄なダミーコードを入れてる。……素人目には完璧に見えるだろうが、これは相手をビビらせるための、典型的な“見せプ”だ。本物のプロは、もっと美しく、無駄なく書く」
「……は?」
久我原が呆然と声を漏らす。
冴子も、眉をひそめて蓮を見つめた。
「あなた……何を言っているの?」
蓮は、ゆっくりと冴子の方を振り返った。
深く被っていた帽子の隙間から、3年間、誰にも見せなかった“Zero”の瞳が、赤い非常灯の中で鋭く光る。
「ネメシスの手口。……こいつは、俺が昔、徹底的に叩き込んだ手癖を、真似ているだけだ」
その声には、清掃員の弱腰さなど、微塵もなかった。
圧倒的な自信と、かつての伝説的なハッカーとしての凄みが、その場を圧倒する。
蓮は、作業着のポケットからモップの柄ではなく、一本のマイナスドライバーを取り出した。
「お嬢様、俺に10分ください。このフロアのセキュリティパネルから、ネメシスのサーバーへ『直接』アクセスして、バックドアを抉り開けてやります」
「……あなた、本当に清掃員?」
冴子の問いに、蓮は苦笑いのようなものを浮かべた。
「今は、ただの掃除屋です。……ただし、デジタルのゴミを掃除するのは、3年ぶりですがね」
蓮はそう言うと、フロアの隅にあるサーバーラックの扉に向かって、迷いのない足取りで歩き出した。
その背中は、崩れ落ちていた社員たちに、微かな、だが確かな希望を感じさせていた。
(第1話・了)
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