番外編:春の別荘と、二人の采配 後編②
朝の別荘は、静かに目を覚ます。
窓の外では、薄い霧が庭をやわらかく包み込んでいた。
夜の名残を残した空気はひんやりとしているが、東の空から差し込む光が、ゆっくりとそれを溶かしていく。
枝の先に揺れる若葉が、朝の風にかすかに鳴る。
遠くで鳥の声が重なり、昨日よりも少しだけ軽い一日が始まろうとしていた。
食堂では、
長いテーブルに、朝の光が斜めに落ちる。
セレナはすでに席についていた。
「おはよう」
奥様が柔らかく声をかける。
「おはようございます」
セレナがにこやかに返す。
「よく眠れたかしら?」
「ええ、とても。驚くくらいに」
カップを手に取り、ふっと息を吐く。
「ここは、ずっと居たくなってしまいますわ」
「それは困るわ」
奥様がくすっと笑う。
「ここは“留まる場所”ではなくて、“送り出す場所”なの」
公爵が短く言葉を重ねる。
「止めるための屋敷ではない」
セレナが少しだけ目を細める。
「だからこそ、心地いいのね」
その少し後ろ。
アルトが静かに控えている。
背筋はまっすぐ。
だが、昨夜よりもわずかに力が抜けている。
そのさらに後ろで、リリナが動く。
カップの位置を整え、パンの温度を確認し、さりげなく使用人へ視線を送る。
その動きは小さく、速く、無駄がない。
まるで小動物のように、ちょこまかと動く。
(……あいつ、朝から変わんねぇな)
アルトが一瞬だけ視線を向ける。
リリナはそれに気づかない。
朝食は穏やかに進む。
軽い会話。
旅の続き。
王都での予定。
その中で、セレナがふとアルトを見る。
「ねえ」
軽い調子。
「今日、出発まで少し時間があるでしょう?」
アルトが視線を返す。
「ございます」
「もう少しだけ、外を見てみたいの」
いたずらっぽく笑う。
「昨日は時間が足りなかったわ」
奥様がわずかに苦笑する。
「まだ足りないの?」
「ええ」
即答。
「だって、楽しかったもの」
公爵が小さく息を吐く。
「……仕方ないな」
奥様が肩をすくめる。
「本当に、昔からこうなのよ」
「気に入ると、とことん離れない」
セレナが楽しそうに笑う。
「いいじゃない」
「それで後悔したことはないもの」
その言葉に、奥様は少しだけ目を細める。
「……そういうところも、妹に似てるわ」
視線がアルトへ向く。
「お願いできるかしら」
断れない。
「承知いたしました」
アルトが一礼する。
リリナはその様子を横目で見て、
ほんの一瞬だけ手を止める。
(……また)
でも、すぐに動きに戻る。
別荘の外。
朝の光がやわらかく広がる。
セレナは軽やかに歩き出す。
アルトはその半歩後ろ。
「本当に、優秀ね」
振り返りながら言う。
「昨日もそうだったけど」
「全部きちんと整えてる。完璧だったわ」
アルトは淡々と答える。
「職務ですので」
「つまらない答えね」
セレナが少し頬を膨らませる。
「もっと崩してもいいのに」
アルトが小さく息を吐く。
「これが仕事です」
「そう」
「でもね」
振り返って少しだけ距離を詰める。
見上げる形になる。
(……近い)
「昨日の最後の方」
「少しだけ、違ったわよ」
アルトの視線がわずかに揺れる。
「気のせいでは?」
「いいえ」
くすっと笑う。
「そっちの方が好き」
その言葉に、
アルトは少しだけ目を細める。
「お褒めに預かり光栄です」
だが、そこから踏み込まない。
セレナは肩をすくめる。
「最後にもう一度言うわ」
少しだけ真面目な声。
「私と来ない?」
風が吹く。
静かな間。
アルトがゆっくりと口を開く。
「……悪いが、それは無理だ」
さっきまでとは違う。
少しだけ低くて、砕けた口調。
「ここを離れる気はねぇ」
はっきりと言い切る。
セレナの目が一瞬だけ見開く。
それから――
楽しそうに笑った。
「ふふっ……やっぱりそっちの方がいい」
「それから、その言い方あなたらしいわ」
「……でも残念だわ」
アルトは何も言わない。
ただ、視線だけを少しだけ逸らす。
やがて、出発の時間。
馬車が用意される。
ここから王都まであと半日程。
王都では、彼女の忙しい毎日が待っている。
ここで体を癒すことで、気力を取り戻せるように。
奥様がセレナの手を取る。
「気をつけてね」
「ええ」
「また来るわ」
「ええ、いつでも」
公爵が短く頷く。
「王都でまた会おう」
セレナが乗り込む。
最後に、アルトを見る。
「本当に残念」
「でも」
少しだけ笑う。
「いいもの見せてもらったわ」
その言葉に、
アルトは何も返さない。
ただ、わずかに目を細める。
馬車がゆっくりと動き出す。
やがて、見えなくなる。
静寂が戻る。
「……行ったわね」
奥様がぽつりと言う。
「ええ」
公爵が答える。
「嵐のようだったな」
「でも、嫌いじゃないでしょう?」
「まぁな」
小さなやり取り。
そして、視線が自然に後ろに控えている二人へ向く。
アルトとリリナ。
「……あの子たちも」
奥様が呟く。
「ようやくね、楽しみだわ」
公爵が短く返す。
「ああ」
公爵夫妻が乗った馬車が少し遅れて出発する。
アルトとリリナは他の使用人たちを纏めながら、
別荘の片付けをしていた。
指示が的確に飛ぶ。空間が変わっていく。
元の雰囲気を維持しつつ、また新たに気持ちよく過ごせるように整えられていく。
そして、すべてが終わる頃。
馬車はゆっくりと王都へ向かって進んでいた。
「……やっと終わったわ。すごく長かった気がする」
リリナが窓の外を見ながら呟く。
「ずっと忙しかったから」
アルトが肩を回す。
「まぁな。あの人、遠慮って言葉知らねぇだろ」
「知ってるわよ。ただ使わないだけ」
「それ一番厄介なやつだな」
小さく笑う。
少し間。
「……でも」
リリナが続ける。
「ちゃんと見てたわね」
「ああいう人」
アルトがちらりと見る。
「気づいたか」
「分かるわよ、それくらい」
「ただのわがままじゃないでしょ」
「人の反応、ちゃんと見てる」
アルトが息を吐く。
「まぁな。だから余計に面倒なんだよ」
「こっちの出方も見てくるからな」
リリナが少しだけ考える。
「……あなたのことも」
「気に入ってたわね」
アルトが少しだけ目を細める。
「そうだな。ああいうタイプ、嫌いじゃねぇけど」
「……嫌いじゃないの?」
少しだけトーンが変わる。
アルトがすぐに返す。
「仕事としてはな」
「それ以上は面倒くせぇ」
リリナが少しだけ視線を逸らす。
「……そう」
「なんだよその返事」
「別に」
「別に、じゃねぇだろ」
少しだけ身を乗り出して、リリナの顔を覗き込む。
「気になってんのか?」
「なってないわよ」
即答。
「なってる」
「なってない」
「いや、今の間で完全に分かった」
「何がよ」
「気にしてる顔してる」
「してないって言ってるでしょ」
「してるって。さっきから視線泳ぎすぎ」
「泳いでない!」
少しだけ声が上がる。
アルトが体を持ち上げながら背を少し後ろに倒す。
そして吹き出した。
自然な仕草で眼鏡を外し、胸のポケットに入れる。
「はは、分かりやすいなほんと」
「うるさい!」
「いやー、有能侍女様もその辺は素直なんだな」
「……あなた、次の仕事増やすわよ?」
「やめろ、それは権限の乱用だ」
同じ空気。
以前と同じ温度。
そしていつもと違う、横顔に少しの違和感を感じた。
そのまま、
ふっとアルトの体が少しずらしながら傾いてくる。
「……え?」
目の前にサラサラとした黒髪が通過する。
戸惑うように、肩に触れた。
「ちょっと、アルト?」
「……無理」
「何が?」
「もう限界だ……」
そのまま、
リリナの膝に頭がストンと落ちる。
「えっ!?ちょっと待って!!」
完全に固まる。
「何してるの!?起きて!」
アルトが目を閉じたまま言う。
大きな体を横にして片膝を安定させるように、
座席の上に折り曲げる。
「……充電させて」
「は?」
「今日一日、また全部使い切ったから」
「だから今、補充中」
「意味わかんないんだけど!?」
「分かんなくていいから動くなよ」
アルトが横に倒れても狭く感じなかった。
公爵家の馬車は、揺れも他の馬車に比べて少ない。
少し赤い顔しながら、膝のうえにある光沢のある黒髪を見つめる。
「ここがちょうどいい」
「ちょうどいいって何よ!」
「高さ」
即答。
「あと安心感?」
リリナの呼吸が止まる。
「……なにそれ」
「そのまんまの意味」
少しだけ間。
「お前、出来る侍女だろ」
「褒めてるの?」
「褒めてる」
「雑すぎるわ」
アルトが小さく笑う。
そして空中に浮いていた手首を軽く引かれる。
「動くな」
低い声。
「このまま」
リリナの呼吸が止まる。
「……疲れてるだけだ」
少しだけ、声が柔らかい。
リリナの指先が、宙で止まる。
(どうすればいいの……)
触れるべきか、離すべきか。
目の前に大きな肩、そして意外と筋肉質な腕が馬車と一緒に軽く揺れている。
こんなに近くに男性を感じることは無かった。
どうしていいか戸惑う。
でも――
そっと。
髪に触れる。
想像より柔らかい、そしていつも見上げていた横顔が目の前にある。
恐る恐る、
優しく撫でる。
アルトの呼吸が、わずかに深くなる。
「……いいな」
小さく落ちる声。
「やめる?」
「やめなくていい」
肩が少しだけ息を抜いたかのように揺れる。
「そのまま」
リリナは、小さく息を吐く。
「……わがままね」
「知ってる」
クスッと笑うのが膝に直接伝わってくる。
馬車の揺れに合わせて、
ゆっくりとそして、そっと撫でる。
ガタ、ガタ――
そのリズムと、指先の動きが重なる。
ふっと膝に重みがかかった。
体の向きが変わる。
不意に、長い腕が伸びて来て、手首を引かれた。
「っ……!」
バランスが崩れる。
視線が下に引き寄せられる。
アルトが、見上げていた。
さっきまで閉じていた目が、開いている。
少しだけ、ぼんやりした目。
でも、はっきりとリリナを見ている。
「……なに」
声がかすれる。
アルトは何も答えない。
腕がリリナの頭の後ろへそっと添える。
そして確かめるように、グッと引き寄せられた。
距離が、ゼロになる。
「――」
唇が重なる。
短く。
でも、しっかりと。
「……っ」
思考が止まる。
すぐに離れる。
アルトが満足そうに、小さく息を吐く。
「……よし」
それだけ言って、
そのまま目を閉じる。
そのまま、何事もなかったかのように。
すやすやと眠りに落ちる。
「……は?」
リリナは動けない。
(ちょっと待って……)
顔が、一気に熱くなる。
さっきまで大丈夫だったのに。
遅れて、全部が一気に押し寄せてくる。
「……何してるのよ、ほんとに……」
小さく呟く。
でも、どかさない。
膝の上の重みはそのまま。
ふと、アルトの顔を見る。
いつもの、少し意地悪そうな表情はない。
無防備で、
力の抜けた寝顔、少し額の見えた髪。
眼鏡を外した顔は、いつもよりずいぶん幼く見えた。
(……こんな顔、するのね)
胸が、また少しだけ強く鳴る。
ドクン。
ガタ、ガタ。
ドクン。
馬車の揺れと、心臓の音が重なる。
視線を外して、窓の外を見る。
でも、意識は戻らない。
膝の上の重みと、
さっきの感触が、
ずっと残っている。
(……ずるい)
小さく、心の中で呟く。
アルトは、そのまま眠り続ける。
王都へ戻る途中の街まで、
一度も目を覚まさずに。
春の光が、
静かに二人を包み続けていた。
――完
これでやっと完結しました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございました。
二作目ということもあって、書きながら「これでいいのかな…?」と何度も書き直しましたが、なんとか最後まで書き切ることができました。
最初に思い浮かんだ二人の関係を、そのまま形にしたいなと思って書いた作品です。
少しでも楽しんでいただけていたら嬉しいです。
本当にありがとうございました。




