番外編:春の別荘と、二人の采配(後編)①
夜の別荘は、昼とはまるで別の場所のように静まり返っていた。
灯りは落とされ、廊下には足音ひとつ響かない。
外では春の風が木々を揺らし、その音だけが遠くに続いている。
アルトは部屋の扉を閉めると、そのまま背を預けた。
「……はぁ……」
深く息を吐く。
一日分の緊張が、そこでようやくほどけた。
(……さすがに疲れたな)
ネクタイを緩める。
襟元を開く。
いつもの“執事の顔”が、少しずつ剥がれていく。
椅子に腰を下ろしかけた、その時。
コン、コン。
控えめなノック。
「……はい」
扉を開ける。
そこに立っていたのは――リリナだった。
灯りの下で、少しだけ頬が赤い。
「少し、いい?」
アルトは一瞬だけ見て、息を吐いた。
「……来ると思った」
「何それ」
「顔に出てる」
軽く言って、扉を開ける。
「入れ」
リリナが部屋に入る。
その瞬間、
空気が変わる。
張り詰めていた何かが、ふっと緩む。
アルトがそれを自覚する。
(……ああ、これか)
「……お疲れ様」
リリナが言う。
「見てたわ」
「だろうな」
アルトは短く返す。
少しだけ間。
「……大変だったでしょ」
「まぁな」
ごまかさない。
「でも、ちゃんとやってた」
リリナが続ける。
「全部」
アルトが少しだけ視線を向ける。
「……褒めてんのか?」
「事実を言ってるだけよ」
即答。
その言い方に、アルトが小さく笑う。
「相変わらずだな」
沈黙。
でも、気まずくない。
むしろ――落ち着く。
アルトが壁にもたれながら、リリナを見る。
「……お前がいると楽だわ」
ぽつりと出る。
リリナが少しだけ目を瞬く。
「何それ?」
「そのまんま」
少しだけ近づく。
「余計なこと考えなくていい」
「勝手に動いてくれるし」
「空気も読む」
一歩。
さらに近い。
「……で、ちゃんと隣にいる」
リリナの呼吸がわずかに乱れる。
「……仕事だから」
やっと出た言葉。
アルトが小さく息を吐く。
「ほんとか?」
低い声。
「……そうよ」
でも、少し弱い。
アルトの手が伸びる。
手首を掴む。
「っ……!」
引き寄せる。
距離がゼロになる。
「今日さ」
低く言う。
「ずっと見てただろ」
「見てない」
「見てた」
即答。
逃がさない。
「……なんで」
「なんであんな顔してた」
リリナが言葉に詰まる。
「……分かんないわよ」
本音がこぼれる。
アルトの表情が、わずかに変わる。
「……はぁ」
息を吐いて、
そのまま――抱き寄せる。
ぎゅっと。強く。
「っ……!」
リリナの体が固まる。
でも、離れない。
アルトの腕の中。
「……ちょっと充電させろ」
低く、ぼそっと言う。
「え?」
「もう、無理」
さらに引き寄せる。
「今日、ずっと使いっぱなしなんだよ」
肩に顔を埋める。
呼吸が近い。
「……お前、落ち着く」
その一言が、近すぎる距離で落ちる。
リリナの心臓が跳ねる。
「な、何よそれ……」
声がうまく出ない。
アルトが少しだけ顔を上げる。
距離が近いまま。
「だから」
「他のやつにああいう顔見せんな」
まっすぐ言う。
「俺が困る」
リリナの思考が止まる。
アルトの指が、頬に触れる。
ほんの一瞬。
それから――
唇が触れる。
軽く。でも、はっきりと。
「……っ」
一瞬で離れる。
でも、距離は近いまま。
「……やべ」
アルトが小さく呟く。
「自制効いてねぇ」
リリナが固まる。
顔が赤い。
「……最低」
小さく言う。
でも、離れない。
アルトが少しだけ笑う。
「知ってる」
もう一度、軽く引き寄せる。
今度は優しく。
「……でも、もうちょいこのまま」
声が少しだけ落ちる。
リリナは何も言わない。
でも、そのまま少しだけ身を預ける。
夜は、静かに更けていく。
――後編②へ続く
後編はあと1話あります。




