番外編:春の別荘と、二人の采配(中編)
朝の光が、白いカーテン越しにやわらかく室内へ広がっていく。
春の空気はまだ少しひんやりとしているが、窓から差し込む光は確かに季節の移ろいを感じさせた。
整えられた客間には余計な気配が一切なく、香りも、音も、視線の流れもすべてが静かに調和している。
「……いいわね」
奥様が窓辺に立ち、指先でカーテンの端を軽くなぞる。
透けるような布越しに差し込む光が、その手元を淡く照らした。
「香りも強くない。長くいても疲れない空気だわ」
その隣で、公爵が室内を一度ゆっくりと見渡す。
視線は短いが、細部まで確かめるように。
「……居心地がいいな。今までと違う」
低く落ちる声。
「これなら問題ないな」
アルトが一歩後ろで応じる。
「動線も整理済みです。使用人の配置も調整しております」
簡潔で、無駄のない報告。
リリナは少し離れた位置で、最後の確認を終えたところだった。
テーブルの角度、カップの向き、花の高さ――ほんのわずかなズレも残さないよう視線を巡らせる。
奥様が振り返る。
「あなたたち、揃っていると本当に早いわね」
やわらかい声。
「呼吸を合わせなくても、自然に合ってしまうのだから」
公爵が短く頷く。
「昔からだ」
それだけ言って、視線を外へ向ける。
ちょうどその時、遠くから馬車の音が響いてきた。
砂利を踏む重みのある音が、静かな別荘にゆっくりと近づいてくる。
「……来たわね」
奥様が静かに言う。
アルトが一歩前へ出る。
「お迎えいたします」
その背筋は真っ直ぐで、歩く速度も一定。
玄関へ向かうその姿に、迷いは一切ない。
リリナは半歩後ろで立ち止まり、全体をもう一度だけ見渡した。
(……大丈夫)
小さく息を整える。
扉が開く。
アルトが手を差し出す。
「お待ちしておりました」
「公爵家別荘、執事アルトと申します」
馬車から降り立ったのは、明るい色の髪を風に揺らす少女だった。
背は高く、しなやかな体つき。
奥様にどこか似た柔らかな輪郭だが、その瞳にははっきりとした意志と、どこか遊ぶような光が宿っている。
「セレナ・アルディスです」
「ルヴェリア王国より参りました」
軽やかに挨拶をし、そのままゆっくりと玄関をくぐる。
一歩、足を踏み入れた瞬間。
視線が動いた。
壁。
光。
距離。
空気。
すべてをなぞるように、静かに観察する。
「……素敵な空間ね。くどくないし、爽やかだわ」
ぽつりと呟く。
「疲れていたから、ちょうどいい」
奥様が前に出る。
「遠いところ、よくいらしてくれたわね」
「お母様はお元気?」
セレナの表情が少し緩む。
「ええ、とても。相変わらず忙しそうですけれど」
「私が王都へ向かうと聞いて、羨ましがっていましたわ」
奥様がふっと笑う。
「そう。あの子らしいわね」
二人の間に流れるのは、形式だけではない親しい空気だった。
公爵が短く口を開く。
「旅はどうだ」
「少し長かったですけれど、退屈ではありませんでした」
「ただ……」
少しだけ肩の力を抜く。
「少しだけ疲れたかしら」
奥様が頷く。
「そのための場所よ」
「ここではゆっくりしていってね」
案内が始まる。
アルトが前に立ち、歩幅を合わせて導く。
無理のない速度、適切な距離、過不足のない説明。
その後ろでリリナが、使用人の動きを視線だけで整える。
カーテンがわずかに揺れ、湯気が静かに立ち上る。
すべてが、自然に噛み合う。
客間。
アルトが椅子を引く。
セレナが座る。
奥様が対面に腰を下ろし、公爵がその隣へ。
ここからは――接待。
「ルヴェリアは、もう春が深い頃でしょう?」
奥様が穏やかに話を振る。
「ええ。花が多い国ですから、街全体が少し浮き立ったようになります」
「でも、こちらの春はもっと静かで好きです」
セレナが周囲を見渡す。
「こうして、落ち着いて過ごせる場所があるのはいいですね」
「旅の途中で心を整える場所は大切よ」
奥様が言う。
「次へ進むためには、一度緩めないといけないもの」
公爵が静かに続ける。
「無理に緊張を保ったままでは、判断も鈍る」
セレナが少しだけ笑う。
「やはり、経験が違いますね」
食事が運ばれる。
やわらかな香り。
少し酸味のある優しい味け。
流れるような順序。
セレナが一口含み、ゆっくりと飲み込む。
「……懐かしいです。国を出発してからなかなか食べれなかったですから。」
「これは、ルヴェリアの味を少しだけ残しているのよ」
奥様が言う。
「懐かしさはあるけれど、重くならないように」
セレナが感心したように目を細める。
「絶妙ですね」
そして、ふと視線が横に流れる。
アルトへ。
「……ねえ」
少しだけ楽しそうに言う。
「あなた」
アルトが静かに視線を返す。
「はい」
「顔、私の好みだわ。素敵ね」
場の空気が、ほんの一瞬だけ揺れる。
奥様は笑みを崩さず、公爵は何も言わない。
リリナの指先が、わずかに止まる。
「こちらに来る気はない?」
セレナが軽く続ける。
「ルヴェリアは、優秀な人材には困らない国なの」
アルトは迷わない。
「申し訳ございません」
「現在の職に満足しておりますので」
即答。
その声は静かで、揺らがない。
セレナが少しだけ頬を膨らませる。
「つれないわね」
「そんなに即答しなくてもいいのに」
その仕草は、どこか幼さを残していた。
アルトは何も崩さない。
だが。ほんの一瞬だけ、
リリナへ視線を向ける。
一瞬だけ。
(……え)
リリナの胸が、小さく跳ねる。
セレナはそれを見逃さなかった。
ゆっくりと、意味ありげに笑う。
「……なるほど」
「そういえば」
奥様が話を戻す。
「今日のお茶や料理、それからこの空間の整えたのは、あの二人なの」
さらりとした紹介。
公爵が短く添える。
「信頼している」
それだけ。
だが、その言葉の重みは十分だった。
セレナが二人を見る。
「……確かに」
「いい仕事をするのね」
午後。
セレナが軽く伸びをする。
「少しだけ、外を見てみたいわ」
「このあたりの街、案内してもらえる?」
奥様が一瞬だけ考え、
視線をアルトへ向ける。
「お願いできるかしら」
「承知いたしました」
断れない。
執事としての答え。
馬車が走る。
春の景色が、ゆっくりと流れていく。
「いい顔ね」
セレナが唐突に言う。
「こういう静かな場所、似合うわ」
アルトは視線を外さない。
「恐れ入ります」
「本当にそう思ってる?」
少しだけ身を乗り出す。
「あなたみたいな人、好きよ」
「連れて帰りたいくらい」
アルトが小さく息を吐く。
「私では役不足です」
やんわりと断る。
セレナが楽しそうに笑う。
「じゃあ、私専属なら?」
「それもお断りいたします」
間を置かない。
それが、逆に面白い。
「ふふ……強いわね」
街に着く。
そのあとは、完全にセレナのペースだった。
店を見て、立ち止まり、また歩く。
「あれも見たい」
「こっちも」
「少しだけ寄り道しましょう?」
自由。
完全に振り回される。
アルトはそれをすべて受ける。
崩さない。
だが、確実に疲れてきていた。
夜。
別荘に戻る。
静けさが戻る。
「……やっと終わったな」
誰もいない廊下で、アルトが小さく息を吐く。
上着を緩め、肩の力を抜く。
その瞬間。
コン、コン。扉がノックされる。
「……はい」
開ける。
そこにいたのは――
リリナだった。
「少し、いい?」
いつもと同じ声。
でも、少しだけ違う。
アルトがわずかに目を細める。
「……入れよ」
扉が閉まる。
静かな空間に、
二人きりになる。
――後編へ続く




