第16話:白い静寂の中で、気づいてしまうもの
朝の庭は、音を吸い込むように静かだった。
一面にうっすらと雪が積もり、踏みしめるたびに柔らかな音が足元で鳴る。
吐く息は白く、指先に触れる空気は刺すように冷たい。
「そこ、暖炉の薪はもう一束追加して。
午後から客間を使うわ」
リリナの声が、凛とした空気の中に通る。
「はい!」
若い侍女が慌てて走っていく。
その背中を一瞬だけ確認してから、すぐに次へと視線を移す。
「廊下の敷物、端が浮いてる。足を取られるわよ。今のうちに直しておいて」
「かしこまりました」
指示は短く、的確に。
無駄がない。
冬の朝は忙しい。
暖炉の管理、客間の温度調整、屋敷内の動線確保。
少しでも遅れれば、すぐに空気が崩れる。
(……大丈夫)
全体を見渡しながら、頭の中で段取りを確認する。
足りている。回っている。――はずなのに。
「リリナ様、こちらの帳簿なのですが」
声をかけられ、振り向く。
差し出された書類を受け取る。
ざっと目を通す。
(……あれ)
違和感。
ページを一枚めくる。
もう一度、目を通す。
「これ、順番が逆になってるわ」
「えっ、あ……申し訳ありません!」
「大丈夫。今のうちに直して」
落ち着いた声で返す。
でも。
(……なんで気づくの遅れたの)
ほんの些細なズレ。
いつもなら、視界に入った瞬間に分かる。
無意識に、思い浮かぶ。
(……アルトなら)
言葉にする前に、直していた。
リリナは小さく首を振る。
(違う)
人に頼る前提じゃない。
自分で回せる。
今までもそうしてきた。
書類を閉じ、次の場所へ向かう。
廊下を歩く。足音が、静かに響く。
途中で立ち止まる。
暖炉の前。
火の入り方が少し弱い。
(薪、追加されたはず……)
一歩近づく。屈み込む。
その時。
(……ここ、空気の抜け方が違う)
小さな隙間。
煙突の調整がずれている。
「……だからか」
自分で調整する。
火が、ゆっくりと強くなる。
(ちゃんと見れば分かる)
分かる。
でも。
(……時間、かかってる)
立ち上がる。
指先に残る温もりと、外の冷たい空気の差が妙に鮮明だった。
そのまま歩き出す。廊下の角。
ふと、足が止まる。誰かがいるような気がした。
でも、
誰もいない。
(……何よ)
自分で苦笑する。
「アルトじゃないんだから」
口に出してから、少しだけ間が空く。
(……なんで今それ)
足を進める。仕事は問題なく進んでいる。
指示も通っている。大きなミスもない。
それなのに。
(……やりにくい)
ぽつりと、心の中で落ちる。
その言葉に、自分で驚く。
(違う)
やりにくいわけじゃない。
(……ただ)
静かすぎる。
いつもなら、横から口を挟んでくる声。
余計な一言。
的外れに見えて、核心を突く指摘。
それが、ない。
(……いないだけで)
こんなに違うのかと、
初めて気づく。
夕方。
仕事が一段落する。中庭に出る。
雪は少しだけ強くなっていた。
白い粒が、静かに降りてくる。手を伸ばす。
指先に、すぐに溶ける。冷たい。
その感覚が、
少しだけ、胸の奥に似ている。
(……変ね)
自分の状態が、うまく掴めない。
レオンの言葉がよぎる。
――近くにいてくれると助かる
優しかった。
落ち着いていて、
ちゃんと見てくれていた。
(あれは……)
嫌じゃなかった。
でも。
アルトの声も、重なる。
――他の奴に、その顔見せたくないんだ
胸が、少しだけ強くなる。
「……なんでよ」
小さく呟く。白い息が揺れる。
どっちがいいかじゃない。
(違うのに)
違うのに、どっちも――残っている。
雪が静かに降り続く。
リリナはその場に立ったまま、
しばらく動けなかった。
そして、
ほんの小さな声で、零れる。
「……会いたい」
誰に向けた言葉か、
自分でも分からないまま。
白い空気の中に、
その言葉だけが、溶けていった。




