第13話:近くにあるのが当然になる距離
朝の王城は静かに動き出していた。
レオンは書類を閉じた。
視線は落ちたまま。
だが、意識は別のところにあった。
(……評価され慣れている相手)
(褒めは逆効果)
(主導権は一度だけ渡す)
さっきの言葉が、そのまま残っている。
(あれを、あの場で即座に出してくるか)
ただ知っているだけじゃない。
理解している。
組み立てている。
そして――
(無駄がない)
ネクタイを直した時の手。
迷いがなかった。
考えて、判断して、終わるまでが早い。
(……見てるだけで分かる)
レオンはゆっくりと顔を上げた。
「――呼んでくれ」
側近が振り向く。
「どなたを?」
一瞬だけ、間。
「リリナを」
自然に出た名前だった。
「今回の接待、補助に入れてほしい」
「理由を伺っても?」
レオンは少しだけ考える。
「現場を回せる」
短く言う。
それから、
ほんのわずかに付け足した。
「任せられる」
それだけで十分だった。
でも、
それだけじゃないことを、
本人だけが分かっている。
(……もう少し、近くで見てみたい)
言葉にはしない。
ただ、それが決め手だった。
しばらくして。
扉がノックされる。
「失礼いたします」
入ってきたリリナは、すでに手帳を開いていた。
「お呼びでしょうか」
「今日の接待、手伝ってほしい」
即答。
余計な説明もない。
ただ必要だから呼ぶ、という言い方。
「承知しました」
リリナはすぐに頭を切り替える。
「女性の高官との会談ですね」
「そうだ」
「では、場の設計から入ります」
その一言で空気が変わる。
リリナはすぐに歩き出した。
「控室の導線を確認します。人の流れが詰まる可能性があります」
「香りは弱く」
「入室後は主導権を相手に渡す形に……」
淡々と、しかし淀みなく。
レオンはその後ろを歩きながら見ていた。
(……呼んで正解だったな)
そう思う。
控室に着くと、すぐに状況が動き出す。
職員たちが慌ただしく動く中、リリナが中心に立つ。
「ここは左回りで流してください」
「この書類は上段右奥です」
「香料は不要です」
小柄な体が、空間の中心になっていく。
レオンはその様子を見ていた。
(……いつも思うけど)
“指示される側”じゃない。
“回す側”だ。
その時。
「レオン様」
職員が声をかける。
「例の資料はどちらに?」
「それは――」
言いかけた瞬間。
リリナが振り向く。
「上段右奥です。青い封筒の束の中です」
即答。
レオンは一瞬黙る。
(……全部見えてる)
リリナは何事もなかったように椅子を動かす。
軽く乗ろうとして――
バランスが揺れた。
「っ」
体が傾く。
次の瞬間。
レオンの手が伸びる。
迷いはない。
腕ごと引き寄せる。
「……危ない」
低い声。
気づいた時には、リリナは腕の中にいた。
時間が止まる。
距離が、近すぎる。
リリナはすぐに体勢を立て直そうとする。
「申し訳ありません」
離れようとする。
でも、一瞬だけ遅れる。
レオンはそのまま支えていた。
(……)
手を離すタイミングが、少しだけ分からなかった。
「怪我は?」
「問題ありません」
いつもの声。
すぐに仕事に戻る声。
ゆっくり手を離す。
レオンはそのまま見ていた。
(今のは……完全に反射だ)
接待はそのまま進んだ。
リリナの采配で場は整い、空気は滑らかに流れる。
高官が静かに微笑む。
「見事なおもてなしでしたわ」
その視線は――リリナではなく、レオンへ向けられている。
「細部まで行き届いている。ここまで“自然に”整えられる方はそういない」
一歩、距離を詰める。
「あなたが指揮を?」
柔らかな問い。
レオンはわずかに首を振る。
「現場の支えがあってこそです」
あくまで静かに。
誇示しない。
「謙遜なさらないで」
くすりと笑う。
「部下が優秀でも、それを使いこなせるかは別の話ですもの」
視線が少しだけ強くなる。
「あなたの采配、気に入りましたわ」
一歩、さらに近づく。
「もしよろしければ――」
声が少しだけ落ちる。
「今度はもう少し、ゆっくりお話しできる機会をいただけないかしら」
明確な“個人への興味”。
レオンは一瞬だけ視線を受け止める。
それから、穏やかに一礼する。
「光栄です。ただ、公務の範囲であれば」
やんわりと線を引く。
「……あら、残念」
楽しげに肩をすくめる。
「でも、その距離の取り方も嫌いじゃないわ」
最後にもう一度だけ視線を送り、
「またお会いできるのを楽しみにしています」
そう言って場を離れる。
少し離れた位置で、
リリナはすでに次の準備に入っていた。
その姿を、レオンは一瞬だけ見る。
(……あれを“自分の評価”として受け取るのは違うな)
そう思いながらも、
視線は自然とそちらへ向いていた。
少し離れた場所。
リリナが職員と話している。
「先ほどの采配、すごかったです」
若い部下が素直に言う。
「動きやすさが全然違いました」
「ありがとうございます」
リリナは少し照れたように笑う。
その瞬間。
レオンの視線が止まる。
(……あの距離で、ああやって笑うのか)
理由はない。
ただ、目が離れない。
やがて接待は終わる。
人が引き始める。
「助かった」
レオンが言う。
「いえ、呼ばれたので」
リリナは即答する。
その言い方に、少しだけ笑う。
「呼んでよかったよ」
一拍。
レオンは続ける。
「君がいると、場が回る」
リリナは少しだけ目を伏せる。
「それが仕事です」
「そう」
短く返す。
でも、そこで終わらない。
少し間。
レオンは一歩だけ距離を詰める。
ほんのわずか。
意識しなければ気づかないくらい。
「でもさ」
「はい」
「……それだけじゃないんだよね」
小さく落とす。
リリナの指先が、わずかに止まる。
「え?」
顔を上げる。
視線が合う。
逃げない距離。
レオンは一瞬だけ言葉を選んで、
「近くにいてくれると助かる」
少しだけ低い声で言う。
沈黙。
さっきよりも、少しだけ重い。
リリナは自然に答える。
「必要であれば、いつでも」
その言葉に、
レオンは少しだけ目を細める。
「……うん」
小さく頷く。
でも、
そのまま終わらせない。
「できれば」
ほんの少しだけ間を置いて、
「俺が呼んだ時だけじゃなくてさ」
柔らかく言う。
でも逃げていない。
「近くにいるのが普通になればいいのに、って思う」
空気が、止まる。
リリナは言葉を探す。
でも見つからない。
「……それは」
かろうじて出た声。
レオンは軽く笑う。
「冗談」
すぐに引く。
でも、
目は笑っていない。
「また呼ぶよ」
いつもの調子に戻す。
「はい」
リリナは一礼する。
歩き出す背中。
そのまま見送る。
(俺が呼んだのに)
(なんで、こっちが離れにくくなってるんだ)
さっきよりも、
少しだけはっきりした違和感。




