8「魔女にできること、調香師にできないこと」
朝の身支度を終えて、部屋の窓を開けて換気をする。
私のあまり多くない日課のひとつだ。
調香机は昨日、材料を出したままの形だった。ルシアンさまがいらっしゃってから、気持ちをうまく切り替えることができなくて、そのままぼうっと時間を使ってしまったのだ。
不貞寝のようにベッドに入ったけれど、おかげで睡眠はばっちり取れた。目覚めも良い。頭の中がスッキリすると、不思議と気分は楽観的になるというもので。
アシュレイさまに関わる自分の今後の立場や処遇についても、まあなんとかなるかと割り切ることができそうだった。
そもそも貴族の方々の思惑を、私がどうこうできるわけもないのだ。調香師にできるのは香りを作ることだけなのだから。
作業用のエプロンを首にかけて、髪をひとつに結んで、さあ開店前にひと仕事しようかな、というときになって、店の扉を控えめにノックする音が聞こえた。
早朝から調香店に用事がある人はめったにいない。
となると誰かしらの知り合いかな、と推測をして、私の狭すぎる交友関係を思えば、自ずと候補は絞られていた。
店に出ると、扉の向こうにザックが立っていた。
いつもの穏やかな顔に、ちょっぴり申し訳なさそうな表情を載せている。
「おはよう。ごめん、朝早くに」
鍵を開けるなりザックが言う。
「ううん、起きてたから。なにかあった?」
「できるだけ早く報告をしたくて。本当は昨日のうちに来たかったんだけど、夜は迷惑だろうから。ミレルさん、喜んで食べてくれたってさ。家族の人がお礼に来てくれたんだ」
「わ、良かった! ザックの作戦、うまくいったんだね」
朝から良い報告を聞くのは喜ばしいことだ。ザックの弾んだ声に引っ張られて、私も手を合わせて声が明るくなった。
「普段よりもずっと香りがわかる、ってミレルさんが言ってたらしい。それで、家族の人から改めてお願いをされてね。昨日みたいに、食べられる香水を組み合わせた料理を作って欲しいって。それで相談なんだけど……」
「うん、もちろん大丈夫。香味水を作ればいいんだよね」
「ごめんね、仕事を増やしてしまって。もちろん、ちゃんと仕事として報酬は払わせてもらうから。忙しいかもしれないけど、どうにか都合をつけてもらえると僕が助かる。コレットの力がないとどうにもできないから」
「う、人を煽てるのが上手いなあ」
ひとりの人間としても、職人としても、そんな風に言われると「よし、やってやりましょう」と気合が入ってしまうというものだ。
見上げるほど高い身長のザックが、ちょっぴり不安そうにお願いをしてくる姿にも、どこか放って置けない弱みがあって、それを目の前に見せられて冷たく追い払うなんてこともできない。ザックって人を動かすのが上手い。
「今夜もミレルさんに届けるんだよね? 昨日と同じで、夕方までに準備したら大丈夫?」
「それでお願いできると助かる。今夜の分の料理も昼までには用意するから。それと、良かったら今日も食事に来てくれる? 仕事の報酬の中に、コレットの食事も含めておくから」
「……それは、すごく嬉しいかも。美味しいご飯、助かります」
料理が得意ではない人間として、日々の食事には悩まされている。
本当は毎日のようにレストランで好きなものを食べたいけれど、それにはやっぱりお金という悩みの種がある。
それじゃあまたあとで、と階段を降りていくザックを見送ってから、私はよし、と気合を入れた。
ミレルさんのために調香する。それは食事を香りにするという一風変わった仕事だけれど、誰かのためになる大事な仕事でもある。そこになんだか、やりがいみたいなものを感じるのだった。
それから一週間ほど、毎晩、ミレルさんの食事のために香味水を用意するという新しい日課が加わった。
昼にザックから料理を受け取り、夕方までに香味水を調合して渡す。夜にはザックが店に来て、ミレルさんの感想などを聞きながら、翌日の料理の相談をする。
日中にはアシュレイさまの香水を作り直すための香料を薬草市場に探しにいったり、たまにくるお客さまの接客をしたり、フムルに”精香”について教えてもらったり、お昼寝をしたり。以前と比べて忙しい日々は、間違いなく充実感みたいなものを私に与えてくれていたと思う。
毎日が同じように過ぎていたとしても、そこに満たされたものを感じられれば、繰り返されることにも嫌味がない。むしろ忙しさの中に、こんな日が続けばいいのにと思える余裕すらあって、自分でも不思議な心持ちだった。
けれどそれは私の願望でしかなくて、そうした日々はちょっとした変化で崩れてしまう。
ある朝、同じように店に訪れたザックの表情はすっかり暗くなっていた。
「……ミレルさんが入院することになったんだ」
と、ザックは重々しく口を開いた。
「昨日の夜、体調を崩したらしくて。僕らの仕事もしばらくは休止することになる」
「それは……心配、だね」
自分の無力さというのは言葉にも反映されるらしい。
私の口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。
この一週間、少しでもミレルさんの助けになればと思って、ザックと二人で料理を作ってきた。けれど、頑張ったから良い結果が出る、という簡単な問題じゃないことも確かで。
「また退院したら、あの、一緒に料理を作ろう」
「––––ああ、そうだね。そうしよう。きっとすぐにまた退院できるはずだ。ここ数日は食べる量もずっと増えていたらしいから」
私たちは互いに声を掛け合った。それが根拠のない願望だと分かっていても、きっとそうなる、と願掛けをするように。
階段を降りていくザックの背中はいつもよりずっと気落ちしているのが見て分かった。けれどその背中を励ます言葉を私も持っていなくて、胸にずっしりと重たいものを抱えて部屋に戻った。
「なんだよ、辛気臭い顔してよ」
香炉の中で灰を掻き回していたフムルが、ひょこっと顔を出して言った。
言われなくてもそんな顔をしているだろうなと自分でも分かっていた。それでも、それをすぐに切り替えられるほど器用じゃない。
「……ねえ、フムル。”精香”で、人の病気を治すことってできないかな」
それはずっと考えていたことだった。
「そいつは無理だな」
そしてフムルのその答えは、私の予想通りだった。
「精霊に願いを託す”精香”は万能なものじゃない。精霊は神じゃないんだ。できることにも限りはある。同時に、願いには相応しい対価が必要だ。人の生き死にや病をどうにかしようってなると、そりゃとんでもない対価がいる」
「……とんでもない対価を用意できれば、できることもある?」
「まあ、用意できるなら、な。尋常じゃない量の魔力に、希少な香料を山ほど。そういうことができるなら、願いの範囲も広まるかもしれねえけど。現実的じゃねえだろ」
「……そうだね」
調香机の椅子を引いて、すとんと腰を下ろす。
頬杖をついて窓から外をぼうっと眺める。
「できることって、やっぱり限られてるんだよね」
「当たり前じゃねえか」
「私、ちょっと自信がついてたんだ。私が作った香水でいろんな人が喜んでくれるんだ、役に立てるんだって。魔法を使えば、どんな人の悩みも助けられるかも、って。ちょっぴり思ってた」
ふう、とため息が自分でも重い。
魔法はたしかに普通ではできないことまで可能にするかもしれない。けれど、人の病を治すという、単純で最も根本的な問題は解決できない。
私にできるのは、香りを作ることでしかない。
「それが領分ってもんだろ」
フムルは素っ気なく言った。
「魔法だって万能の道具じゃないんだ。自分にできることにはいつだって限界がある。それは受け入れなきゃならない。それを見違えて身の丈に合わねえことをしようとするから、生き方が拗れていくんだよ」
「……フムルって哲学者みたいだね。哲学をするハリネズミ……」
魔女ある私は、香りに魔法を込めることはできるけれど、それだって大きな力ではない。人の病を救うこともできないし、世界を平和にすることもできないし。
結局、魔法は、フムルが言うように万能の力じゃないのだ。
それを改めて思い知らされたような気がした。
誰かを救う力を、私は持っている。そんな風に信じられていた幻想はいま、ざらざらと乾いた手触りで私の中で軋んでいる。
アシュレイさまは、私を貴族の専属調香師として雇いたいと言う。
けれどアシュレイさまのお母さんは、私を嫌がって遠ざけようとしている。
そしてそれは結局のところ、私自身ではなく、私が作った魔法の香水を主体としているのであって。魔法を使って香水を作ったことには、意味はあったのだろうか。私という人間の価値に関わるものだったのだろうか。
魔法を使うことは、正しかったのだろうか。
窓の外では、昨日と変わらない賑やかな人々の生活が音を奏でていた。そこに私のどんよりとしたため息と、ベルの音が重なった。




