7「夜薔薇の気配」
「––––わかりました。では望まれる金額をご提示ください」
「違います。金額の問題ではありません」
断るしかないのだ。
なぜなら、アシュレイさまの香水の”処方箋”には、意味がないから。
薬草市場で一流の香料を買い集めて、一流の調香師が調合すればできる、というものではないのだ。
アシュレイさまの香りを抑制するには、魔法が必要だ。調合できるのは魔女しかいない。
つまり、私にしか意味がない”処方箋”を高値で売り渡すわけにはいかない。
けれどそれを正直に説明することができない。魔女という秘密を知られるわけにはいかなかった。だから、この場をなんとか切り抜けるための、断る方便が必要だ。
咄嗟にそんな都合の良い言い訳を思いつくはずもなかったけれど、今ばかりは、私には嘘ではない断るための方便がある。
「アシュレイさまにお渡しした香水は、未完成だからです」
ルシアンさまが眉間に皺を寄せ、訝しむ表情を見せる。
「あれは、アシュレイさまのお悩みを聞いてその場で作り上げた、いわば試作品なんです。今は効能を発揮していますが、どれほどの期間、それが維持できるかはわかりません」
「……あの香水は一時的なものでしかない、と?」
「はい。少しずつ効能が弱まるか、急になくなってしまうかは私にもわかりません。ですが、それを改良することもできると思っています。今、試しているところなんです。なので、調香師として未完成品の”処方箋”を売ることはできません」
「なるほど。ですが、こちらでその改良を受け持つこともできると思いますが」
「いいえ、不可能だと思います」
「不可能?」
「あっ……ええと、少し、そう、私が祖母から受け継いだ、特別な調合法を使ったものなので。秘伝なんです、はい」
「秘伝、ですか」
私は大きく頷いた。
なんだかそれっぽい話になったけれど、間違いではない。魔法を使った調合は秘伝に違いないのだから。
ルシアンさまは顎に手を当て、ふむ、といくらか悩んだ様子を見せた。
「––––では日を改めましょう。可能であれば、できる限り早くその改良品を完成させていただきたい。アシュレイさまのためにも」
「それは、もちろん、はい。私もそうしたいと思っています」
「秘伝の調合法、ですか。なるほど。それが真実であれば、交渉の内容も変わってくるでしょうね」
含みのある言い方は、私の言葉の真偽を疑うものだろうと思う。
きっとあの香水を他の調香師に分析させるのだな、と言葉がなくとも分かった。
ただ、普通の香水であっても”処方箋”を再現するのは難しい。それが魔法のものともなれば、不可能だろう。そこに心配はないけれど、再びルシアンさまが来たときにどう言い訳をすべきかには悩むことになりそうだった。
「それでは、本日は失礼いたします。お時間をいただきました」
「あっ、はい」
ルシアンさまの懐に戻っていく金貨の袋に、名残惜しい気持ちが湧く。
ああ、金貨の山……元気でね……。
ルシアンさまの手が書状に触れたとき、つい気もそぞろに言ってしまった。
「お母様にもよろしくお伝えください」
ぴた、とルシアンさまの手が止まった。
空気が一気に張り詰めるのが分かって、私は自分がうっかり失言したことを思い知った。
「––––なぜ、お分かりに?」
「いえ、すみません。つい」
ルシアンさまは私の言い逃れを許さないと、鋭く見据えている。誤魔化すことはできそうになかった。
私は身の潔白を証明するように早口で説明するしかない。
「あの、書状から”宵薔薇”の残り香がしたので。一級品のダマスク・ローズを基調としたこの香水はすごく高価ですし、社交界では身分ある貴婦人に好まれていると聞きます。なので、あの、アシュレイさまのお母様が用意されたものかと。無粋な推測でした。申し訳ありません」
頭を下げる。もしかして強く叱られるような邪推だったか、あるいは私の勘違いかもしれないと思ったけれど、ルシアンさまは「頭をお上げください」と、落ち着いた声音で言った。
「こちらこそ失礼しました。なるほど、書状の残り香、ですか」
ルシアンさまは書状に鼻を寄せた。
「––––私には分かりません。アシュレイさまと同じほどに鼻の効く人間がいるとは思いませんでしたね」
最後は独り言のように小さく呟いて。
今度こそ書状を懐に戻しながら、私をちらと見る。
「あなたは、なかなか抜け目のない調香師のようだ。アシュレイさまが興味を持たれたのは、それも一因かもしれませんね」
「は、はあ。光栄、です?」
「では本日はこれにて。近いうちにまた、お時間をいただくことになるでしょう。その時は私ではないでしょうが」
なぜか確信を持ったような口ぶりで予告を残して、ルシアンさまは店を出ていった。
ベルの音が小さくなるにつれて日常の気配が戻ってきたようで。
私は胸に手を当ててようやく、胸の奥まで呼吸ができるようになった気がした。
「……なんだったんだろう、いったい」
アシュレイさまに貴族の専属調香師に勧誘されたかと思えば、今度は大金と引き換えに”処方箋”の取引を持ちかけられて。
どちらも私の人生を一変させるような出来事だった。そして、それは私が魔法を使って調香したことで、引き起こされたもので。
それが良いことなのか、悪いことなのかはわからないけれど。
私という人間の領分を超えた、手に余る出来事に巻き込まれているような予感があった。
––––決して魔法を使ってはいけないよ。
祖母の忠告が、耳の奥で聞こえた気がした。




