第37話 初恋幼馴染と香る燈火
「…………」
「…………」
静まり返った部屋。
微かに響く、二人の息遣い。
オイルヒーターに暖められた空気。
高まる二人の体温と、早まる鼓動。
仰向けに倒れた涼太と、その上に跨るように手をつく姫奈の視線が絡み合う。
(な、何で……ヒメは、退かない……?)
どうしようもなく姦しい心臓の音を聞きながら、涼太の表情に戸惑いの色が浮かぶ。
「ひ、ヒメ……?」
「…………」
「お、おい。早く退けって……」
涼太はぎこちない笑みを作って言う。
まるで、この妙に理性をくすぐる雰囲気を否定するかのように。
それでも、姫奈はどこか恍惚とした瞳を涼太に真っ直ぐ向け続ける。
何を考えているのか、まったくわからない。
ただジッと、涼太を見詰めている。
(コイツ、何考えて……って、まさかっ……!?)
涼太の焦点が姫奈の瞳から僅かに下へ。
細い鼻筋を伝い、薄桜色の唇へと。
ドッ……ドッ……ドッ、ドッ、ドッ、ドドッ、ドドッ、ドドッ!!
指数関数的に上昇する心拍数。
全身へ熱い血流を押し出す拍動も強くなる。
形の良い薄い唇。
艶やかで瑞々しい。
きっと触れれば柔らかいのだろうと思わせる。
そんな唇が、静かに開いた。
「ねぇ、リョウ君……」
次にどんな言葉を紡ぐのか。
目が離せずにいる涼太の視線の先で、姫奈の唇が柔らかく弧を描いた。
「唇、見過ぎだから」
「っ、いや、俺は別にっ……!」
「……嘘。期待してたくせに」
「……っ!!」
「……エッチ」
「んなっ……!?」
顔を真っ赤にする涼太を見て、姫奈がけらけらと笑う。
「ひ、ヒメが思わせぶりなことするからだろ!?」
「ごめんごめん」
姫奈は笑って平謝りし、涼太の胸をポンポンと叩いてから立ち上がった。
涼太は大きくため息を吐き、姫奈が完全に自分の上から退いたのを確認してから立つ。
「まぁ、ともかく。折角ヒメが作ってくれたクッキーなんだ。コレは俺が食べるからな? 異論はナシだ」
涼太はまだ五枚ほど残っているクッキーの袋を一度閉じてから、学習机の上にそっと置いた。
姫奈はその様子を不満げに見詰めていたが、諦めたようにため息一つ。
「もぅ、リョウ君は頑固だなぁ」
「何を今更」
「確かに」
涼太と姫奈は向かい合ってクスクスと笑った。
「あ、そうだヒメ。ちょっと待ってて」
「なに?」
涼太は自室のクローゼットを開ける。
何着か上着が掛かったその上の棚の奥に仕舞い隠していた紙袋を取り出した。
それを持って、姫奈の前に立つ。
「俺が一人で買い物に行った日があったろ?」
「……あぁ、未来の後輩ちゃんとお楽しみだったっていう」
思い出した姫奈がジト目を作るので、涼太は「行ったのは一人だから!」と、未来の後輩である彩香と出逢ったのはたまたまであることを念押ししておく。
「こ、コホン。ともかく、あの日はこれを買いに行ってたんだよ」
涼太は気恥ずかしさ混じりに笑いながら、紙袋を姫奈に差し出した。
「誕生日おめでとう、ヒメ」
「えっ、じゃあコレ……」
「ああ。誕生日プレゼントだ」
姫奈は目を丸くして、呆然としたまま紙袋を受け取る。
「あ、開けても良いの?」
「もちろん」
涼太が頷くのを見てから、姫奈は手元に視線を落とす。
紙袋に手を入れ、中に入っていた紙製の小箱を取り出し、更にその蓋を開ける。
すると――――
「あっ、コレ……アロマキャンドル?」
「だな」
ガラス製の円柱カップの中に固められた蝋は透明感のある深い青色で、散りばめられたラメが夜空に瞬く星屑のようにも見える。
「その……どう、だ? 迷惑じゃないか?」
「……全然、そんなことないよ」
小箱を紙袋に戻し、アロマキャンドルを両手で大切そうに抱えた姫奈が、涼太に顔を向ける。
「嬉しい、凄く……ありがと。リョウ君」
「はは……なら、良かった」
涼太は安堵したようにホッと胸を撫で下ろす。
プレゼント選びに彩香の助言があったとはいえ、やはり直接姫奈から感想を聞くまでは安心出来ずにいたのだ。
「ねぇ、リョウ君。点けて良い?」
「え、今か?」
「うん」
「んまぁ、良いけど……」
一緒にライターも買ってきたんだよ、と言って涼太が紙袋を指差す。
もう一度その中身を確認した姫奈が、「あ、ホントだ」と着火口が少し長い安全なライターを取り出した。
「リョウ君リョウ君、電気切って」
「お、おう」
涼太は部屋の扉近くにあるスイッチを切った。
その間に姫奈はベッドを背もたれ代わりにして床に座り、足元にアロマキャンドルを置いていた。
「ほら、早く早く」
「はいはい」
姫奈が手招きするので、涼太は苦笑しながらまた姫奈の傍に戻って、その隣に腰を下ろした。
薄闇に包まれた部屋。
カチッ、と姫奈がライターの引き金を引くと、着火口に橙色の熱の塊。
それをアロマキャンドルの中心からぴょこっと飛び出す白い芯に近付け、点火。
――――灯った。
本当に小さな燈火。
小指の先ほどしかない橙の輝き。
静かに、どこか儚げに揺らめく。
ほんの些細な風一つで吹き消えそうな燭光だが、涼太と姫奈が並んで座るその限られた場所を淡く照らし出すには充分。
少しすると、燈火が微かに生み出す上昇気流に乗って、ユーカリとラベンダーの落ち着いた香りが鼻腔をくすぐってくる。
「良い香り……」
「だな」
「それに、綺麗……」
「……だな」
涼太の二度目の返事の先は、姫奈の横顔を向いていた。
精緻に整った顔の造形は淡い光に当てられて凹凸が明瞭になり、榛色の瞳は揺れるように煌めき、仄かに朱に染まった姫奈の頬を暖色に照らし出す。
微かな光源のせいか、いつにもまして姫奈の儚げな雰囲気が引き立てられているようだった。
そんな横顔に見惚れる涼太の視線に気が付いたのか、姫奈も静かに振り向いた。
両腕に膝を抱え、傾げた頭を乗せる。
浮かび上がる微笑みは、どことなく嬌艶。
「……なに、リョウ君?」
聞かずとも答えがわかりきっている表情に他ならなかった。
それでも、聞いてくる。
涼太の口から聞きたいから、聞いてくる。
涼太もそれをわかっていて、真剣な表情で呟くように答えた。
「ヒメしか、見えない……」
「……好きってこと?」
「好きってこと」
「どれくらい?」
「ヒメが想像出来ないくらい」
なにそれ、と姫奈はくつくつ堪えるように笑う。
今日、二度目。
涼太の視線と、姫奈の視線が絡み合う。
静寂の中、小さな燈火の熱が伝播する。
自分の膝に預けていた姫奈の顔の赤みが、じわりと増す。
ゆっくりと顔を持ち上げ、真っ直ぐ涼太と見詰め合う。
膝を涼太の方に傾け、体重を支えるように両手を床につく。
互いの焦点と焦点を合わせたまま、姫奈の顔が静かに、ゆっくりとゆっくりと、ことさらにゆっくりと……涼太の顔に近付けられていく。
「……初めて?」
姫奈が囁くように問う。
「……初めて」
涼太が静かに答える。
クスッ、と微笑んだ姫奈。
顔に掛かる横髪を片方の耳に掛けた。
「……私も」
姫奈が目蓋のカーテンを下ろす。
揺らめく榛色の瞳が隠れる。
音はない。
ただ静かに、そっと、涼太の唇に姫奈の唇が触れた。
アロマキャンドルの小さな燈火でも触れば熱い。
しかし、重ねられた二人の唇も負けずに熱かった。
触れ合った時間はほんの三、四秒。
それでも、互いの熱を確認するには充分すぎる時間だった。
姫奈は閉じていた目を開け、涼太の唇から自身の唇を離す。
赤らみながらも不思議そうな表情を浮かべ、右手の人差し指と中指で自分の唇の形をなぞった。
涼太もそんな様子を見詰めながら、離れてもなお、まだ自分の唇に姫奈の唇の感触が残っているのを感じる。
溶けるように柔らかくて。
それでも触れる弾力があって。
想像していた以上に、熱い。
人の体温とは思えないほどに、熱を帯びていた。
「……やっぱ、恥ずかしいね…………」
姫奈は照れ臭そうに緩む口許を隠すように手を添えながら、呟いた。
「ファーストキスって、忘れられないワケだ……」
涼太と姫奈は、このあともしばらくアロマキャンドルの香る燈火を見詰め続けた。
特に会話をするわけでもなく、ただ静かに、早鐘打つ鼓動に耳を傾けながら――――




