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神森神社を後にした私は、商店街に寄ることなく帰宅した。せっかく駄菓子屋さんを楽しみにしていたのに、もう、そんな気分ではなかった。
夕ご飯を食べた後も、自分の部屋でだらだらと過ごしながら、陽仁の言葉を考えていた。
何か不思議なことって、何だろう?
私が今まで経験したことのないこと、とも言っていた。
「ひなみちゃん、ちょっといいかな?」
「秀くん?」
「昨日、言い忘れてたことがあって」
秀くんはそう言いながら、両手にコーヒーを持って私の前に座った。
お礼を言ってコーヒーを受け取る。淹れたてのコーヒーはかなり熱く、ふうふうと冷ましながら、そっと口をつけた。
「昨日、入っちゃいけない場所を教えたでしょ? 一ヶ所、大事なところを忘れててさ。神森神社って所なんだけど」
「……え?」
「普通にお参りするのは別にいいんだ。ただ、本殿の奥にある千本鳥居をくぐって、さらに奥に行くのは禁止されてる」
「……それって、なんで?」
「なんでって、そういうしきたりなんだよ。村の中での決まりごとみたいな」
「……」
……今日、行ってきました。
そんな言葉が喉まで出かかった。
でも、そんなの知らなかった。そもそも、どうして行っちゃいけないの? 立ち入り禁止なら、看板くらい立てておいてよ。
それに、陽仁は普通に入っていた。
いろんな言葉が頭に浮かんでは、声にすることなく消えていく。
どうしよう。正直に言うべき?
私はまだ神森村に来て3日しか経っていない、いわば神森初心者だ。
しきたりを破ったことで何が起こるのか、まったく分からない。けれど、黙っていて後からバレるよりは、今のうちに話したほうがいいはずだ。
「あのね、秀くん。実は――」
意を決して、千本鳥居をくぐり、奥まで行ってしまったことを話そうとした、そのとき。
トントントン。
窓のほうから、何かを叩くような微かな音が聞こえた。
思わず口を閉じ、耳を澄ませる。
どうやら、窓から聞こえてくるようだ。
トントントン。
カタカタカタ。
「なんの音だ?」
「窓のほうみたい」
トントントン。
カリカリカリ。
「鳥、とか?」
「こんな時間に? もう夜の9時だよ」
ガタガタガタッ!
ドンドンドンッ!
「いったいなんなんだ!?」
「やだっ、絶対鳥じゃないよ!」
音はだんだん大きく、激しくなっていった。
思わず私も秀くんも立ち上がり、カーテンの閉まった窓を見つめる。
何かが力任せに窓を叩き、無理やりこじ開けようとしている。
そんな音だった。
でも、どう考えてもおかしい。
こんな時間に誰かが訪ねてくること自体おかしいし、そもそも、来客なら窓ではなく玄関から来るはずだ。
それに、何より――。
私の部屋は2階にある。
ベランダがあるわけでもない。窓の外には、人がよじ登れるような足場も何もない。
じゃあ、
窓を叩いて、開けようとしているのは、いったい何?
「ひなみちゃん? 秀? 夜に大きな音を出して、どうしたんだ?」
「大丈夫? 何かあった?」
あまりの物音に、1階にいた叔父さんと冬子さんが部屋に顔を出した。
私も秀くんも窓のほうを向いたまま、部屋の真ん中に立ち尽くしている。私たちが音を立てているわけではないことは、すぐに分かったはずだ。
「なんだ、この音は。窓の外か?」
顔をしかめた叔父さんは、ためらうことなく窓へ近づいていく。
その間も、窓を叩く音は鳴り続けていた。
今にも窓ガラスが割れてしまいそうなほど、激しく。
「信久さん、大丈夫? なんだか怖いわ……」
「子供のいたずらか何かじゃないか? 何か石でも投げてるんだろう。 まったく、こんな夜にどこの子だ?」
叔父さんは呆れたように言いながら、私と秀くんの横を通り過ぎ、窓へと向かった。
そして、カーテンを一気に開けた。
「こら! こんな夜、に……っ!?」
め、だ。
目。
窓いっぱいに、目があった。
窓に張り付くように、何十、何百もの目がこちらを見ていた。
人間の目なのだろうか。
充血したような、血走ったような目が、ぎょろぎょろと動いている。
それらは、私たちを――いや、私だけを見ていた。
「っ……!?」
叔父さんは勢いよくカーテンを閉めると、弾かれたように飛び退き窓から距離を取った。
いつの間にか、窓を叩く音は消えていた。
部屋に響いているのは、時計の秒針が刻むカチコチという音だけだった。
「今の、って……私の見間違い、じゃ、ないよね……?」
「目、だよな」
「そう、よね。私も……見えたわ」
叔父さんはカーテンの閉まった窓を見つめたまま固まっていた。
間近で見た叔父さんには、私たちとは違う何かまで見えていたのだろうか。
「叔父さん、大丈夫……?」
「あ、あぁ。とにかく、ここから離れたほうがよさそうだ」
鳴り止んだ音が、かえって不気味だった。
私たちは急いで部屋を出て1階の居間へ移動した。
テーブルを囲むように座ったものの、誰も口を開かない。
陽仁が言っていた不思議なことって、これだったの?
不思議というより、普通にホラーなんだけど。
しかも、何かが起こることは教えてくれたけれど、どうすればいいかまでは教えてくれなかった。
……あ。
窓や玄関を開けちゃダメ、とは言っていた。
「……気味が悪いし、どこか別の場所に逃げたほうがいいんじゃないかしら」
いつものほほんとしている冬子さんも、今は表情も声も硬かった。
ぎゅっと目を閉じて、先ほど見たものを必死に忘れようとしているようだった。
「そう、だな。車でどこかに……こんな時間だが、天野宮様の所に行って……」
「俺、車の鍵を取ってくるよ」
車で逃げる?
そんなこと、できるのだろうか。
あのおびただしい数の目は、すべて私を見ていた。
私と、目が合っていた。
それに、陽仁は窓も玄関も開けちゃダメだと言っていた。車に乗るには、玄関を開けて外に出る必要がある。
……あれ、そういえば。
そのとき、陽仁からもらった半紙の存在を思い出した。
確か、ポケットに入れていたはず……。
「あった」
くしゃくしゃになっていた半紙を取り出し、なんとか広げてみる。
そこで、ようやく異変に気づいた。
もらったときよりも、明らかに小さくなっている。
文字は途中で途切れ、半分ほどの大きさになっていた。
しかも、まるで焼け焦げていくかのように、今この瞬間も少しずつ縮んでいる。
「ひなみちゃんっ、それ!? 天野宮様の御札じゃないか!」
「えっ、御札? でも、なんか少しずつ小さくなってきてて……」
「それをいったいどこで?」
「今日、神森神社に行ったときに、男の子にもらったの」
私は、神社で陽仁に会ったことを話した。
今夜、不思議なことが起こるかもしれないと言われたこと。窓や玄関を開けてはいけないと言われたことも。
話を聞き終えた叔父さんは、頭を抱えた。
「なんてことだ……」
「ひなみちゃん、天野宮様に会ったのかっ?」
「天野宮様かどうかは分からないけど、その子は陽仁って言ってた」
「天野宮の若様だ……」
何がなんだか分からない。
でも、今日神社で会った男の子はどうやら天野宮陽仁というらしい。
叔父さんが言っていた、村長ではないけれどとにかく偉い方。
失礼のないようにって言われていたけれど、陽仁が天野宮様だなんて知らなかったし……大丈夫だよね?
「若様がご存じなのであれば、動くべきではないか……」
叔父さんがそう呟いた、そのときだった。
ドンドンドン!
ガリガリ! ガタガタ!
「っ、今度はこっちに!?」
さっきまで静かだったのに、再び窓が叩かれ始めた。
しかも、今度は私の部屋ではない。
居間の窓だ。
カーテンが閉まっているから分からない。けれど、もし開けたら――また、あの無数の目がこちらをぎょろぎょろと覗いているのだろうか。
ミシ、ミシ。
窓が軋む、嫌な音が混じり始めた。
御札を見ると、さらに小さくなっていた。
もう、あと数センチしか残っていない。
この御札が、すべて焼け焦げてしまったら……?
何がなんだか分かっていない私にも、これだけは分かった。
この御札がなくなったとき、あの目を持つ何かが、家の中に入ってきてしまう。
そして、いよいよ御札があと数ミリになった、そのとき。
シャン――。
清らかな鈴の音が、夜の空気を震わせて、私の耳に届いた。




