第八話
朝から、妙な夢を見た。
巨大な黒龍が天を覆い、世界を焼き尽くさんばかりの漆黒の炎を吐き散らしている。
その傍らに立つのは、無数の光の精霊を従えた一人の女性だ。
彼女が細い指先をすっと滑らせるだけで、大地は芽吹く花園にも命を拒む荒野にも姿を変え、空を舞う精霊たちは畏怖を込めて一斉に頭を垂れる。
そして――二人は、静かに互いの手を取り合っていた。
龍帝と、精霊王。
僕の知る『原作ゲーム』における、第一部の裏ボス夫婦である。
龍帝は、世界の頂点に君臨する竜種の王。圧倒的な力と誇りを持ち、人間社会の常識など鼻で笑い飛ばす絶対者。
精霊王は、世界に満ちる精霊たちの頂点。自然そのものに等しい万能の力を秘め、穏やかな微笑みの裏に恐ろしいほど冷徹な判断力を隠し持っている。
原作での二人は、それぞれの目的のために暗躍し、主人公たちの前に立ちふさがる大いなる脅威だった。
そして何より、二人は「夫婦」という設定だった。
……そう、夫婦である。
大事なことなので、二回思い返した。
いや、夫婦であること自体は知っていた。
知っていたけれども、原作では甘い恋愛描写なんて皆無だったのだ。
互いの力を認め合い、世界の均衡を巡って時に共闘し、時にそれぞれの思惑で別々に動く。どこまでもドライで超越者らしい関係――それが、僕の知っている裏ボス夫婦のはずだった。
だからこそ、夢の中で二人が仲睦まじく手を取り合っていたのを見て、僕は思ったのだ。
ああ、これは何か嫌なことでも起きる前兆だな⋯と。
……だが、目を覚ました僕は、その不吉な予感を即座に脳外へ放り投げた。
夢は所詮、夢だ。
現実と混同してはいけない。
僕は異世界で小さなバーを営むただの店主であり、未来を予知するような特殊能力なんて持っていないのだから。
「よし、今日も平常運転で開店だ」
自分にそう言い聞かせ、仕込みを整えていた――昼過ぎのことだった。
カラン、とドアベルが涼やかな音を立てる。
「すみません。営業中でしょうか?」
重厚な木の扉の向こうから聞こえたのは、鈴を転がすような、あまりにも柔らかな女性の声だった。
「はい、いらっしゃいませ!」
僕はいつもの営業用スマイルを完璧に貼り付け、顔を上げた。
――そして、そのまま全身の時が止まった。
まず視界に飛び込んできたのは、一人の男性だ。
夜の闇を溶かし込んだような黒髪に、彫刻のように整った凄絶な顔立ち。人間風の姿をとってはいるが、ただそこに立っているだけで店内の空気が物理的に重くなるほどの、圧倒的な圧迫感。
その瞳の奥では、恐ろしいほど純度の高い金色の光が揺らめいていた。
そして、その隣に立つ女性。
透き通るような銀糸の髪をなびかせ、森の奥深くにひっそりと咲く大輪の花のように浮世離れした美しさを誇っている。彼女の周囲では、淡い光を放つ小さな粒子――精霊たちが、まるで戯れるようにふわふわと舞っていた。
間違いなく、精霊だ。誤魔化しようもない本物の。
だが、僕の思考を完全にフリーズさせたのは、二人の存在そのものではなかった。
二人の間、仲良く手をつないで立ち尽くす、小さな「ふたつの影」だ。
「おとうさま、ここがそうなの?」
「うむ。そうらしいぞ、姉さん」
幼い子どもが二人。
片方は、父親譲りの鋭くも無邪気な金色の瞳をした少年。
もう片方は、母親によく似た淡い翡翠色の瞳を持つ少女。
一卵性か二卵性かはわからないが、可愛らしい双子だった。
少年は興味津々といった様子で店内をキョロキョロと見回し、少女は母親のスカートの裾をぎゅっと握り締めながら、少しだけ緊張した面持ちでこちらを見上げている。
……。
…………。
……ちょっと待ってほしい。
脳内で何重もの警報アラートが吹き荒れる。
なぜ?
どうして第一部の裏ボス夫婦が、子連れで僕のバーに来ているんだ!?
しかも双子!?
僕の知っている原作の知識に、そんな設定は一文字だって存在しなかった。
ゲーム内の本編はもちろん、設定資料集も、公式ファンブックも、果てはユーザーたちの裏設定考察すらも網羅していたはずの僕の記憶に、彼らの子どもなんて情報はカケラもない。
つまり、これは原作には存在しない「完全な未知の出来事」。
僕の持っている唯一の武器である『原作知識』が、何ひとつ役に立たない領域。
僕は顔面の笑顔を力技で維持したまま、脳内で超高速の緊急危機管理会議を開催した。
【議題】今すぐ裏口から逃走するべきか。
【結論】逃げ切れるわけがない。相手は世界を滅ぼせる天災の化身だ。逃げた瞬間に店舗ごと消し飛ばされるか、世界の果てまで追い詰められて詰む。
というか、何より逃げるのは接客業者として失礼極まりない。
僕は店主だ。どんなお客様であれ、店に一歩足を踏み入れたからには平等におもてなしをするのがプロというもの。
そうだ。僕はどこにでもいる、ごく普通のバーのマスターなのだから。
「い、いらっしゃいませ……! どうぞ、お好きなお席へ!」
裏返った声が店内に情けなく響いた。
恥ずかしさで死にそうになるが、龍帝らしき男性は気にした様子もなく、金色の瞳で僕をじろじろと見つめてきた。
「ほう。そなたが『白葉ゆず』か」
「えっ、あ、はい! そうですけれど……」
「ふむ」
彼は一体何に納得したのだろう。
僕はまだ何も言っていないし、ただの怪しい店主でしかないはずなのだが。
龍帝は腕組みをし、上から下へと僕を観察するように視線を滑らせた。
「思っていたよりも、随分と小さ――」
「あなた?」
女性――精霊王が、極上の微笑みをたたえたまま、そっと龍帝の肘に手を添えた。
その手元から、微かに「ひやり」とした絶対零度の気配が漏れ出ているのを、僕は見逃さなかった。
「その先を口にする必要はありませんよ?」
「……む、うむ。そうだな」
あの絶対者たる龍帝が、一瞬で口を噤んだ。
えっ、何その完璧すぎる熟練夫婦のコンビネーション。
そして龍帝さん、今あからさまに僕の身長(※成人男性としてはやや小柄)を弄ろうとしましたよね?
……うん、聞こえなかったことにしよう。生きていくためには、スルー技能こそが最大の防御力だ。
「こ、こちらのお席へどうぞ! お子様用のお飲み物や、甘いお菓子もご用意できますので」
「甘いお菓子!?」
少年がパッと顔を輝かせた。
「お兄さん、甘いものあるの!?」
「ええ、とびきり美味しい果汁ジュースと、焼きたてのマドレーヌやクッキーがありますよ」
「本当!?」
少年の目が爛々と輝く。
母親の陰に隠れていた少女も、そっと顔を覗かせて小さな声で呟いた。
「……甘い、マドレーヌ」
「はい、すぐにご用意しますね」
「わーい! ありがとう、お兄さん!」
無邪気に弾ける少年の笑顔を見て、僕の緊張の糸がほんの少しだけ解けた。
ああ、よかった。
どれほど恐ろしい裏ボス夫婦の血を引いていようと、目の前にいるのは純粋で可愛らしい子どもたちだ。
初対面で店を吹き飛ばしたり、不吉な呪いを振りまいてきたりする気配はない。……今のところは、だけど。
僕は急いでカウンターに入り、それぞれの注文を用意した。
龍帝には熟成された深みのあるヴィンテージ・ウィスキーを。
精霊王には茶葉の香りを引き立てた極上のハーブティーを。
そして子どもたちには、新鮮な果実を絞ったジュースと、バターの香りが香ばしい焼き菓子のプレートを運ぶ。
「ほう……」
龍帝がグラスを傾け、琥珀色の液体をじっくりと見つめた。
「ふむ、実に芳醇な香りだ。人間どもの造る酒にしては、なかなかの品ではないか」
「お気に召していただけて光栄です」
「……そなた、我が何者であるか、本当に分かっておらんのか?」
試すような、低い声。
悪役のお客様たちが決まって口にする定番の質問だ。
ここで正直に「はい! 第一部の裏ボスで、世界を滅ぼせる竜種の王様ですよね!」なんて答えたら、間違いなく面倒な波乱が巻き起こる。
僕は営業用スマイルを崩さぬまま、首を傾げてぼかしてみせた。
「ええと……とても高貴で、お偉いお客様……でしょうか?」
「はははははは!」
龍帝が腹から豪快に笑い声を上げた。
その衝撃波だけで、天井のランプが激しく揺れ、グラス同士がカチカチと音を立てる。
頼むからやめてほしい。笑い声だけで店舗の耐震強度をテストしないでくれ。
「気に入ったぞ! 我は龍帝。そしてこちらは妻の精霊王だ」
「龍帝……さま、ですか」
自分からあっさりと名乗ってしまった。
隠す気ゼロか。豪快すぎるだろ裏ボス。
精霊王は、優雅に紅茶のカップを口元へ運びながら、穏やかに微笑んだ。
「初めまして、ゆずさん。以前から、裏の社会で『どんな存在も拒まない不思議なバーがある』と噂は伺っていましたのよ」
「は、はあ……初めまして……」
一体誰から噂を聞いたんだ。
うちの店の客層、いつの間にそんな魔境になっていたんだ。
問い詰めたい気持ちを必死に抑え込んでいると、お皿からマドレーヌを頬張った少年が、目を丸くして声を上げた。
「おいしい! おとうさま、これすっごくおいしいよ!」
少女も小さく一口噛み締めると、パッと表情を華やがせた。
「……ん。ふわふわして、おいしい」
「そうか、良かったな」
精霊王は母親の優しい顔つきで子どもたちの頭を撫で、龍帝も満足げに目を細めながらウィスキーを飲み干した。
なんなのだろう、この光景は。
世界を崩壊させかねない最強の裏ボス夫婦が、休日に家族水入らずでカフェ巡りをしているようにしか見えない。
僕は静かに息を吐き出した。
……よし。
大丈夫だ。
相手が裏ボスだろうが、天災だろうが、子連れのファミリーだろうが、お客様はお客様。
店主として美味しいお酒と料理を提供し、居心地の良い時間を与えること――やるべきことは何一つ変わらない。
ただ、ひとつだけ頭の隅で拭えない疑問があった。
原作には存在しない、この双子の幼子たち。
この子たちが存在しているという事実そのものが、この世界が僕の知る『ゲームの筋書き』から大きくズレ始めている決定的な証拠なのではないか。
(……いや、深く考えるのはよそう)
今、僕が向き合うべきは目の前のお客様だ。
そう思考を切り替えた僕の耳に、ジュースを飲み干した少年の元気な声が飛び込んできた。
「ねえねえ、お兄さん!」
「はい、なんでしょう?」
「僕、ここ気に入っちゃった! またお菓子食べに来てもいい?」
屈託のない笑顔に、僕の口元も自然と緩む。
「ええ、もちろんです。いつでも大歓迎ですよ」
少年は「やったー!」と声を上げて喜び、少女も満足そうに小さく頷いた。
その微笑ましいやり取りの背後で――龍帝と精霊王が、「やはりこの店は手元に残しておくな」とでも言いたげな、恐ろしく深い笑みを交わし合っていたことには、僕はまだ気づいていなかった。
――こうして、僕の思い描く「平穏な日常」は、またしても遥か彼方へと遠ざかっていったのである。




