第五話
「……ええと。つまり、僕は監視されているということでしょうか?」
「正確には護衛だ、マスター」
「言い方を変えただけですよね!?」
翌朝。僕は開店準備を進めながら、カウンターの向こうでくつろぐ金髪の男性を睨みつけていた。
右京雷夢。
世界最強の一角に数えられる半神であり、この世界の『第二部』における裏ボスである。
そんな規格外の人物が、なぜか開店前から当たり前のように僕のバーに居座っていた。
しかも、今日は彼一人ではない。
「おや、マスター。私の分も淹れてくれたのかい?」
「セインさんまで……」
銀髪をたなびかせた美女、セイン・月詠。
『第一部』のラスボスであり、同時にこの店の常連客でもある彼女が、優雅な笑みを浮かべて隣のカウンター席に腰掛けていた。
二人とも、昨日の誘拐事件に僕が巻き込まれたことを本気で心配してくれているのだろう。
その気持ちは本当にありがたい。心から感謝している。
しかし、だ。
「お二人とも、今日はお仕事とかないんですか?」
「問題ない。すべて片づけてきた」
「私も、しばらく予定を空けておいたよ」
「……しばらく?」
「うん。マスターの安全が確認できるまで、ここに通う頻度を増やそうと思ってね」
「それって、毎日来るということですか?」
「そういうことだな」
……お願いだから勘弁してほしい。
ただでさえ、この二人が揃うだけで店の空気は密かに張り詰めるのだ。
他の常連客――世界を揺るがすレベルの危険人物たち――がいる時ならまだいい。彼らは彼らで異常事態に慣れきっているからだ。
だが、二人きりの空間に挟まれるとなれば話は別である。僕の胃が持たない。
「マスター、コーヒーを頼めるかな?」
「はい、少々お待ちください」
「それと、朝食は食べたかい?」
「え? ああ、まだですけど」
「ならば、私が用意しよう」
「いえ、自分の分くらい自分で作りますから!?」
「遠慮する必要はないよ。マスターは昨日、大変な目に遭ったのだから」
そう言って、セインさんが子供をあやすように頭を撫でようと手を伸ばしてくる。僕は身の危険を感じて慌てて間合いを取った。
「な、撫でないでください!」
「おや。残像しか撫でられなかったか」
「残念そうに高度な技術を披露しないでください!」
そんな僕たちのやり取りを見て、雷夢さんはどこか満足げに頷いていた。
「……ふむ。やはり、マスターは今日も元気そうだな」
「ええ。昨日の出来事など、すっかり忘れてしまったようです」
「忘れてませんからね!?」
なぜ勝手に自己解決して話を進めるのか。
僕は心の中で盛大にツッコミを入れながら、諦めてコーヒーをドリッパーに注いだ。
……まあ、いい。
二人が店に来てくれること自体はいつものことだ。ただ少し、過保護の度合いが跳ね上がっているだけ。
そう自分に言い聞かせ、心を落ち着かせようとした――その時だった。
カラン、カラン。
「いらっしゃいませ――」
いつもの接客スマイルを貼り直して入口へ視線を向けた僕は、そのまま凍りついた。
ドアを潜ってきたのは、隙のない黒いスーツに身を包んだ四十代ほどの男性。
その後ろには、同じく鋭い目つきをしたスーツ姿の男女が二人、控えるように立っている。
……あれ?
なんでしょう、この『いまから厄介事を持ち込みます』と全身で主張しているような人たちは。
「失礼いたします。こちらがバー【宵闇の涙】でお間違いないでしょうか?」
「は、はい。そうですが……」
「私、異能学園騎士団・管理局に所属しております、黒瀬と申します」
男性は懐から重厚な身分証を取り出し、掲げて見せた。
「本日は、店主である白葉ゆず様にお伺いしたい件があり、参上いたしました」
……異能学園騎士団。
この世界の主人公が所属する、治安維持の要とも言える公的組織。
その、よりにもよって『管理局』の人間が、なぜ僕の店に?
僕、何か法に触れるようなことしましたっけ!?
「ええと……僕、昨日の件については、すでに現場で事情聴取を受けましたけれど……」
「ええ、承知しております。本日の件は、事件そのものの確認ではございません」
「……はい?」
黒瀬さんはちらりと店内を見渡し――カウンター席に座る二人と目が合った瞬間、その表情を激しく強張らせた。
「……っ、右京雷夢様。それに……セイン・月詠様」
「やあ。朝からご苦労様」
「おはよう。こんな早朝から何のご用かな?」
二人はまるで近所の知り合いに会ったかのように、気楽な声で挨拶を返す。
しかし、黒瀬さんの背後にいた部下二人の反応は劇的だった。
片方は喉を詰まらせるように息を呑み、もう片方は本能的な恐怖から、反射的に腰の武器へ手を伸ばしかけていた。
「……よせ! 手を離せ!」
黒瀬さんが抑えた低い声で制止する。
「こちらは、刃を交える場ではない」
部下を制したものの、黒瀬さん自身の額にも冷や汗が伝っていた。
当然だろう。目の前にいるのは、騎士団が総力を挙げたところで抑え込めるか怪しいレベルの怪物たちなのだから。
「それで……管理局の方が、僕に何の用でしょうか?」
僕は引きつりそうになる顔を必死に抑え、できるだけ穏やかな声を意識して尋ねた。
黒瀬さんは一度深く咳払いをし、懐から一枚の封筒を取り出した。
「先日発生した誘拐事件に関連し、当局としては白葉様の身辺について、いくつか確認しておきたい事項がございまして」
「身辺……ですか?」
「はい。特に――そちらのお二方とのご関係について」
……ああ。
そういうことか。
僕はようやく事態を理解した。
昨日の事件で、僕を助けるためにこの二人が派手に大暴れしたのだ。
その結果、騎士団の上層部が「なぜあの二人が動いたのか」と調査を開始し、その中心にいた僕の存在が浮上してしまった。
要するに。
僕の店が『世界を脅かす悪役たちの溜まり場』になっていることが、ついに公的機関にバレてしまったのだ。
「……あの、僕、本当にただのしがないバーの店主なんですけど」
「ええ、重々承知しております」
黒瀬さんは、なぜか酷く真剣な、どこか同情すら混じったような目つきで頷いた。
「だからこそ、確認させていただきたいのです」
……嫌な予感しかしない。
僕はカウンターの下で、そっと頭を抱えた。
お願いです神様。僕のささやかな平穏を、これ以上壊さないでください。
だが、僕の祈りが届くより早く。
「ところで、黒瀬殿」
雷夢さんが、どこまでも静かな声で割り込んだ。
「話を聞くのは一構わないが、一つだけ確かめさせてほしい」
「……何でしょうか」
「君たちは――マスターを疑っているのか?」
――空気が凍りついた。
威圧感、という言葉すらぬるい。
雷夢さんの声から完全に『いつもの穏やかさ』が消えていた。
隣のセインさんも、優雅な微笑を浮かべたまま、その瞳の奥には冷徹な光を宿して黒瀬さんを見つめている。
「……い、いえ。そのような意図は……」
「ならば、問題はないな」
雷夢さんは、何事もなかったかのように再び柔らかく微笑んだ。
「マスターは至って善良な一般人だ。この俺が保証しよう」
「私も同意見だよ」
セインさんが静かに言葉を重ねる。
「この店は、マスターが大切にしている穏やかな場所だ。無用な疑いや無礼で、彼を困らせないでほしいものだね」
……お二人とも。
お気持ちは大変ありがたいです。死ぬほどありがたいです。
けれど。
どうして僕を守るために、公的機関の人たちを全力で威圧しているんですか!?
黒瀬さんの後ろの部下二人なんて、もはや顔色が土気色になって膝をガクガクさせてますよ!?
「……承知、いたしました」
黒瀬さんは絞り出すような声で言い、深々と頭を下げた。
「本日はあくまで状況確認の段階でございます。白葉様にご迷惑をおかけする意図はございません」
彼は顔を上げると、汗の浮いた顔で僕の方を向き直した。
「白葉様。後日、改めましてお時間をいただけますでしょうか」
「……あ、はい。わかりました……」
僕は力なく頷くしかなかった。
こうして、僕のささやかな平穏な朝は露と消えた。
そして、黒瀬さんたちが命からがらという様子で去っていった後。
「マスター」
「はい……」
「今日はもう、店を閉めてしまおうか」
「どうしてですか!?」
「精神的に疲れているだろう?」
「疲れているのは事実ですけど! お店はちゃんと開けますよ!?」
「そうか。ならば、俺たちもラストオーダーまで付き合おう」
「いや、そういう意味じゃありませんからね!?」
……本当に。
僕が目指す『普通のバー経営』ができる日は、一体いつ訪れるのだろうか。
遠い目をする僕に答えをくれる者は、店内には誰一人としていなかった。




