第十五話
「……セインさん?」
僕は、目の前にある彼女の綺麗な顔を見つめた。
「どうして、離れたほうがいいんですか?」
「その子の力が危険だからだよ」
セインさんは、いつも通りの穏やかで澄んだ声で答えた。
けれど、その瞳の奥には、圧倒的な強者だけが持つ冷徹さが一瞬だけ覗いていた。
「周囲の物質だけじゃない。異能を構成する要素や、術式を維持するための構造そのものに干渉し、腐食させている。一般的な『劣化能力』とは、根本から性質が異なるようだね」
……。
ええと。
何で、初見でそこまで正確に見抜けるんですか?
いや、セインさんは第一部のラスボスだ。
異能に関する膨大な知識も、数え切れないほどの修羅場をくぐり抜けてきた戦闘経験も、しがないバー店主の僕とは比べものにならない。
だから分かるのだろう。分かるのだろうけれど。
「……私は、何もしません」
夜乃さんが、消え入りそうな小さな声で言った。
セインさんの視線が、ゆっくりと彼女へ向けられる。
「そうだね。きみに誰かを傷つける意思がないことは、私にも分かるよ」
セインさんは、まるで怯える子供を安心させるように、柔らかな微笑みを浮かべた。
「けれど、その力を制御できていないのなら話は別だ。きみに悪意がなくとも、ゆずを傷つけてしまう可能性がある。それだけは、見過ごすわけにはいかないんだ」
「……っ」
夜乃さんの顔から血の気が引き、青ざめていく。
彼女はショックを受けたように、僕の袖をぎゅっとつまんでいた小さな手を離そうとした。
しかし、指が離れきる前に、僕は口を開いた。
「セインさん。夜乃さんは、さっき僕を助けてくれたんです」
「……そうか」
セインさんは、静かに僕へと視線を向けた。
「きみを助けてくれたんだね。それは、私も感謝しなければならないな」
「それに、彼女は自分の力を誰よりも怖がっています。僕も詳しい異能の理屈なんて分かりませんけど……少なくとも、誰かを傷つけようとしているようには見えません」
セインさんは、しばらくの間、無言で僕を見つめていた。
やがて、困ったように小さな吐息をこぼす。
「……まったく。きみのそういうところには、いつも困らされるね」
「え?」
「どれほど危険な相手であっても、困っていると分かれば、きみは迷わず手を差し伸べようとする。自分の身が危うくなる可能性など、まるで考えていないかのようにね」
「い、いや、そんな大層な気持ちじゃ……」
「ふふっ。謙遜しなくてもいいさ。それがきみの美点であることは、私もよく知っているからね」
セインさんは、どこか誇らしげに微笑んだ。
「けれど、だからこそ心配なんだ。私は、きみに何かあってからでは遅いと思っている。きみが誰かを救おうとするのなら、せめてきみ自身の安全くらいは、私に守らせてほしいんだよ」
「……ありがとうございます」
僕は素直に頭を下げた。
僕の身を心から心配してくれているのは痛いほど分かる。
分かるのだけれど。
僕を巡って、世界の命運を左右するような超規格外の人たちが険しい顔で睨み合っている状況を、どうにか平和的に解決する方法はないのだろうか。
夜乃さんは、セインさんを正面から見つめ返していた。
そして、身体を小さく震わせながら、絞り出すように言った。
「……私、も」
「……うん。聞いているよ」
セインさんは、急かすことなく、静かに続きを促した。
「……私も、ゆずさんに……何かあってほしくない」
セインさんの綺麗な眉が、わずかに跳ねた。
「……そうか」
彼女は、夜乃さんの言葉を確かめるように、ほんの少しだけ目を細めた。
「それで?」
「……だから、私も……守りたいんです」
夜乃さんの声は小さく、頼りない。
けれど、まっすぐに向けられたその瞳には、譲れない強い意志が宿っていた。
――その瞬間、周囲の空間の圧力が跳ね上がった。
夜乃さんの足元から、塗られたような黒い靄がじわりと広がる。
路地の壁に刻まれていた防護用の古い術式が、まるで時間を加速させられたかのように急速に色を失い、風化して崩れていく。
セインさんの反応は一瞬だった。
「……なるほど」
彼女は一歩も退くことなく、凛と背筋を伸ばした。
その指先に、気高く澄んだ淡い光が灯る。
「きみが、ここ最近ヒノマルで噂になっている――【亡びの現人神】なのだね」
……。
…………。
………………。
え?
今、なんと?
亡びの現人神……?
僕の頭の中で、最大級の大音量警報が鳴り響いた。
第三部『七の刃で天を断つ・終焉篇』。
その裏ボスの一人。
世界のあらゆる概念・存在を風化・劣化させる、歩く災厄の化身。
極度の人間不信とコミュ障ゆえに人との接触を避け続けているとされる、正体不明の少女。
原作ゲーム(あるいは小説)では、その理外の権能によってプレイヤーたちの最強武器や強化術式を次々と無力化し、数々の初見プレイを絶望に叩き落とした超強敵だ。
まさか。
まさか、このおどおどした女の子が、あの凶悪な裏ボス!?
僕が驚愕して夜乃さんを見つめると、彼女は僕の視線に気づいた瞬間、耳まで真っ赤になった。
「…………っ!」
そして、サッと僕の背中に隠れた。
……いや、隠れないで!?
今、君がどれほど世界を滅ぼしかねない危険人物なのか、ようやく理解して冷や汗が止まらないところなんだけど!?
「マスター。少し、そこを空けてもらえるかな?」
セインさんが、静かに、だが一切の隙がない立ち姿で言った。
その声音はあくまでも優雅で、どこまでも穏やかだった。
だからこそ、その言葉の裏に潜む圧倒的な威圧感が、かえって際立っている。
「この子の力がどこまで及ぶのか、私自身の目で確かめておきたいんだ」
「えっ、確かめるって……」
「安心してほしい。命まで奪うつもりはないよ。私はただ、この子の力の性質と限界を見極めたいだけだからね」
その言葉を聞いて、僕はほんの少しだけ安心……できるわけがない!
この人の言う「安心してほしい」ほど信用できないものはない。
原作の第一部ラスボスだぞ?
本気を出せば戦いの余波で街の地形が変わるような規格外中の規格外だ。
「……ゆずさん」
背後から、夜乃さんの震える声が聞こえた。
「……夜乃さん」
「……私、怖いです」
「……うん」
セインさんは何も言わず、彼女の様子を見守っていた。
「……でも、逃げたくない」
夜乃さんは、僕の服の裾をぎゅっと力いっぱいに握りしめた。
「……あなたの前でだけは、惨めに逃げたくない……っ」
その言葉に、僕は頭を抱えたくなった。
僕は戦闘能力ゼロのただの一般人だ。夜乃さんの異能も、セインさんの魔術も、原理すら理解できていない。
けれど、このまま二人をここで激突させれば、間違いなく僕の店どころかこの区画全体が壊滅する。
……よし。
ここは店主として、命がけで仲裁するしかない。
「お二人とも!」
僕は意を決して腹から声を張り上げた。
「戦うなら、せめて場所を変えてください! この辺りは普通の人たちが生活している場所なんですから!」
セインさんが、予想外だったのか目を丸くした。
夜乃さんも、僕の背中からひょっこり顔を出してきょとんとしている。
……よし。言えた。
モブ同然の僕にしては、よくぞ言ったと自分を褒めたい。
セインさんは、ふっと呆れたように小さく息を吐いた。
「……確かに、きみの言う通りだね。私としたことが、少し先走ってしまったようだ」
彼女は指先に灯っていた光をすっと消した。
「場所を移そう。騎士団の管轄にある隔離訓練場なら、多少の余波が出ても被害は抑えられるはずだ」
「えっ、本当に聞いてくれるんですか?」
「もちろん。きみの願いを無下にする理由など、私にはないからね」
セインさんは、まるで当然のことを告げるように微笑んだ。
「ただし、一つ約束してほしい。マスターには、必ず安全な結界の内側にいてもらう。それだけは譲れないよ」
「……分かりました」
夜乃さんは僕の服を握ったまま、小さくコクリと頷いた。
こうして僕たちは、街外れに位置する頑丈な防護結界に囲まれた訓練場へと移動することになった。
……何で、平和にバーを経営したいだけの店主がこんな修羅場に立ち会っているんだろう。
僕は移動中、自分の前世からの人生設計を本気で振り返りたくなった。
◇
訓練場に着くと、広大な石造りのフィールドの中央へセインさんが滑るように歩み出た。
対する夜乃さんは、僕のすぐ隣――正確には、僕の半歩後ろにぴったりとくっついている。
僕が一歩動くと、彼女もちょこちょこと半歩動く。
僕が立ち止まると、彼女もピタリと立ち止まる。
……何だろう。小動物みたいに懐いてくれるのは素直に嬉しいけれど、距離が近すぎてセインさんの視線が痛い。
セインさんが静かに振り返った。
「準備はいいかい?」
「…………はい」
夜乃さんが、緊張で声を裏返らせながら答えた。
セインさんは、慈愛すら感じさせる微笑みを浮かべる。
「そんなに身構えなくても大丈夫さ。私は、きみを傷つけるためにここへ来たわけじゃない。まずは、その力の性質を見極めるところから始めよう」
「……分かりました」
――直後。
セインさんの姿が、視界から完全に消えた。
「えっ!?」
僕が驚く暇すらなく、セインさんはすでに夜乃さんの背後へと肉薄していた。
空間を切り裂く、疾風のごとき銀色の輝き。一撃必殺の無駄のない踏み込み。
しかし、夜乃さんの身体に触れる直前――セインさんの纏っていた光の刃が、鈍い音を立てて砕け散った。
輝きを失い、まるで数百年の年月を経たかのように鉄くずへと変質していく。
セインさんは即座に超人的な身のこなしで後方へ跳んだ。
「……やはり、そういう性質か」
彼女は砕け散った光の残滓を見つめ、興味深そうに目を細めた。
「触れた対象の物質的な構造だけではない。その存在を成立させている『概念』そのものにまで干渉し、劣化させる……。実に興味深い力だね」
夜乃さんは両手を胸元でぎゅっと握りしめ、青ざめていた。
「……ご、ごめんなさい……っ」
「謝る必要はないよ。これは、きみを責めるための場ではないのだから」
セインさんは優雅に微笑む。
「それに、私はまだ何も確かめ終えていない。もう少しだけ、付き合ってもらえるかな?」
空中へ跳躍したセインさんが、指先をしなやかに滑らせる。
瞬間、空中に無数の光の剣が生成され、一斉に夜乃さん目掛けて降り注いだ。
夜乃さんは反射的に腕を交差させた。
「……来ないで!」
溢れ出た黒い靄が波のように広がった。
飛来した光の剣が次々と輝きを失い、空中で泥のように形を崩して消滅していく。
しかし、多重展開された攻撃のすべてを相殺しきれたわけではなかった。
一筋の光弾が夜乃さんの肩をかすめ、上着の布地を鋭く切り裂く。
「……っ!」
「夜乃さん!」
思わず叫んでいた。
夜乃さんはハッとしたようにこちらを振り返る。
そして、僕の叫び声にセインさんの動きが一瞬だけ止まった。
その隙を、夜乃さんの異能が無意識に捉えた。
黒い靄が蛇のように地面を這い、セインさんの足元へ侵食する。周囲に展開されていた強化術式が次々と瓦解し、彼女の洗練された動きがわずかに鈍った。
「……なるほど。術式の維持構造そのものを腐食させているわけか」
セインさんは余裕を持ってバックステップで間合いを取る。
その表情には、焦りも怒りもなかった。
むしろ、目の前の未知なる力を前にして、純粋な興味を抱いているようにさえ見えた。
だが、夜乃さんは追撃しなかった。
それどころか、自分のしでかしたことに怯えるように、今にも泣き出しそうな顔で立ち尽くしていた。
「……私、また……制御できなくて……」
「夜乃さん、落ち着いて!」
僕は結界のギリギリまで駆け寄り、声を張り上げた。
「大丈夫です! 誰も酷い怪我なんてしていませんから!」
厳密にはセインさんの服の袖が少し焦げ、夜乃さんの上着が破れているけれど、命に別条はない。今は彼女の暴走を止めることが最優先だ。
夜乃さんは僕の声を聞き、深く息を吸い込んでゆっくりと呼吸を整えた。
渦巻いていた黒い靄が、少しずつ、穏やかに薄れていく。
セインさんはその一連のやり取りを観察し、静かに頷いた。
「……よく分かったよ」
「……え?」
「きみの力は、確かに危険なものだ。けれど、力そのものが危険であることと、きみ自身が危険な存在であることは、決して同じではない」
セインさんは夜乃さんの目をまっすぐに見つめた。
「少なくとも、今のきみは自分の力を恐れ、誰かを傷つけないように必死になっている。ならば、あとはその力との向き合い方を学んでいけばいい」
夜乃さんは目を見開いた。
「……私にも、制御……できるんですか?」
「ああ。私が保証しよう。簡単な道のりではないだろうけれど、今よりもずっと上手く扱えるようになるはずだ」
セインさんは柔らかく微笑んだ。第一部のラスボスとは思えないほど、穏やかな師の顔だ。
「もちろん、私も力を貸すつもりだよ。せっかくこうして出会えたのだからね。ただし――きみ自身が変わりたいと願うこと。それが何よりも大切だ」
夜乃さんはしばらく呆然とセインさんを見つめ、それから、ゆっくりと僕の方を振り返った。
「……ゆずさん」
「はい?」
「……私、頑張ります」
その瞳に宿っていた怯えは消え、まっすぐで強い光が灯っていた。
「……あなたの大切なお店を、絶対に壊したくないから」
……。
…………。
ああ。
この子は、本気で僕の店や僕の居場所を守ろうとしてくれているんだ。
そう理解した瞬間、なんだか胸の奥がじんわりと温かくなった。
「はい。一緒に頑張りましょう」
「…………っ!」
僕が微笑みかけると、夜乃さんは一瞬で顔をりんごのように真っ赤にした。
そして、脱兎のごとく駆け寄ってくると、僕の背中に隠れて袖をつまんだ。
セインさんは、その光景をジト目で静かに見つめている。
「……マスター」
「はい?」
「その子は、きみのことが相当好きみたいだね」
「えっ!?」
「……っ!?」
背中で夜乃さんが「ひうっ」と小さな悲鳴を上げ、さらに深く背中に顔をうずめてきた。
セインさんは、そんな彼女の様子を見て、どこか楽しげに目を細めた。
「ふふっ。これは、私が思っていた以上に大変なことになりそうだ」
「な、何がですか……?」
「さあ。それは、きみ自身が確かめていくといい」
……ああ。
またこの、僕だけが置いてきぼりにされるラブコメみたいな流れか。
僕は密かに頭を抱えた。
けれど、一つだけ確信できたことがある。
夜乃さんは、世界を滅ぼしかねない恐ろしい力を持っている。
でも、その力を持っているからといって、彼女自身が恐ろしい怪物というわけではないのだ。
僕は店主として、そのことだけは絶対に忘れないでおこうと心に誓った。
――そして。
この訓練場で行われた「規格外同士の交戦」を、遠く離れた物陰から静かに観察している存在がいた。
黒いコートに身を包んだ、裏社会に蠢く関係者の一人だ。
彼は、あの【亡びの現人神】が初めて他人の前で力を振るい、そして――たった一人の青年の言葉に従って、自らその絶対的な権能を鎮めた一部始終を目撃していた。
「……あの『化け物』が、誰かの言葉一つで威力を抑えただと……?」
男の冷徹な視線が、遠くで苦笑いしている青年に注がれる。
「白葉ゆず……ただのバーの店主ではないのか」
男は懐から暗号化された通信端末を取り出し、低い声で吐き捨てた。
「報告する。亡びの現人神に、極めて強力な接触対象が現れた」
通信の向こうからの問いかけに、短い沈黙。
「……いや、訂正する」
男は、冷ややかな歪んだ笑みを浮かべた。
「接触対象どころではない。あの少女にとって、世界の何よりも優先される『絶対的な楔』になっている」
その一報が、物語の裏側を、狂気とともに大きく動かし始めることになるとも知らず――。
「……夜乃さん、気をつけて帰ってくださいね」
「…………はい。ゆずさんも……」
夜乃さんは照れくさそうに、けれど本当に嬉しそうに小さく微笑んだ。
「……また、明日……お店に行きます」
そう言って、何度も振り返りながら帰っていく夜乃さんの小さな背中を、僕は手を振って見送った。
明日も来てくれるらしい。
うん、お客様が常連になってくれるのは、店主として非常にありがたいことだ。
ただし。
できれば次回からは、世界の命運を賭けたバトルなしで純粋にお茶を楽しんでほしい。
切実に。
僕は夕空を見上げながら、心の底から祈るのだった。




