第十四話
その夜。僕はいつもより少しだけ遅く、店の鍵を閉めた。
カウンターの奥には、夜乃さんが置き忘れていったハンカチが、丁寧に畳んで保管してある。次に来たときに渡そう――そう思いながら、僕はゴミ袋を抱えて裏口から静寂の漂う路地へと出た。
そのときだった。
「……ん?」
路地の奥から、湿った空気を切り裂くような音が聞こえた。
金属が擦れ合う鋭い擦過音。乱れた複数の足音。そして、荒く途切れがちな息遣い。
僕は足を止めた。
……いや、待て。こういうときは絶対に関わらないほうがいい。
夜の帳が下りたこの街で、暗闇の路地裏から物音が聞こえる意味を、僕は嫌というほど知っている。普通ならすぐに店へ戻り、鍵をかけて治安維持部隊に通報するのが正解だ。
そう、普通なら。
「……誰か、いるのか?」
低く切迫した声が響く。誰かが追い詰められているのは明らかだった。
僕はぎゅっと唇を噛み締めた。
ああ、もう。どうして僕は、こういう土壇場に限って足が動いてしまうのだろう。
「……すみません! 大丈夫ですか!?」
叫びながら路地の角を曲がった僕の視界に飛び込んできたのは、三人の男たちと、一人の少女の姿だった。
少女は見覚えのある、大きめの黒い上着を羽織っていた。
夜の闇に溶け込むような長い黒髪。街灯の光を弾く透き通るような白い肌。そして、突然現れた僕を見て凍りついている可憐な顔。
「……よ、夜乃さん!?」
「…………っ!?」
僕と目が合った瞬間、夜乃さんの顔が耳の先端まで一気に真っ赤に染まった。
けれど、今は照れている場合ではなかった。
彼女を取り囲む三人の男たちは、明らかに異様な気配を纏っていた。
腕には異能を強制増幅させる禍々しい装具。手には禍々しい光沢を放つ特殊な刃物。
そのうちの一人が、夜乃さんを指差して苛烈に叫んだ。
「いたぞ! 標的だ!」
「逃がすな! あの能力さえ手に入れれば、俺たちの勝ちだ!」
能力? 標的?
僕が困惑して夜乃さんを見ると、彼女は怯えたように震えながら、必死に首を横に振った。
「……ち、違う……私は……」
「黙れ!」
男の一人が踏み込んだ。刃先が容赦なく夜乃さんの胸元へと迫る。
「危ない!」
僕が叫ぶよりも早く、夜乃さんが顔を上げた。
「……来ないで」
それは、あまりにも小さく切ない声だった。
しかし次の瞬間、周囲の空気が一変した。
男の握っていた刃物が、鈍い落雷のような音を立てる。
鏡面のように研ぎ澄まされていた刃先が一瞬で黒くくすみ、蜘蛛の巣状の亀裂が走ったかと思うと、一瞬で乾燥した砂のように崩れ落ちた。
「なっ……!?」
「武器が……砕けただと!?」
男たちが絶句する。夜乃さんは震える自身の両手を強く握りしめた。
「……やめて。お願いだから……」
だが、男たちは引き下がらない。
「構うな! 能力を完全に発動させる前に押さえ込め!」
もう一人の男が腕の装具を起動した。
青白い術式が走り、威力を極限まで強化された拳が夜乃さんへと肉薄する。
夜乃さんは絶望したように目を閉じた。
「……もう、いや……!」
彼女の悲鳴に応じるように、足元から黒い靄のような波動が拡散した。
靄が掠めた地面のコンクリートに亀裂が走り、壁の塗装がボロボロと剥れ落ちていく。
男の腕の装具が甲高い異常音を立てた。青白い光が瞬く間に腐食し、強化機構が不協和音を奏でて沈黙する。
「何だこれは!?」
「装具が動かない……術式が枯れていく!?」
夜乃さんは震えながらゆっくりと顔を上げた。その瞳には、深い悲しみと自己嫌悪の色が浮かんでいる。
「……私に、近づかないで……!」
男たちが恐怖に顔を歪め、後ずさる。
しかし、リーダー格の男だけは執念深く懐から小型の銃を取り出した。
まずい。あの距離で撃たれたら、いくら彼女の能力でも防ぎきれないかもしれない。
「夜乃さん!」
僕が叫んだ瞬間、男が引き金を引いた。
だが、銃声は鳴らなかった。
銃身がまるで何百年も風雨に晒された古い鉄くずのように一瞬で錆びつき、内部の金属パーツが音を立てて分解し、ボロボロと地面に転がった。
「なっ……!?」
男が呆然と手元を見つめる。
夜乃さんは、ただ己の手を見つめて佇んでいた。
彼女の能力は、単なる物理破壊ではない。異能や術式を支える法則そのものを急速に劣化させ、崩壊させる。
装具も、術式も、兵器も。
彼女の領域においては、あらゆる「機能」が維持できなくなる。
――【亡びの権能】。
全てを等しく風化させる、あまりにも強大で孤独な力。
「……やだ……」
夜乃さんが、消え入りそうな声で呟く。
「……また、壊しちゃった……」
男たちは完全に戦意を喪失していた。だが、最後の一人が狂乱気味に懐から小さな球体を取り出した。表面には禍々しい赤色の圧縮術式が刻まれている。
「くそっ! だったら、こいつで道連れだ!」
球体が禍々しく赤く輝き、不穏なエネルギーを膨らませる。
「夜乃さん、伏せて!」
僕は頭で考えるより先に、体が勝手に動いていた。彼女の前へ飛び出し、背中に庇い立てする。
……いや、今冷静に考えれば、恐ろしいほど無謀だった。
僕には戦闘能力なんてない。異能もなければ、身を守る道具すらない。
そんな一般人の僕が、裏ボス級の力を持つ少女と、武装した犯罪者の修羅場に割り込むなんて狂気の沙汰だ。
けれど。
彼女が、あんなにも哀しそうに怯えていたから。
理由は、ただそれだけだった。
光が弾ける。
しかし、爆風が僕たちを襲うことはなかった。
夜乃さんが僕の背後から両手を広げたのだ。
「……私のに、触らないで……!」
黒い靄が一気に奔流となって広がる。
球体に刻まれていた赤い術式は、まるで陽光に晒された古い紙のように色褪せ、光を失った球体はただの石ころのように虚しく地面を転がった。
「撤退だ! 撤退しろぉ!」
男たちは悲鳴を上げながら、脱兎のごとく闇の奥へ逃げ去っていった。
静寂が戻った路地で、夜乃さんは追おうともせず、その場に立ち尽くして体を細く震わせていた。
「……私……また……」
僕はゆっくりと振り返り、視線を低くして彼女と目を合わせた。
「夜乃さん」
「…………っ」
「怪我はありませんか?」
彼女は濡れた瞳で僕を見つめ、それから自分自身の恐ろしい手を見つめた。
「……どうして……?」
「え?」
「……どうして、逃げないの……? 私、怖いでしょう……? 全部、壊してしまうのに……」
絞り出すようなその問いに、僕は少しだけ考えた。
正直に言えば、生きた心地がしなかった。彼女の力は人知を超えているし、さっき何が起きていたのかも完全には理解できていない。
でも。
「……確かに、すごくびっくりしました」
僕はまっすぐに答えた。
「でも、夜乃さんは僕を護ってくれましたよね。それに……あなたは、ずっと怯えていました。あの人たちに傷つけられそうになって、怖かったんですよね?」
夜乃さんは言葉を失い、ただ目を見開いていた。
「僕は、あなたの力や背負っているものの全てを理解できているわけじゃありません。だからこそ……どうすればいいか、これから一緒に考えたいんです」
僕は緊張を解くように、そっと微笑みかけた。
「とりあえず、ここは冷えますし危ないですから、お店に戻りましょう。温かい飲み物を淹れますよ」
夜乃さんは、溢れそうになる涙を必死に堪えながら、小さく頷いた。
そして、俯きながら消え入るような声で呟いた。
「……好き……」
「え?」
「……やっぱり、大好き……」
……。
…………。
この緊迫した状況の直後に、それを言う!?
僕は一瞬で全身が固まった。
けれど夜乃さんは、今度は逃げ出さなかった。真っ赤になった顔を背けながらも、僕の服の袖を、まるで幼子が縋るようにキュッと指先でつまんでいた。
その小さな温もりに応えるように、僕は彼女の歩みに合わせてゆっくりと店へ向かって歩き出した。
そのときだった。
路地の出口、街頭の淡い光が差す場所に、一人の人物が佇んでいた。
流れるような銀髪。隙のない優雅な立ち姿。
そして、いつものように穏やかでありながら、どこか底知れない微笑み。
「……マスター?」
セインさんだった。
彼の静かな視線が、僕と、僕の袖をつかむ夜乃さんの手元との間で止まる。
夜乃さんの体が、ぴたりと緊張で強張った。
セインさんは僕の顔を見つめ、それから夜乃さんへ視線を移すと、その完璧な微笑みをほんの少しだけ深めた。
「……ゆず。その子から、少し離れてくれるかな?」
その声には、一切の冗談を許さない冷ややかな圧力が籠もっていた。
え……?
何で?
困惑する僕の隣で、夜乃さんもまた警戒するようにセインさんを見つめ返している。
一つだけ確実なのは、セインさんが夜乃さんを深く警戒しているということ。それも、いつになく決定的な敵意をもって。
セインさんがこういう雰囲気を纏うときは――大抵、最悪レベルの厄介事が始まるのだ。
……ああ。
頼むから。
今日くらいは、静かで平和な夜として終わってくれ。
僕の切実な祈りは、夜の風に溶け、虚しく消えていった。




