第十三話
少女が僕の店に通うようになって、ちょうど一週間が経った。
彼女は毎日、開店から少し時間が過ぎた頃にやってくる。
決まってカウンターの端の席にちょこんと腰掛け、注文するのはいつも同じだ。
冷たい水。
そして、ごくたまに温かい紅茶。
それだけ。
僕が声をかけるたびに、彼女はカッと顔を真っ赤にしてうつむいてしまう。名前を聞いても小さく身を縮めるばかりで、まともな返事は返ってこない。
けれど、亀の歩みではあっても、会話は確実に増えていた。
「今日は風が冷たいですね」
「……は、はい」
「温かい紅茶にしましょうか?」
「……おねがい、します」
「ミルクもお付けしますね。……砂糖はどうしますか?」
「……ゆずさんが、入れてくれるなら……」
「えっ?」
「…………っ! い、今の、忘れてください……っ!」
耳まで真っ赤にして両手で顔を覆う彼女を見て、僕は内心で息を吐く。
相変わらず会話の難易度が高い。
それでも、少しずつ僕という存在に慣れてきてくれたのか、ふとした瞬間に視線が合って話せる時間は増えていた。そのたびに彼女の顔がリンゴのように熟していくのは、まあ、そういう年頃なのだろう。
僕自身は、ごく普通の成人男性だと思っている。
ただ――少々、見た目が幼い。いや、かなり幼い。
そしてなぜか、初対面の人からは大概「可愛い」などと言われてしまう。正直、男としてのプライド的には複雑極まりないのだが、目の前の少女はどうやら、そんな僕の見た目も含めて気に入ってくれているようだった。
僕としては、彼女がこの店で少しでも安心して過ごせるなら、それで十分だ。
――そう、思っていたのだが。
問題は、彼女が店に来るたび、周囲の備品が少しずつ劣化していくことだった。
「……あれ? このスプーン、こんなにくすんでたっけ?」
ある日、カウンターの引き出しを開けた僕は首を傾げた。
毎朝磨いているはずの銀色のスプーンの表面が、まるで年月が飛び縮みしたかのように鈍く変色している。別のグラスも縁に目に見えないほどの細かなヒビが増え、木製の椅子には昨日までなかった薄い亀裂が走っていた。
店も古くなってきたし、そろそろ本格的な修繕が必要なのだろうか。
僕が頭を悩ませていると――カウンターの端で、少女がびくっと大きな肩を震わせた。
横目で見ると、彼女は今にも泣き出しそうな顔で唇を噛みしめている。
「……ええと、どうしました?」
「……な、なんでも、ないです……っ」
「本当ですか? どこか具合でも――」
「…………ごめんなさいっ!」
少女は突然弾かれたように立ち上がると、勢いよく頭を下げた。
「えっ? ちょ、ちょっと待ってください! 何に対する謝罪ですか!?」
「……私がい、いるから……っ」
彼女の声が、震えて途切れる。
「……私が、ここに来るから……全部、壊れちゃうんです……!」
少女の悲痛な視線は、僕の手元にあるくすんだスプーンに注がれていた。
まるで、自分が犯した罪の証拠を見つめるかのように。
「……もしかして、お店の道具が傷んでいるのを、自分のせいだと思っているんですか?」
少女は、ポロポロと涙をこぼしそうになりながら、小さくこくりと頷いた。
「……私の力は、触れたものを……駄目にするんです」
絞り出すような、掠れた声だった。
「……近くにあるものも、どんどん弱くなって……壊れやすくなる。だから……私、こんなあたたかい場所に来ちゃ、いけなかったのに……」
両手をギュッと握りしめ、自分を責める彼女を見て、僕はしばし黙り込んだ。
ずっと、一人でこれを気に病んでいたのだろう。
僕の店を傷めてしまうこと。
僕に迷惑をかけてしまうこと。
そして――僕に嫌われてしまうこと。
だから毎日、あんなに全身を強張らせて緊張していたのだ。
僕はゆっくりと深呼吸をし、手にしていた拭き布を丁寧に畳んだ。
「……そうだったんですね」
「…………」
「教えてくれて、ありがとうございます」
少女が弾かれたように顔を上げた。
「嫌悪」や「拒絶」を覚悟していたようなその瞳が、驚きで丸く見開かれる。
「……怒ら、ないの……? 気持ち悪いとか、出ていけとか……言わないの……?」
「確かに、お店の物が傷むのは困りますけどね」
嘘をついても仕方がないので、僕は正直に言った。
「でも、わざと壊そうとしてやったわけじゃないんでしょう?」
「……はい。全然、そんなの……っ」
「なら、どうすれば被害を減らせるか、一緒に考えましょう」
「……え?」
「僕もあなたの力については詳しくありません。だから『ここには触らないでほしい』とか『この近くには寄らないでほしい』という場所があれば教えてください。置く場所や素材を工夫すれば、影響を減らせるかもしれませんから」
「……でも、私……」
「それに、物は直せばいいんです。買い替えたっていい」
僕は柔らかく微笑んだ。
「お店の道具は大切です。でもね、それ以上に大切なのは――ここを気に入って来てくれるお客様ですよ。もちろん、これ以上壊れないように気をつけてもらう必要はありますけどね」
少女は呆然とした様子で僕を見つめていた。
大きな瞳から溢れかけた涙が、そのまま頬をつたい、ぽろりと落ちる。
やがて彼女は、真っ赤になった顔を深々と伏せた。
「…………ずるい」
「えっ?」
「……そんなこと、言われたら……っ」
耳の先どころか、うなじまで朱に染まっている。
「……もっと、好きになっちゃうじゃないですか……っ!」
……。
…………。
僕は、かける言葉を見失って固まった。
この子が僕に懐いてくれているのは分かっていた。
分かっていたけれど――うん、その好意のベクトルが、僕の想定の三倍くらい重くて強い気がする。
いや、でも待て。落ち着こう。
人との適切な距離感というものは、焦らずじっくり育んでいくものだ。
僕は店主。彼女はお客様。まずはその関係からだ。
「……あの」
静寂を破り、彼女が蚊の泣くような声で囁いた。
「……私、の……なまえ」
「はい?」
「……夜乃。夜乃、です……」
一週間目にして、ようやく彼女の名前を知ることができた。
「夜乃さん、ですね。すごく響きの綺麗な、素敵な名前です」
「…………っ!?」
次の瞬間、夜乃さんは電気ショックでも受けたかのようにガタタッ!と椅子ごと跳ね上がった。
「……む、無理ですぅぅぅ……っ!」
「あっ、夜乃さん!? お忘れ物――!」
引き止める声も虚しく、彼女は脱兎のごとき勢いで店を飛び出していった。
カランコロン、とドアベルが切なく響き渡る。
カウンターの上には、飲みかけの紅茶と、彼女が握りしめていた小さなハンカチだけが残されていた。
「……大丈夫かな。あんなに興奮して走ったら転ぶぞ……」
心配になった僕は、ハンカチを手に外へ出ようとした。
――その時である。
店の真向かいにある、三階建てのビルの屋上から、大音量の叫び声が降ってきた。
「名前っ! 名前呼んでもらっちゃったあああぁぁぁぁぁっ!!」
……。
…………。
えっ?
屋上?
何で?
いま店を出てから、まだ三秒しか経ってないよね?
どうやって登ったの?
呆然として見上げると、ビルの屋上の端っこで、夜乃さんが両頬を両手で挟みながらジタバタと身をよじって悶絶していた。
そして、さらに信じられない光景が目に入る。
彼女が興奮のあまりギュッと掴んでいる屋上のスチール製安全柵が、まるで乾燥したビスケットか何かのように、音もなくぼろぼろと灰色になって崩れ落ちていくのだ。
……待って。壊れる速度、格段に上がってない!?
感情の昂ぶりに比例して出力が上がるタイプ!?
しかも、足元の柵が崩れたら、彼女そのまま落ち――
「夜乃さん! そこ危ないですよ! 落ちますっ!」
「…………っ!?」
僕の制止の声に気づいた夜乃さんは、鳩が豆鉄砲を食べたような顔で固まった。
そして、自分の失態(と超人的な移動能力)を見られたことに気づいた瞬間――
「……み、見ないでくださいぃぃぃぃっ!!」
断末魔のような悲鳴を遺し、彼女は屋上の影へと超スピードで消えていった。
僕は、夕暮れの路地裏で一人、静かに佇んでいた。
……うん。
聞きたいことが多すぎる。
まず、あの高さまでどうやって一瞬で跳躍したのか。
次に、名前を呼ばれただけでビルを駆け登るほど喜ぶメンタル構造はどうなっているのか。
そして何より――
あの崩れ落ちた金属柵の修理費、一体だれが弁償するんだろう。
僕は大きく、本日何度目になるか分からない溜め息を吐いた。
「……この街、普通の人って本当に一人もいないのかな」
マスターとしての平穏な日常は遠いと悟りつつ、僕は手の中の小さなハンカチを、そっとポケットに収めたのだった。




