第十二話
少女が帰ったあと、僕はモップを手にして店の床を掃除していた。
結局、彼女は差し出した水をコップ一杯飲んだだけで、蚊の泣くような声で「ありがとう……ございます」と言い残して逃げるように帰ってしまった。
名前すら聞けなかったな。
(まあ、無理に問い詰めるのも野暮か)
かなり人見知りの強い子のようだったし、また来てくれたときに少しずつ話せばいい。
「よし、終わり」
そう自分に言い聞かせながら、僕は店の木製扉を閉め、カチリと鍵をかけた。
その直後。
通りの向こう側――レンガ造りの建物の陰から、少女がそっと顔を出していた。
「…………」
彼女の視線の先には、店の鍵をしめ、満足そうに息をつく僕の背中がある。
少女は小さな両手でぎゅっと胸元を押さえた。
「……帰っちゃった」
消えてしまいそうなほど、寂しげな声。
「…………でも、明日も……絶対、来る、よね」
誰に聞かせるでもなく、少女は呟いた。
感情、僕が店を離れて歩き出すと、彼女もまたつかず離れずの距離を保って歩き始めた。
当然、僕はまったく気づいていない。
夕食の材料を買い出ししている間も、夕闇が迫る帰り道を歩いている間も。
少女はずっと、僕の後ろをストーキング……もとい、追跡していた。
もちろん、本人に悪意など微塵もない。
むしろ、彼女の中では命がけと言っていいほど必死だった。
(もう一度、あのお兄さんと話したい)
(できれば、もう一度だけ優しく笑いかけてほしい)
(できることなら……名前を呼んでほしい)
しかし、筋金入りのコミュニケーション障害である彼女にとって、声をかけるという一歩はエベレストを素手で登るほどに高かった。
結果として。
建物の陰からじっと見守る。
電柱の後ろからひょっこり覗き込む。
僕がふと振り返りそうになると、悲鳴を噛み殺して路地裏へダイブする。
……客観的に見れば、完全なる不審者であった。
ただし――その不審者が秘めている力は、世界の均衡すら容易く打ち砕きかねない危険極まりないものだった。
少女の細い指先が、何気なく道端の古い鉄製標識に触れる。
たったそれだけで。
ジジジ……と小さな音を立て、金属の表面が急速にくすみ、赤錆が浮き出て塗装がボロ散っていく。
「あ……っ」
彼女が慌てて手を引っ込めた時にはすでに遅く、強固だったはずの標識の支柱が、乾いた音を立ててボロリと崩れ落ちた。
「…………ご、ごめんなさい……っ」
誰に対する謝罪かも分からないまま、少女は涙目になって首をすくめた。
これこそが、彼女の持つ【亡びの権能】。
触れたもの、あるいは彼女の意識・魔力が及ぶ範囲にあるあらゆる存在を強制的に劣熱・風化させる絶対的な能力。
金属は瞬く間に朽ち果て、頑丈な石造りの壁は砂となり、展開された魔法の術式は霧散し、伝説の武器すら一瞬でただの鉄くずへと変わる。
たとえ万全の構えをとった最高峰の異能者であろうと、彼女の権能の影響下に入れば、その生命力すら削り取られていくのだ。
そのあまりに禍々しい力ゆえに、彼女は『災いの子』として恐れられ、遠ざけられて生きてきた。
誰も近づかない。
誰も触れようとしない。
思い切って話しかけても、相手から返ってくるのは哀絶な悲鳴か、殺気立った警戒の視線だけ。
だからこそ。
昨日、僕が何の疑いも警戒もなく、ただの一人の客として柔らかく笑いかけてくれたことが、彼女には天変地異ほどの衝撃だったのだ。
「……優しかった……」
少女は胸の前で手を握りしめ、ぽつりと呟く。
「……私のこと、気味悪がらなかった。怖がらなかった……」
彼女にとっては、それだけで世界のすべてを捧げるのに十分すぎる理由だった。
少女は、僕に完全に恋をしてしまったのである。
もっとも、そのあまりにピュアで重すぎる恋心が、これからどれほど厄介な騒動を引き起こすかなど、本人すら知る由もなかった。
◇
翌朝。
僕は開店前の店の前で、腕を組んで首を傾げていた。
「……おかしいな。何だろう、これ」
扉の脇に飾ってあるお気に入りの植木鉢。
そこに植えられた観葉植物が、なぜか右半分だけカサカサに干からびて枯れていた。
水やりを怠った覚えはないし、昨日までは青々と元気だったはずだ。
「うーん……珍しい虫でもついたのかな?」
とりあえずハサミを取り出し、枯れてしまった葉を丁寧に摘み取っていく。
その様子を、通りの向こうの電柱の陰から、少女が顔を半分だけ出して血の気の引いた目で見つめていた。
「…………っ!」
彼女は、昨日の夜の出来事を思い出して真っ青になっていた。
昨日、僕が家に帰ったあと。
どうしても僕の気配が残る店の近くにいたくて、うろついている最中に「少しでも近くに感じたい」と、あの植木鉢にそっと手を添えてしまったのだ。
その結果が、あの無残な枯れ様である。
「……ど、どうしよう……」
少女の大きな瞳から、ぽろぽろと涙が溢れ出す。
「……私、また壊しちゃった……あのお兄さんに嫌われちゃう……っ」
今すぐにでも飛び出して「私がやりました、ごめんなさい!」と土下座して謝罪したかった。
しかし、恐怖で足がすくんで動かない。
嫌われるのが怖い。
それ以上に、大好きな僕と面と向かって視線を合わせるだけで、心臓が爆発して頭の中が真っ白になってしまうのだ。
「…………うぅ……っ」
極限の自己嫌悪とパニックに陥った少女は、建物の陰にへたり込み、体育座りで小さくなって頭を抱えてしまった。
精神的に追い詰められた彼女の可哀想すぎる異変に、ようやく気づいた人物がいた。
「……あれ? 君、昨日の……」
裏口のゴミ出しから戻ってきた僕は、路地の隅っこで丸まっている不自然な小さな影を見つけた。
声をかけられた少女は、まるで雷に打たれたように肩をびくっと跳ね上がらせた。
「おはよう。今日も来てくれたんだね」
「…………っ!?」
あまりの驚きと緊張で、少女は勢いよく立ち上がろうとした――が、もつれた自分の足に引っかかり、派手に前へ倒れ込んだ。
「あっ、危ない!」
僕は反射的に手を伸ばし、倒れそうになった彼女の華奢な両腕をしっかりと受け止めた。
その瞬間。
少女の表情が凍りつき、一瞬で顔から血の気が引いた。
「……あ」
「ふぅ、間一髪……大丈夫? 怪我はないかい?」
「…………あ、あ、あ、あ……」
「えっ、どうしたの? どこか痛む?」
抱き起こした少女の手が、小刻みにガタガタと震えている。
僕の手から直接伝わってくる、ぬくもり。
気味悪がられなかった。
能力を恐れて避けられもしなかった。
それどころか、転びそうになった自分を、こんなにも優しく抱きとめてくれた。
少女の処理能力は、完全に限界を超えて崩壊した。
「………………好き」
「え?」
「…………っ、だ、だめ……キャパオーバー……むり……」
オーバーヒートを起こした少女は、顔を真っ赤に染め上げたまま、ふにゃふにゃと膝から崩れ落ちてしまった。
僕は大いに困惑しながらも、彼女の視線に合わせて地面に膝をついた。
「本当に大丈夫? 熱でもあるのかな、顔がすごく赤いよ」
「…………ちが、う……っ」
「違うの?」
「……お兄さんが……優しすぎるのが、わるい……」
今にも消えてしまいそうな、消え入るような蚊の泣く声。
僕は少しだけ目を丸くした。
そして、警戒を解かせるように柔らかく微笑んだ。
「困っている女の子を助けるのは、店主として当然のことだよ」
「…………〜〜〜〜っ!?」
少女はとうとう言葉を失い、両手で真っ赤になった顔を完全に覆い隠してしまった。
「……もう……無理……好き……っ」
……。
…………。
目の前で頭から湯気を立てている少女を前に、僕はなんて言葉をかければいいのか分からなかった。
ただ、一つだけ確信したことがある。
この子は、信じられないくらい極度の人見知りで。
そしてどうやら、僕に対して相当な好意を寄せてくれているらしい、ということだ。
(うん、まあ……看板を見て入ってくれたお客様に好かれるのは、店主冥利に尽きるよね)
うん、そういうことにしておこう。
ただし。
この時の僕は、まだ何も知らなかった。
この愛くるしい少女が、昨日の夕方からずっと僕の後をストーキングしていたことも。
店の周囲の陰から、僕の生活リズムをじっと観察していたことも。
精神的に極限状態へ達した彼女の【亡びの権能】の余波によって、店の金属製看板のネジが錆び落ちて傾き始め、植木鉢や道端の標識が人知れず風化して崩壊し始めていることも。
……僕は本当に、何一つとして知らなかったのである。




