第十一話
僕には最近、どうしても拭えない疑問がある。
――どうしてこの街の規格外たちは、揃いも揃って僕の店に集まってくるのだろう?
いや、小さなバーを営んでいる身として、お客様のご来店は大変ありがたい。ありがたいことではあるのだが……限度というものがあると思うのだ。
なにせ、常連客の顔ぶれが酷い。
第一部のラスボス。第二部の裏ボス。第一部の裏ボス夫婦と、その双子の子供たち。
どう考えても、街外れの静かなバーに集まっていい面々ではない。
おまけに最近は、物語の主人公である天城カナタまで足繁く通い始めている始末だ。
宿敵同士がカウンターの端と端で静かに視線を交わしている光景は、もはや酒場のそれではない。世界の命運を左右する極秘会談の現場である。
僕はそんな胃の痛くなるような事実を一旦頭から追い出し、カウンターの上を丹念に布巾で拭いた。
「……よし。今日も平和だ」
開店前の店内には、穏やかな時間が流れている。
高窓から差し込む斜陽が、磨き上げられたグラスを琥珀色に染めていた。綺麗に並べられた酒瓶も、いつも通り整然と輝いている。
完璧だ。こういう穏やかな日常こそが、僕の求めるすべてなのだ。
ずっとこんな日が続けばいいのに――そう心から願った、次の瞬間のことだった。
ゾクッ。
突然、背筋を氷の針でなぞられたような、尋常ではない寒気が走った。
「……?」
誰かにどこかで見られているような、気味の悪い気配。
念のため店の外へ出て確認してみたが、夕暮れの通りには人影ひとつない。風がカサリと落ち葉を揺らしているだけだ。
……気のせいだろうか。最近、常連さんたちの放つ圧倒的な存在感に晒されすぎて、僕の警戒心が過剰になっているのかもしれない。
僕は気を取り直すと、表のドアに「OPEN」の札をかけた。
その時だ。
――カラン、コロン。
ドアの上部に吊るされた小さな真鍮のベルが、可憐な音を立てて鳴った。
「い、いらっしゃいませ……」
反射的に営業用の笑みを浮かべながら顔を上げる。
そこに立っていたのは、一人の少女だった。
夜の闇をそのまま切り取ったかのような、艶やかな長い黒髪。
透き通るほど白い肌。華奢な身体には少し不釣り合いな、大きめの黒い上着を羽織っている。
年齢は十代半ばといったところだろうか。息を呑むほど整った顔立ちをした美少女だった。
ただし、その表情はあまりにも硬い。
硬いというか……全身をガチガチに強張らせて、極限の緊張状態にあるように見えた。
少女はドアの前で立ち尽くしたまま、紫水晶のような瞳で僕をじっと見つめている。
「……あの?」
「…………」
「お客様……?」
「…………っ!」
僕が声をかけると、少女の肩が跳ねた。
……えっ。僕、何かまずいことしただろうか。
もしかして、顔に何か付いているのだろうか。慌てて頬を触ってみるが、何も触れない。
「ええと……どうぞ、お好きな席へ。お一人様ですか?」
「…………は、はい」
消え入りそうな声だった。
少女はおそるおそる店内へ足を踏み入れると、怯えた小動物のような足取りでカウンターの端の席に腰掛けた。
それから、再び僕を見た。
じっと。穴が開くほど、真っ直ぐに。
……何だろう。初対面のお客様に、ここまで食い入るように凝視された経験は僕にはない。
「あの、ご注文はお決まりですか? お飲み物のメニューはこちらになりますが……」
「…………あ、あの」
「はい?」
「……あなた、は」
「僕ですか?」
「…………きれい」
「……はい?」
聞き間違いだろうか。
問い返した瞬間、少女の顔が信じられないスピードで熟したトマトのように真っ赤になった。椅子から転げ落ちんばかりの勢いで身を乗り出す。
「ち、違っ……! い、今のは、その……! 言葉が、出ちゃって……っ!」
「ええと……?」
「…………ご、ごめんなさい……っ!」
少女は勢いよく頭を下げた。カウンターに額をぶつけそうな勢いである。
そして、そのまま耳まで真っ赤にしたまま沈黙してしまった。
……ふむ。
なるほど、理解できた。これはかなりの人見知りさんだ。
僕も元々人付き合いが得意な方ではないので、彼女の気持ちは痛いほど分かる。初対面の人、それも急に話しかけられたりすると、パニックになって思ってもみない言葉が出てしまうことがあるのだ。
僕は刺激しないよう、できる限り柔らかく温かい笑みを向けた。
「大丈夫ですよ。無理に話さなくても、ゆっくりで構いませんからね」
「…………っ」
少女の動きが、ぴたりと止まった。
ゆっくりと顔を上げたかと思うと、今度は両手で顔を覆ってしまった。指の隙間から見える瞳が、うるうると潤んでいる。
「…………む、無理……」
「えっ?」
「…………好き……」
「…………はい?」
今度こそ、僕は完全に固まった。
好き?
何がだろう。お酒? お店の雰囲気?
それとも、先ほど焼いたばかりの自家製スコーンの甘い香りが漂っているのだろうか。
僕が頭の中で必死に「彼女の『好き』の対象」を推測していると、少女は消えそうなほど震える声で絞り出した。
「……み、水を……お水、ください……」
「お水ですね。かしこまりました!」
僕は胸を撫で下ろし、グラスに氷を入れて冷たいお水を注いだ。
少女はそのグラスを両手で包み込むようにして受け取ると、一口大切そうに含んだ。それから、チラリと上目遣いで僕を見る。
視線がぶつかる。
少女は「ひうっ」と小さな悲鳴を上げて、再び顔を真っ赤にした。
……重症だ。
僕は少女のただならぬ様子を観察しながら、そっと思考を巡らせた。
この子、もしかして何か厄介な事情に巻き込まれて逃げてきたのではないだろうか。こんなに怯えて、身を寄せ合うようにして座っているのだ。
もし誰かに追われていたり、行く当てがなくて困っているのだとしたら、できる範囲で手を差し伸べてあげたい。それくらいは、店主としての優しさであり、務めだと思う。
僕はカウンター越しに、優しく声をかけた。
「もし何かお困りのことがあれば、遠慮なく言ってくださいね。力になれるかもしれませんから」
「…………」
少女は喉を鳴らし、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、先ほどまでの怯えとは違う、どこか真剣で切実な光が宿っていた。
「……ずっと」
「はい?」
「……ずっと、ここにいても……いいですか」
その声は儚く小さかったけれど、決して気まぐれや冗談には聞こえなかった。
僕は少しだけ考えてから、柔らかく目を細めた。
「もちろんです。お店が開いている間なら、好きなだけゆっくりしていってください」
「…………っ!」
少女の瞳が、パッと花が開くように輝いた。
彼女は嬉しさを噛み締めるようにグラスをぎゅっと握りしめ、胸の内で小さく呟いた。
「……やっと、見つけた」
「え? 何か言いましたか?」
「…………なんでも、ないです」
そう言って、彼女はどこか愛おしそうに店内を見渡した。
――この時の僕は、まだ何も知らなかったのだ。
この一見可憐な少女こそが、これから始まる物語の第三部【七の刃で天を断つ・終焉篇】における最大の絶望。
世界のあらゆる概念を腐敗・劣化させ、立ち振る舞うだけで一つの文明を易々と崩壊させかねない圧倒的な絶対悪。
【亡びの現人神】と呼ばれる存在だったということを。
そして彼女が、この日を境に「ゆずの店が世界の何よりも居心地が良い」と確信し、毎日のように店の周囲をウロウロと徘徊する重度の常連と化すことを。
本当に、知る由もなかったのだ――。




