第十六話
人生というものは、どうしてこうも理不尽なのだろう。
僕は最近になって、ようやく夜乃さんとの付き合い方を掴み始めていた。
彼女は極度の人見知りで、僕と目が合うだけで顔を真っ赤にしてしまう。まだ会話もぎこちないけれど、少しずつ自分のことを話してくれるようになったのだ。
それに、セインさんの助言も効いているらしい。彼女は【亡びの権能】を制御する練習を始めたそうだ。
この調子なら、いずれは店の備品を劣化させずに紅茶を楽しんでもらえるかもしれない。
素晴らしい。平和への着実な第一歩である。
龍帝と精霊王の双子――リュウガとセイラも相変わらず店にやって来るし、雷夢さんはいつも通りカウンターで酒を傾け、セインさんは相変わらず僕をからかってくる。
主人公のカナタ君たちも、時折顔を出してくれるようになった。
……うん。
少しずつ、愛おしい日常が戻ってきた気がする。
僕は、本気でそう思っていたのだ。
少なくとも、その日の昼下がりまでは。
◇
「ゆずお兄さん! 今日はこれ!」
「おや、リュウガ君。今度は何を持ってきてくれたんですか?」
「おかあさまが作ってくれたお菓子!」
店のカウンターに置かれたのは、小さな可愛らしい籠だった。
中を覗くと、色とりどりの焼き菓子が綺麗に並んでいる。
「まあ、ありがとうございます。あとで美味しくいただきますね」
「うん! ぼく、セイラと一緒に手伝ったんだよ!」
「……私も、少しだけ……」
隣でセイラが、恥ずかしそうに頬を染めて俯いた。
その背後では、精霊王が優雅に微笑んでいる。
「いつも子どもたちがお世話になっていますから。ささやかですが、そのお礼です」
「いえいえ、こちらこそ。二人とも、いつも楽しそうにしてくれて嬉しいですよ」
僕が笑顔で籠を受け取ると、リュウガはぱっと顔を輝かせた。
「ねえねえ、ゆずお兄さん! 今度、ぼくたちのおうちにも来てよ!」
「えっ?」
「……私も、来てほしいな……」
セイラまで、控えめに僕の服の袖を引いてくる。
いやいやいや。
龍帝と精霊王のお宅にお邪魔する?
それはお宅訪問というより、世界の頂点に立つ権力者層への表敬訪問ではないだろうか。
僕のような一般人が、お茶菓子を持って気軽に行っていい場所ではない。
「ええと……機会があれば、ぜひ」
「ほんと!? 約束だよ!」
「は、はい……」
しまった。子ども相手に曖昧な返事をしたせいで、すっかり約束として成立してしまった。
しかし、期待に満ちたキラキラした笑顔を向けられると、どうしても強く突っぱねることができない。
……まあ、いつか。
いつか考えよう。
そんなやり取りをしているうちに、扉のベルがやさしく鳴った。
「こんにちは、ゆずさん」
「あっ、夜乃さん。いらっしゃいませ」
「…………っ」
夜乃さんは、僕と目が合った瞬間に湯気が立ちそうなほど真っ赤になった。
うん、いつも通りの光景だ。
彼女はそっとカウンターの端に座ると、僕が出したグラスを両手で包み込んだ。
最近では、こうして器を握っても備品がボロボロと劣化することが減っている。彼女のたゆまぬ努力の成果だろう。
「今日はどうされました?」
「……あ、あの」
「はい?」
「……昨日、教えてもらった本……読みました」
「本当ですか? どうでした?」
「…………すごく、おもしろかったです」
「それはよかった」
僕が微笑みかけると、夜乃さんはますます顔を伏せた。
「…………ゆずさんが、薦めてくれたから……」
小さな呟きが聞こえなかったふりをするのも、最近身につけた僕の処世術である。
そんな、穏やかでいつもと変わらない昼下がり。
店の外の路上には、一台の黒いミニバンが静かに停車していた。
車内には、黒いタクティカル装備に身を包んだ男女数名。
その腕には、異能犯罪を裏から請け負う非合法組織――【灰冠】の紋章が刻まれていた。
「標的を確認。白葉ゆず、間違いありません」
「周囲の戦力は?」
「龍帝および精霊王は離脱。右京雷夢も不在です。……ただし、店内に『亡びの現人神』を確認」
「……厄介だな」
指揮官の男が苦々しく眉をひそめた。
「だが、標的を確保する好機は今しかない。あの男は、超常の化け物たちの動向を左右する核心人物だ。奴を手元に置けば、連中の動きを完全に牽制できる」
「しかし……情報通り、ただの無能力者に見えますが」
「だからこそ危険なのだ。あれほどの特級危険人物たちを従えながら、無能力者のふりをして中心に座している。偶然で片づけるには異常すぎる」
指揮官は通信端末に鋭い視線を落とした。
「作戦を開始する。標的は生体回収。現人神がいる以上、正面突破は愚策だ。催涙煙幕で視界と意識を奪い、短時間で連れ去る。連中が異常に気づいて戻ってくる前に終わらせろ」
静かにスライドドアが開く。
そして数分後――僕のささやかな平穏は、呆気なく打ち砕かれることになった。
◇
「……ゆずさん?」
異変に真っ先に気づいたのは、夜乃さんだった。
僕が奥の厨房で追加の飲み物を準備していた時、店の入口付近でカチャリと金属が転がる不穏な音が響いた。
「えっ?」
直後、扉のベルがけたたましく鳴り響く。
カランカランカランッ!
驚いて顔を上げた瞬間、店内へ一気に真っ白な煙が流れ込んできた。
「うわっ、なに!? げほっ!」
瞬く間に視界が白く塗り潰される。
激しく咳き込みながらカウンターにしがみついた、その時だった。
「対象を確保! 急げ!」
「おい、押さえるぞ!」
怒号とともに、複数の足音が煙を割って踏み込んできた。
頭が理解を拒絶する。
――襲撃だ。
いや、なんで!?
僕、ただの一般人のカフェバー店主なんだけど!?
「ゆずさん……!」
煙の向こうから夜乃さんの切迫した叫びが聞こえた。
直後、メリメリと金属が腐食し、打ち砕かれる凄絶な破壊音が響く。
「なっ……装甲が化石化してい――!?」
「くそっ、亡びの権能か!?」
夜乃さんが力を使ったのだ。
だが、襲撃者たちは最初から彼女の存在を計算に入れていた。
「標的だけを担ぎ出せ! 現人神とまともにやり合うな!」
がっしりと強い力で腕を掴まれた。
「えっ、ちょっと……!?」
「暴れるな!」
強引に引きずられ、反対側の腕も別の男に固められる。
「離してください! あなたたち、一体何のつもりですか!?」
「静かにしろ!」
抵抗しようとした瞬間、背中に冷たく硬い感触――銃口らしきものが突きつけられた。
「暴れるな。店を粉々に吹き飛ばされたくはなかろう?」
「……っ!」
その一言に、僕は全身の力を抜かざるを得なかった。
煙が薄れた一瞬の隙間から、夜乃さんの姿が見えた。
彼女の顔は血の気が引き、蒼白に染まっている。
「……ゆず、さん……っ!」
「夜乃さん、来ちゃダメです!」
僕は思わず声を張り上げた。
彼女の【亡びの権能】は絶対的だ。だが、この狭く煙の充満した店内で暴走させれば、僕もろとも店全体が崩壊する。何より、彼女自身が傷つくかもしれない。
「僕は大丈夫ですから! 夜乃さんは逃げて――」
「……嫌……っ!」
夜乃さんの声が、激しく震えた。
「……嫌です……っ!」
彼女の足元から、禍々しい黒い靄が一気に膨れ上がった。
床材が軋みを上げて風化し、男たちが構えていた武器の金属パーツがボロボロと砂のように崩れ落ちていく。
「ちっ、能力の出力を上げやがった! 無効化拘束具を使え!」
男の一人が特殊な耐衝撃ケースを叩き開け、漆黒の金属環を取り出した。
それを見た夜乃さんが、息を呑む。
「……それ、は……」
「亡びの権能を一時的に拡散・相殺するアンチ能力装備だ! 貴様の力も、これなら即座には抜けない!」
男たちは僕を盾のように抱え込み、後退しながら入口へ向かっていく。
僕は必死に足を突っ張らせた。
「ちょっと待ってください! 僕、本当にただの一般人ですよ!? 人違いですって!」
「口を閉じろ!」
「いや、閉じられるわけないでしょう!?」
その時、夜乃さんが弾かれたように走り出した。
「……返して……っ!」
黒い靄が爆発的に広がり、空間そのものを侵食していく。
だが、男は僕の首元に手を回し、酷情に言い放った。
「動くな! これ以上近づけば、この男の首を折るぞ!」
「……っ!?」
夜乃さんの足が、ぴたりと止まった。
差し伸ばされた手が、空中で激しく震えている。
その瞳には大粒の涙が浮かび、絶望に歪んでいた。
「……ゆず、さん……」
「夜乃さん……」
僕には、何の力もない。
武器も、異能も、この凄惨な状況を打開する知恵すら持ち合わせていない。
本当に、ただの情けない人間だ。
だけど――だからこそ、彼女にそんな顔をさせたまま去るわけにはいかなかった。
「……大丈夫です。すぐに誤解を解いて、戻ってきますから」
僕は無理やりに口角を上げ、いつもの店主としての笑顔を作ってみせた。
夜乃さんの瞳が、見開かれる。
そのまま、僕は強引に店の外へと引きずり出された。
待機していた黒い車のドアが開かれ、荒々しく車内に押し込まれる。
扉が閉まる間際――泣き叫ぶような彼女の声が、街に響き渡った。
「――ゆずさんっ────!!」
バタン、と重いドアの閉まる音が響き、車は猛スピードで発進した。
車窓の外で、慣れ親しんだ僕の店が、あっという間に小さくなって消えていく。
……。
…………。
………………。
はあ。
また、このパターンか。
座席に押さえつけられたまま、僕は車内の天井を仰ぎ見た。
人生で二度目の拉致事件。
前回は子供たちを庇って巻き込まれた形だったが、今回は完全に僕個人がターゲットだ。
どうしてこうなった。
僕はただ、静かに美味しいお酒と紅茶を提供するバーを営みたいだけなのに。
なぜ僕のささやかな平穏は、こうも理不尽に踏みにじられるのか。
……誰か。
誰でもいいから、早く助けてください。切実に。
僕は心の中で、深々と神に祈りを捧げた。
――そして、この時の僕はまだ知る由もなかった。
『マスターが拐われた』という報せが、この世界の均衡を崩しかねない恐ろしい超常者たちの耳に届いた時、どれほど地獄のような大災害が引き起こされることになるのかを。




