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研究室を出て、そのまま廊下を歩く。
しばらくして、自分の手に焼き菓子の包みが残っていることに気づいた。こちらは返し忘れてしまった。
包みを見つめていると、また胸が苦しくなった。自分のために買ってきてくれた。その気持ちは嬉しい。だからこそ、辛かった。
エリーゼは包みを胸元に抱え、そのまま自室へ向かった。
その夜は、どうしても食欲が湧かなかった。
夕食の時間になり、いつものようにグレンヴィルが迎えに来たが、エリーゼは扉を少し開けただけで、自分は食べないと伝えた。
「スノウをお願いします。この子はお腹が空いているはずですから……」
それだけ告げると、エリーゼはスノウを廊下へ出し、グレンヴィルの顔をまともに見ることもできないまま扉を閉める。
しばらくすると、夕食を終えたグレンヴィルがスノウを連れて戻ってきて、エリーゼの部屋の扉を叩いた。
エリーゼは無言のままスノウだけを部屋へ入れ、すぐに扉を閉めた。
グレンヴィルの顔は、一度も見なかった。ずっと泣いていたせいで、目元はひどく腫れている。こんな顔を見られたくなかった。
何より、今グレンヴィルの顔を見たら、また涙が溢れてしまいそうだった。
『エリーゼ、大丈夫? どうしたの?』
スノウが、心配そうにエリーゼの顔を覗き込む。
「……なんでもありませんわ」
スノウはそれ以上は尋ねず、エリーゼの足元にまるまった。時折、気遣うようにエリーゼを見上げている。
(フランシス殿下で懲りたはずなのに……また男性を好きになってこのざまだわ。わたくしはなんて馬鹿なのかしら……)
翌朝、エリーゼが自室を出ると、廊下でグレンヴィルが待っていた。
「おはよう、エリーゼ」
「……おはようございます、グレンヴィル殿下」
いつもと変わらない笑顔を向けられたけれど、エリーゼの顔は強ばるだけだ。
「朝食に行こう」
「はい」
「じゃあ」
グレンヴィルがいつものように手を差し出した。
エリーゼはその手を見つめる。
何度も繋いだ手。
最初は戸惑った。
けれど、すぐに嬉しくなった。
差し出されると、自分から手を重ねたほどだ。
でも、それももう終わりだ。
「……もう手は繋ぎません」
エリーゼは差し出された手を避け、その横を通り過ぎようとした。
「待って、エリーゼ」
呼び止められ、足を止める。
「どうしたの? 俺、何かした?」
グレンヴィルが心配そうに顔を覗き込んでくる。
その言葉に、胸の奥に溜まっていたものが一瞬だけ込み上げた。
何かした?
婚約者がいる身で、自分にあれほど好意を示しておきながら。
何も知らない自分を喜ばせておきながら。
それを、本当に何とも思っていないのだろうか。
「……ご自分の胸に聞いてみたらいかがです?」
「エリーゼ……」
今度こそ振り返らず、エリーゼは早足で歩いた。食堂へ入るとスノウと自分の食事を無言でトレイにのせ、いつもの席には向かわず離れた席に腰を下ろす。
フィリシアとバートンは不思議そうに首を傾げていたし、スノウは困ったようにエリーゼを見上げながら、足元に座った。
朝食を終えて研究室へ戻ると、エリーゼはいつもの机に座り、これまでの実験記録を整理し始めた。ほどなくしてグレンヴィルもやってくる。そして当然のように椅子を持ち上げ、エリーゼの隣へ運ぼうとした。
「グレンヴィル殿下。そちらの机をお使いください」
グレンヴィルが動きを止めた。
「でも、一緒にやった方が早いよ」
「わたくしの分は一人でできます。それぞれ進めればよろしいでしょう」
「前は一緒にやったよね?」
「今日は一人でやりたい気分なのです。何か問題がありますか?」
「いや……」
グレンヴィルは明らかに納得していない。それでも、エリーゼが視線を手元の記録へ戻すと、しぶしぶ椅子を元の場所へ戻した。グレンヴィルは向かい側に腰掛ける。
それでいい。
以前はずっと、こうして研究していたのだ。
何もおかしくないし、むしろこれが普通なのだ。
そう思うのに、向かい側に座るグレンヴィルとの距離が、ひどく遠く感じられた。
自分から距離をおいたくせに、どこか寂しいと思ってしまう。
(……わたくしは……やはり馬鹿だわ。なぜ嫌いになれないの……)
エリーゼは唇を引き結び、資料へ視線を落とした。
しばらくは、紙をめくる音だけが研究室に響いていた。
術式を学ぶ時間になっても、ギスギスした空気は続いた。
「エリーゼ」
「なんでしょう?」
「そこ、術式が違う」
「あ……」
指摘された箇所を見ると、確かに記述を一つ間違えていた。
「ありがとうございます。直しますわ」
「うん」
それだけ言って、グレンヴィルは黙った。
少し前なら肩越しに術式を覗き込み、髪にキスを落としていたのに、今日は来ない。
エリーゼがずっと拒絶しているからだろう。
望んだ通りになったはずなのに、胸の奥がまた痛んだ。
昼食の時間になった。
「エリーゼ、昼にしよう」
「はい」
二人で研究室を出る。
廊下を並んで歩き始めたところで、グレンヴィルの手がわずかに動いた。
こちらへ伸びかけて――止まる。
エリーゼは気づかないふりをした。
(わたくしは他の女性の婚約者を奪うような人にはなりたくない……)
食堂に着くと、今回はいつもの席に座る。フィリシアとバートンまで避けたいわけではないし、スノウも心細そうにしていたから。
グレンヴィルが椅子を近づけようとしたので、エリーゼは自分の椅子を少しだけ離した。 グレンヴィルの動きが止まる。
「エリーゼ」
「なんでしょう?」
「俺、本当に何かした?」
「朝も申し上げましたわ」
「自分の胸に聞けって?」
「はい」
「聞いてるんだけど、全然わからない」
あまりにも真剣な顔で言われ、エリーゼは思わずグレンヴィルを見た。
エリーゼを見つめる瞳には、一点の曇りもない。
本当にわかっていないらしい。
悲しいやら腹立たしいやらで、エリーゼはつい投げやりに言った。
「でしたら、もう少しよくお考えになった方がよろしいのでは?」
「うん……」
グレンヴィルが困り果てた顔になる。
その表情を見ると、胸がちくりと痛んだ。
そんな顔をさせたいわけではない。
けれど、今まで通りに笑いかけることもできなかった。




