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差し出された書類を、エリーゼは受け取った。そこには確かに、グレンヴィルとレティシア、二人の名前が記されていた。さらに婚姻についての文言が続いている。そして末尾には……。
「国王陛下の署名?」
見間違えるはずがない。
国王の署名と、王家の印章が押されていた。
「これでも信じられない?」
レティシアが書類を取り返す。
「国王陛下がお認めになった正式な取り決めよ」
「そんな……」
エリーゼの頭が混乱する。
(グレンヴィル殿下がレティシア様と婚約している? では、これまでの甘い日々はいったいなんだったの?)
繋がれた手。
何度も抱き寄せられたこと。
髪に落とされた口づけ。
側にいたい、触れたいと言われたこと。
あれほどあからさまに好意を向けられて、勘違いするなという方が無理だった。いや、勘違いではない。グレンヴィルが自分に好意を抱いていることは、疑いようがない。だからこそ、胸の奥が冷えていく。
(婚約者がいるのに? わたくしにあんなことをしたの?)
「わたくしは五歳の頃から、ずっとグレン様をお慕いしてきたのよ。いつかあの方の妻になるのだと信じて。好きな人が、突然現れた女に奪われていくのを見せられる気持ちが、あなたにわかる?」
レティシアの瞳に涙が浮かぶ。
その言葉が、エリーゼの胸に突き刺さった。
わかる。わかってしまう。
信じていた人の心が、自分ではない誰かに向いていたと知る苦しさを、エリーゼは知っている。フランシスのことが脳裏をよぎった。
「お願いよ、エリーゼ様。グレン様をわたくしから奪わないで……」
先ほどまで怒鳴っていたレティシアが、今度は縋るような声を出した。
エリーゼは何も答えられなかった。レティシアが帰ったあとも、エリーゼは研究室の椅子に座ったまま動けずにいた。
胸の奥に、悲しみと失望が重く沈んでいた。
「ただいま、エリーゼ」
聞き慣れた声に、エリーゼは顔を上げた。研究室の扉を開けて入ってきたのは、グレンヴィルだった。後ろからスノウも機嫌良く入ってくる。
「……お帰りなさいませ、グレンヴィル殿下」
「うん。ただいま。会いたかったよ」
いつものように嬉しそうに笑いながら、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。そして当然のようにエリーゼの腰へ腕を回そうとした。
「……っ」
エリーゼは反射的に椅子から立ち上がり、一歩後ろへ下がった。
グレンヴィルの伸ばされた腕が行き場をなくす。
「……エリーゼ?」
「申し訳ありません。少し……疲れておりますの」
「そうなの? 風邪でもひいたかな? フィリシアに診てもらおうか?」
グレンヴィルが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「いいえ。その必要はありません」
エリーゼは視線を逸らす。
頭から離れないのは、グレンヴィルとレティシアの名前が記された書類。
そこにあった国王の署名と、王家の印章。
『わたくしとグレン様は婚約しているの』
レティシアの言った言葉や顔も頭に浮かび、胸の奥がずきりと痛んだ。
「エリーゼ?」
「本当に、なんでもありません」
「……そう?」
納得していない顔をしている。
けれど、グレンヴィルはそれ以上追及しなかった。
「あ、そうだ」
何かを思い出したらしく、ぱっと表情を明るくする。
「エリーゼにお土産があるんだ」
「……わたくしに?」
「うん」
グレンヴィルが荷物を探り、包みを取り出した。
「これ。王都で見つけたんだ。前に好きだって言ってただろう?」
渡された包みから、甘い香りが漂ってくる。
以前、王都で食べて美味しいと話した焼き菓子だった。
「……覚えていらしたのですね」
「もちろんさ」
即答された。
エリーゼは包みを見つめる。嬉しい。
自分が何気なく口にしたことを覚えていてくれた。
王都へ行ったついでに、自分のことを思い出して買ってきてくれた。
レティシアから婚約の話を聞く前なら、素直に喜べたのに。
「……ありがとうございます」
「うん。一緒に食べよう」
「はい……」
どうにか笑おうとしたが、うまくできた気がしない。
グレンヴィルが不思議そうにエリーゼを見ている。
「それと、もう一つあるんだ。こっちはね、見つけたときに絶対エリーゼに似合うと思った」
今度は、小さな箱を取り出した。
グレンヴィルが箱を開く。
中に入っていたのは、百合をかたどった銀細工の髪飾りだった。
「ほら」
「……綺麗」
思わず声が漏れた。
「だろう? エリーゼに似合うと思ったんだ。つけてあげるよ」
髪飾りを手に取り、エリーゼへ手を伸ばす。
その手が髪に触れようとした瞬間。
「……結構ですわ」
エリーゼはグレンヴィルの手を払いのけた。
「エリーゼ、何かあった?」
「何もありませんわ」
「でも、俺が帰ってきてからずっと変だよ」
「疲れているだけです」
エリーゼは遮るように答えた。
グレンヴィルが困ったように眉を寄せる。
そんな顔をされると、また胸が痛くなる。
(どうして、そんなふうにわたくしを心配するの? どうして、好きなお菓子を覚えているの? どうして、髪飾りを贈ってくださるのよ……婚約者がいるくせに!)
「……髪飾りはいただけませんわ。お気持ちだけで十分です」
「どうして?」
「こういうものをいただく理由がありませんもの」
グレンヴィルが目を瞬いた。
「俺がエリーゼにあげたいからじゃだめなの?」
「……だめですわ。だめに決まっているでしょう! とにかく、いただけません」
エリーゼは箱をグレンヴィルへ返した。
だが、グレンヴィルは受け取ろうとしない。
「でも、本当に似合うと思うよ」
「でしたら――」
言いかけて、エリーゼは唇を噛んだ。
レティシア様に差し上げれば良いではありませんか。喉まで出かかった言葉を飲み込む。ここで言ってしまえば、きっと感情を抑えられなくなる。
「……とにかく、わたくしには必要ありません」
「あ、エリーゼ」
呼び止められたが、エリーゼは振り返らなかった。




