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昨日までは、こんなふうではなかった。もちろん優しかったし、大切にもしてくれていた。けれど、手を繋いだり、髪に口づけたりするようなことはなかったはずだ。
いったい何がきっかけで、こんなにも態度が変わったのだろう。
考えても思い当たることはない。
昨夜、グレンヴィルが助けに来てくれたところまでは覚えている。
けれど、そのあとの記憶はひどく曖昧だった。
エリーゼは小さく首を傾げながらも、研究に集中しようとペンを握った。
しばらくして、術式を学んでいると、背後からグレンヴィルの声がした。
「エリーゼ、ここ少し違うよ」
「え?」
「ここ」
後ろから手が伸びてくる。
グレンヴィルはエリーゼの肩越しに覗き込みながら、術式の一部を指差した。
「ここの術式、順序が逆だね。この記号を先に置かないと、魔力がうまく変換されない」
「あ……本当ですわ」
「だから、ここをこうして――」
説明を聞いているはずなのに、次第に内容が頭に入らなくなってきた。
近い。
あまりにも近い。
背中にはグレンヴィルの身体の温もりを感じるし、耳元で声がするたびドキドキが止まらない。
「エリーゼ?」
「は、はい!」
「聞いてた?」
「もちろんです……」
「本当に?」
「ほ……本当ですわ」
グレンヴィルがくすりと笑う。
恥ずかしい。
昼になり、二人は食堂へ向かうことになった。
研究室を出た途端、またグレンヴィルが手を差し出してくる。
朝は戸惑ったが、今は少しだけ慣れてきた。
恥ずかしく思いながら、エリーゼは自分から手を重ねた。
すぐに指と指を絡められる。
「行こう。お昼はなにが食べたい? 俺が取ってきてあげるから席に座って待っていて。ああ、スノウの分もとってくるよ」
「……はい」
『グレンヴィル、ありがとう!』
並んで歩きながら、エリーゼは繋いだ手をちらりと見た。
やはり恥ずかしい。
けれど同時に、胸の奥がくすぐったくなるような嬉しさもあった。
スノウはエリーゼの横をゆったりと歩き、ときおり二人を見上げては尻尾を揺らしている。
食堂へ入ると、フィリシアと目が合った。
二人の繋がれた手を見て、フィリシアが楽しそうに目を細める。
「あら。朝からずっと仲良しね。どうりで、今日は暑いはずだわ」
「ほんとに? そろそろ冷風機を作動させたほうがいいかな?」
グレンヴィルはにこにこと笑っている。
「グレンヴィル殿下……恥ずかしいです」
「俺たちが仲良しなのはいいことだと思うよ。隠すことでもないし」
エリーゼは言葉に詰まった。
「恥じらう乙女って感じね。素敵! ああ、私も恋がしたいわ」
フィリシアは、ますます楽しそうに笑った。
その隣では、バートンも何やら納得したように何度も頷いている。
「ほう。これはこれは……私も恋がしたいですね」
「それなら、案外近くにいい人がいると思うわよ」
フィリシアがにこにこと自分を指さすと、バートンは照れくさそうにしながらも、まんざらでもない様子で頬を緩めた。
昼食の席では、いつものようにグレンヴィルがエリーゼの隣に座った。
ただ、今日はいつもと違う。なぜか椅子をぴったりと寄せてくるのだ。
あまりの距離の近さに、エリーゼは戸惑ってグレンヴィルを見上げた。
「グレンヴィル殿下」
「なに?」
「ちょっと近すぎます」
「俺はこれくらいがいいけど。本当は膝の上に乗せて食べさせたいくらいだし」
「膝の上? ……い、今の距離感で良いです」
朝から何度「近い」と言ったかわからない。
それなのに、グレンヴィルはエリーゼから離れる気がまるでない。
「エリーゼ、これ食べる?」
「いただきます」
「じゃあ――」
「自分で食べますわ!」
朝食のことを思い出し、先回りして言う。
グレンヴィルが残念そうな顔をした。
「だめ?」
「皆さんが見ていますもの!」
「誰もいなければいいの?」
「えっ」
思わぬ返しに、エリーゼは固まった。
「そ、それは……」
だめだと言えばいい。
なのに、その言葉が出てこない。
「……知りませんわ」
「じゃあ、今度二人だけのときにね。あっ、応接室なら良いかも。デザートと飲み物を持ってそっちに移動しようよ」
楽しそうに言われ、エリーゼはどう返せばいいのかわからず、口をつぐんだ。
これではまるで、本当に恋人同士のようではないか。
そう思った瞬間、胸がひときわ高鳴った。
研究棟には職員たちが自由に使える小さな休憩室の他に、来客用の応接室が二部屋ある。扉に“使用中”の札をかけると中に入る。窓際にはふかふかのソファが置かれ、その前には低いテーブルが置かれていた。
「ここでデザートを食べてから研究室に戻ろうよ」
「は、はい」
エリーゼがソファの端に腰掛ける。グレンヴィルもその隣に座った。
近い。またしても肩が触れ合いそうなほど近い。
「…………」
エリーゼは無言で横へずれた。
すると、グレンヴィルも同じだけ詰めてきた。
「…………」
さらに横へずれる。
すると今度は、グレンヴィルの腕が腰に回った。
「エリーゼ……なんで逃げるの?」
そのまま引き寄せられ、とうとう膝の上に収まってしまった。
「きゃっ。グレンヴィル殿下、今日の距離感、おかしくありません? 朝からずっとです。手を繋いだり、食事を食べさせようとしたり、髪に……その……今だって」
口づけられたことを思い出し、声が小さくなる。今も膝の上に乗せられて、とっくにエリーゼの羞恥心は限界だ。
「大丈夫、そのうち慣れるから。俺はこれくらいが良いんだ。エリーゼの側にいたいし、触れたいから」
胸の鼓動が急に早くなる。
「……急すぎます」
ようやくそれだけ言った。
「そうかな? もしかして嫌だった?」
グレンヴィルの瞳が揺れた。
エリーゼは小さく首を横に振る。
「良かった。プリンとゼリー両方持ってきたよ。クッキーとマドレーヌもある。ちょっとずつ二人で食べよう」
「は……はい」
グレンヴィルの手が伸びてきて、口の前にプリンをすくったスプーンが差し出された。促されるままプリンを口にすると、グレンヴィルはもうひと匙すくい、今度は自分の口へ運んだ。
(か、間接キス!? わ、わたくし、恥ずかしくてどうにかなってしまいそうよ……)




