9話 一緒に居られて嬉しい
それから2週間。僕は、死の未来を何度も見た。その度に、苺谷さんに相談して、お兄さんが迅速に対応していった。
電線は整備されて垂れなかった。解決。
土を積んだトラックの横転で土に飲まれる事故は、当日その場所にカラーコーンを置いて歩行者が誰も来ないように。警備員を配置して交通規制をかけてスピードが出ないようにしていた。解決。
他にも。マンションの5階から窓用エアコンが落ちてきて当たる事故は、やっぱり当日その場所にカラーコーンを置いて歩行者が誰も来ないようにするのと、クッションを大量に置いて、落ちてきたエアコンが壊れないようにした……らしい。解決。
他にも。アクセルとブレーキの踏み間違いでコンビニの駐車場から車が来る事故は、その車のナンバーから持ち主を特定し、踏み間違い防止装置を無償でプレゼントした……らしい。解決。
何だろう……天羽さんを守るだけじゃなくて、加害者を加害者にさせていない。お兄さんの行動力が凄すぎて、いつか会った時には「ボス」と呼ばせていただこうと思った2週間だった。
その間、僕はと言うと。
「ただいま」
「おかえり」
パンの配達を終えて、パン生地を捏ねている天羽さんのいるキッチンへ戻ると、お互いに目を合わせて、見つめ合い微笑む。ほんの少しの時間だけど、僕は何とか平常心を保って笑顔を返す事が出来るようになっていた。
「お疲れ様。暑かったでしょ?」
「うん。まだまだ暑いね」
「だね。ゆっくり休んでね」
「ありがとう」
ひと仕事終えた僕は、次の配達まで椅子に腰掛ける。天羽さんが、冷蔵庫から冷えたボトルを出して、あのマグカップに麦茶を注いでくれる。そして、また僕らは目を見て、笑顔でやり取りをする。ああ、もうそれだけで疲れは取れたよ。
しかし、まぁ。随分とたくさん笑顔を見られるようになって。死の未来から身を呈して守る事が無くなって、一緒にいられる時間が増えてから、こんな事を考えるようになった。
帰る時間を気にしないで、もう少し一緒にいたい。
せっかく、苺谷さんのおかげで、天羽さんも他の人たちも平和な日々を過ごせるんだ。今まで僕が身を呈していたのが、どうやら心の中で自分自身の本音に蓋をしていたようで。ようやく、本音に忠実に、天羽さんの笑顔を見つめられる事に時間を掛けていける。
でも、時間が経つのがあっという間に感じる。日が沈めば配達も出来なくなり、僕は自宅に帰っている。それが普通だ。さすがに、泊まる事は天羽さんも困ると思うし、お父さんやおばあさんだってゆっくり出来なくなる。……いやいや、何て事を考えているんだ僕は。まだ僕らは高校生。まだ僕らは付き合ってもいない。……まだ。今は。
「……」
深呼吸。冷静になれ。
あの火災を止めた日に電車の中で聞いてから、もう分かっている。
天羽さんは、僕の事が好きで、一緒にいたい。
僕も、天羽さんが好きで、一緒にいたい。
これ以上を望む必要は、あるのだろうか。
僕は、天羽さんが笑顔になってくれる事や、目を合わせていられる事で、心が満たされている。
世間一般的にいう、付き合うとか、ハグとか……キスとか……そういうのは、刺激が強すぎる。信号機が倒れた日に一瞬抱き合ったけど、あれはとても心臓が耐えられなかった。もう一度なんてとてもとても。……なのに、やってみたい気持ちが少しあるから、悩みが消えない。
それに、やってみたい気持ちが天羽さんにどれくらいあるのかも大切だ。しかし気軽に聞ける内容でもない。やってみないと分からないけど、いざやってみて、もしも天羽さんが無理して我慢して僕に合わせてしまう……なんて事は、僕は嫌だ。僕はただ、天羽さんに笑っていて欲しいから。
「石上くん?」
「えっ? な、何?」
「疲れてないかなぁ、って」
「ううん、大丈夫。ちょっと、考え事をね」
「考え事?」
「うん。時間が経つのがあっという間だな、って」
嘘は言ってない。
「そっか。……うん、そうだね」
目が、合う。何となく、嬉しい時の目尻とは違って、目尻が穏やかでまばたきが多い。嬉しいけれど、少しだけ嬉しくない事を考えているような。……もしかして、天羽さんも、僕ともう少し一緒にいたいと、思っているのだろうか。
もしそうなら、すごくすごく嬉しいんだけどな。
───ガシャアアア
「ひゃああっ! な、何? 誰?」
突然、何かが落ちる音が、隣の部屋から聞こえた。
もしかして、泥棒? 天羽さんが、そんな事を考えているように小さく震えている。
……僕が、守ってみせる。
手元にあった配達用リュックを盾にして、僕は物音を立てないように近付く。
そして、その部屋を見る。
そこは、お父さんの書斎。大きな棚に難しそうな本がびっしり埋まっている。濃い色の木の机が1つ。仕事の部屋だったり、勉強に使われているような部屋だ。
電気は付いていない。しかし、よく見ると、部屋の床一面にパズルのピースがばら撒かれているのと、額縁が落ちている。
この中に泥棒がいるのか?
「……」
秒針の音と、天羽さんが後ろからおそるおそる近付く音だけ。泥棒の気配は無い。
僕はゆっくりと中に入り、カーテンや窓を調べてみるが、侵入した形跡は無い。
「誰もいないよ」
「ほ、本当?」
「うん」
「そっかぁ。良かった。はぁぁぁ……」
と。天羽さんは壁に寄りかかる。
しかし問題はまだある。
「電気つけるよ」
「うん」
「……うわ。ヤバいね。これ」
部屋の照明を点けると、床一面にジグソーパズルが散らばっていた。額縁が本棚に当たりながら落ちたようで、床に散らばっていたり、本棚の下の隙間に入っていたりしている。半分くらいのピースは繋がったままだけど、それでも酷い状態だ。
「パパのジグソーパズル……落ちちゃったみたい。だいぶ古いから、紐が切れたのかな」
「もしかして、大事なやつ?」
「うん。ママと一緒に行った……たしか、アザレア畑の写真から作ったみたい」
めっちゃ大事な物だった。きっとこれを見たらお父さんは悲しむはず。帰ってくるまでに修復しなければ。
「直そう。天羽さん、パパさんは何時くらいに帰ってくる?」
「えっと……夜の7時くらい。あと3時間だけど、でも、良いの? 石上くんが無理しないでいいのに」
「いいよ。だって、好きな人とは、ずっと一緒にいたいじゃん。繋がりは、壊されたくない」
そう。お父さんにとって、亡きお母さんと一緒にいられる物は、どれも貴重だ。好きで結婚したのに死に別れている。もうそれ以上離れさせてはいけない。勝手ながら僕ならそう思う。
「ありがとう。一緒に直そ。私もやるよ」
「分かった。助かるよ」
そうして。僕は、ジグソーパズルの散らばったピースを集め、一つ一つ合わせていく。
天羽さんが僕の隣へ。ほんのりと、小麦粉の香りがする。
「天羽さん。パンの良い香りがするんだけど」
「え? あ、そうだよね。あんまり長くこの部屋にいると、ここに居た事が匂いでバレちゃう」
「だよね。じゃあ、キッチンで? でも、あそこも良い香りが凄いし」
「……石上くん。一つあるよ。パパにバレないで、パズルにも匂いを付けない部屋が」
「本当? どこ?」
「わ……わた……私の部屋」
「……………え?」
手に取ったピースが落ちた。
◆◆◆◆◆
僕は今、天羽さんの家の2階へと続く階段を、一段ずつ上がっている。一度も足を踏み入れた事の無い領域。天羽さんの部屋。天羽さんが、毎日眠る場所。
天羽さんがジグソーパズルのパネルを持ち、僕がバラバラになっているパズルを袋に入れている。たったこれだけの軽い荷物なのに、落とさないようにギュッと握ってしまう。
「電気付けるね」
カチ、と壁のスイッチを入れると、その全容が明らかに。
全体的にカピバラざえもんの人形やらキーホルダーが大量に飾ってあるが、まず目に付いたのが、薄い桃色のベッドの上に寝そべる、この部屋で一番大きいカピバラざえもんのぬいぐるみ。ベッドの4分の1を占める大きさだ。おそらく、あれを抱きしめて天羽さんは眠りについているのか……羨ましい……いやいや何を考えているんだ僕は。
「あの」
天羽さんが僕に面と向かう。
「そんなに、じっくり見られるのは、ちょっと」
「あっ。ご、ごめん」
「ん」
僕は顔には出してない。しかし、天羽さんは僕の目を見て、僕が何を見ているのか、何を想像しているのか、何となく分かってたようだ。まぁ、ここ最近は、お互いに目で会話出来ていたし。
次からは、一瞬だけ見るように気を付けないと。
「あ。天羽さん。その……ちょっと気になるんだけど」
「何?」
「僕、匂わないかな」
「え?」
「いやほら、天羽さんの部屋に、変な匂いを付けたくないから、さ」
「う〜ん。そうかな」
すると、天羽さんが近付く。僕の肩、背中、首……首まで来た所で、天羽さんのパンの香りが僕の鼻を通り抜ける。堪えろ。何を考えているんだ僕は。鼻と鼻で空気の関節キスをしているだとか余計な事を考えてはいけない。
「ん。大丈夫だよ」
「大丈夫って?」
「大丈夫は、大丈夫」
「やっぱり、臭う?」
「石上くんは気にしなくて大丈夫だし、私が大丈夫って感じるから大丈夫なんだよ。さ、パズル組み立てよう」
「…………うん」
何だか強引に話を逸らされた。でも、とりあえず大丈夫らしい。でも、それはそれで、嬉しいやら恥ずかしいやらで、そわそわするけど。
いかんいかん。そんな事を考えてると一向に始まらない。僕も、強引に妄想を終わらせよう。
◆◆◆◆◆
……静かだ。ただ聞こえるのは、掛け時計の秒針の音と、パズルを合わせようとしてテーブルの上で擦れる音と、たまにパチッとはまる音と、僕と天羽さんの深い呼吸の音だけ。
この部屋から香るのは、ラベンダーのシャンプーの香りでも、パンの香りでもない、何に例えたらいいか分からないけど自己主張の少ない控えめな香り。この部屋全体が、僕をここに居て良いのだと包み込んでくれているような、心地良い香り。
このジグソーパズルが終わるまでの特別な時間だ。今のうちにたっぷり堪能……待て、何を考えているんだ。そんな事はないんだ。また次も、仲良くなってここに入っていけば……待て待て、それこそ何を考えているんだ。敢えてここで遊ぶ必要は無い。ここは人を招くためには使われていない。たまたま今日は綺麗だっただけですぐに入る事が出来たけど、そんなに何度も入ろうものなら、天羽さんはどこに下着を脱ぎ散らかせばいいのだ…………待て待て待て。さらに酷くなっている。れれれ冷静になれ。
「石上くん?」
「はいっ!」
「っ! ど、どうしたの? 何だか、息が荒いから、疲れちゃったのかなって」
「大丈夫だよ! むしろ元気!」
「そ、そう? ならいいけど」
「天羽さんは、パンをたくさん作ったし、疲れてない?」
「う〜ん……疲れてないと言ったら嘘になるよ。でも、何だろ……変なテンションになってる」
「ど、どうして?」
「……」
天羽さんが無言になる。
ふと見ると、天羽さんも僕を見ていたが、すぐに視線を外して、前髪で見えないようにして……
「2人で、誰にも見つからないように、隠れてるのが、ね」
最後の方はギリギリ聞こえるくらいに声が小さくなったけど、音の無い密室だから僕は聞き取れた。しかし、そんな細々とした声そのものが僕の心臓を高鳴らせる。
2人きり。密室。お父さんに見つからないように隠れる。決して悪い事をしていない。むしろ善い事をしている。なのに、悪い事をしているような変な気分になる。
まだ僕らは、付き合っていないのに。
「ごめんね。やっぱり休憩。お茶持ってくるよ」
「え? ああ、そうだね」
何故だか早足で、天羽さんは部屋を出て、トタトタと階段を降りていく。
一人になり。パズルを組み立てる。
掛け時計の秒針の音を聞いて。目はパズルのピースを探すために動き続ける。……いや、敢えてピースだけを見るようにしている。視界の外にある、部屋のクローゼットには、絶対に視線すら合わせないように。それが、僕の出来うる限りの、天羽さんへの誠意だから。
───ガチャッ バタン
っ。今、扉の鍵が開いて、お父さんの声がかすかに聞こえた。帰ってくる時間までまだ余裕があるけど、早く仕事が終わったのだろう。
まずい。僕のバイトの時間はとっくに過ぎているし。娘の部屋で何をしているのか問い詰められる。パズルが落ちたと正直に言っても事態は収束しない。どうする、窓から出るか?
「石上くん」
天羽さんが、トレイを持ってお茶を持ってきてくれた。
「天羽さん。大丈夫なの?」
「大丈夫だよ。パパ帰ってきたけど、それより前にね、お茶を取りに行った時にね、石上くんの靴を隠しておいたの! 傘立ての裏にあるからね。これでバレないよ!」
何故だろうか。天羽さんが、褒めてほしいと言わんばかりに元気に微笑む。その気付きはすごいけど、何だか、もっと深刻になっていそうな気がするのだが。
「あ。ごめんだけど、パパが帰ったから、晩ご飯作らなくちゃいけないの」
「え? 天羽さんが作ってるんだね」
「うん! 任されてるの! でも、そうなると石上くん一人でパズルやるし、帰りが遅くなるよ。さすがにそろそろ帰る?」
そろそろ帰らないとまずい。お父さんに何て説明したらいいか分からなくなるくらい、まずい。分かっている。なのに。
「そろそろ……だけど、本当にあと少しで出来るんだ。たぶんご飯作ってる途中で終わる。天羽さん達がご飯食べてる時にこっそり帰る。それでどうかな?」
「それなら……うん。分かったよ。パパの為に、本当にありがとうね」
「うん」
そうして、天羽さんと僕は手を振り合う。
そしてまた一人。すぐに集中。もう時間は無い。でも、パズルが組み上がるほど、ピースが減って正解率も上がっている。
「……うん?」
すると、部屋に卵の焼ける香りが。天羽さんが作っている夕食の香りだろう。
ああ、お父さん、羨ましいな。いつも天羽さんの手料理を食べられて。まぁ、それが普通なんだろうけれど。羨ましいと思えてしまう。
ふと思う。僕が、天羽さんの手料理を食べられるような関係性は……と。
そう考えたら、妄想が広がってしまった。
書斎のある部屋で、パソコン作業をしてるスーツ姿の僕に、エプロン姿の天羽さんがオムライスにハートを書いて持ってきてくれる。お疲れ様。ああ。とか言って微笑み合って………ああああああああああああああ幸せすぎるうううう!!
「これくらい大丈夫さ! 君の笑顔で、いくらでも力が湧いてくるから! とか言ったりして! とりゃあああああ!」
小声で、そんなアホな事を言いながらも、パズルを動かす手は止まらない。むしろ速くなっている。何故なら、もうピースは残りわずか。ピースの集合体を合わせていき、そして、最後の一つをはめ込むだけ。
「出来た……」
白いアザレア畑の景色が美しい、ジグソーパズルが全て組み上がった。
それを額縁に入れて。あとは、吊るす紐が切れていてどうするか。元の位置に戻すのは誰がやるか。そういった諸々は、天羽さんがやっていくはず。僕のやれる事はここまでだ。
さて、こっそり帰るか……と、立ち上がった時、誰かが階段をトタトタと上がってくる音が聞こえた。天羽さんだと分かる。夕食を作っている最中にどうしたのだろうか。
「石上くん。あ、もう出来たんだね! ありがとう! お疲れ様!」
「う、うん。それより、天羽さん、それは?」
部屋に入ってきた天羽は、ジグソーパズルを見て喜ぶ。対する僕は、天羽さんの持つオムライスと野菜スープを見て困惑。まさかとは思うが……
「良かったら食べる?」
「はい頂きます」
光の速さで姿勢良く座った。
◆◆◆◆◆
そうして僕は、絶品オムライスと野菜増し増しコンソメスープを平らげる。美味しすぎて口が止まらなかった。
そして天羽さんは今、1階へ行っている。お父さんとおばあさんと一緒に夕食を食べに。そりゃそうだ、ずっと2階にいるのは不自然だ。
───ピロン
その時。天羽さんからメールが来た。
『ご飯の後、パパはすぐにお風呂に入るから。そしたら帰るチャンスだよ!』
なるほど、了解した。
しかし。しばらくすると。天羽さんが部屋に来た。
「ごめんね、今バァバがお風呂に入ってるの」
「そっか。仕方ないね。もう少し待つよ」
「帰りが遅くなっちゃって、ごめんね」
「ううん、大丈夫。それより、オムライスもスープも美味しかったよ」
「本当に?」
「うん。卵がふわふわだったし、火の通った鶏肉も噛んでて楽しかったし、スープは疲れた体にガツンと染み渡ったよ」
「そ、そんなに褒めてくれて、嬉しいよ。あんまり時間が無かったけど」
「時間が無くてあのクオリティなんだね」
「ふふ、ありがとう。褒め上手だね」
そう言って、天羽さんは嬉しそうに笑う。
こちらこそ、美味しいご飯を頂けて嬉しいよ。
「何だか……今日は石上くんが泊まりに来てるような……不思議な感じ」
ふと、天羽さんがぽつりと言う。それは、僕も感じていた事と同じだった。
「僕も、そんな感じがするよ」
「ふふ、そっか。考える事が同じだね」
「うん。そうだね」
しん、と静まり。しかしすぐに天羽さんは続ける。
「今日は本当にありがとうね。パパのためにこんな時間まで」
「ううん、いいよ。それに、パズル楽しかったし、ご飯美味しかったし、それに……」
一緒に居られて嬉しい。
その言葉を、僕は、目と目を合わせて微笑んで伝える。すると、天羽さんも何となく分かったのか、同じように微笑んでくれた。
何となく感じている気持ちを言葉にするよりも、こっちの方がしっかり伝えられる時もある。僕と天羽さんだけの、秘密の会話。
「……」
「……あ」
僕は、秘密の会話をしたい気持ちがもっと強くなり、天羽さんの頭に手を添える。少し驚いた様子だったけど、僕が髪を撫でていくと、天羽さんはその心地を堪能しているのか、目を閉じて笑った。
ずっと、こうしていたい。
ずっと、笑顔でいてほしい。
ずっと、長生きしてほしい。
願望が溢れていく。天羽さんの幸せを願うたびに、僕自身の幸せと結び付いていると改めて気付かされる。
天羽さんも、同じだと思う。僕の笑うのを喜んでくれている。一緒にいたいというメッセージは、充分に伝わっている。
好きだという言葉を言うのは簡単だ。でも、言うだけじゃ足りない。何をすれば、僕の願いは満たされるのだろう。何をすれば、天羽さんはもっともっと笑顔になってくれるのだろう。
「石上くん」
「何?」
「ふふ……ん」
天羽さんが、うっすら目を開けて、僕と目を合わせて笑うと、再び目を閉じて、艶やかな唇を少し上に向けて、止まる。
流石に、ここまで分かりやすくされると、どういう意味なのか分かる。天羽さんが何をしてほしいのか、目を見て気持ちが分かるのは、僕も同じだから。
僕は、頭を撫でていたその右手を降ろし、頭の後ろへ。栗色の長い髪を優しく包むように添える。天羽さんの正面に顔を寄せ、薄目になりつつもその唇を見つめ……
───トン トン トン
「!?」
「!?」
階段を誰かが登る重い音が。
「パパ来る! 隠れて!」
栗色の髪を慌ただしく振りながら、天羽さんは僕をどこに隠そうかを探す。どこへ? クローゼット? いや、そこは開けちゃダメだ。なんて考えていると……
「こっち!」
天羽さんが、薄いピンク色のシーツをめくり、ベッドへと僕の手を引く。僕は横に一回転しながらベッドの中に潜り込んだ。
そして、天羽さんはシーツを被せ、ベッドにダイブ。シーツの上から、僕を抱きしめた。……抱きしめ、た?
しかも、え、何ここ、天羽さんの部屋に薄く香っていた、ラベンダーのシャンプーの香りでも、パンの香りでもない、何に例えたらいいか分からないけど自己主張の少ない控えめな香りが、強く感じられる。
「花恵。入るぞ」
「うん。何?」
「……何だ、ここで何か食べたのか?」
「う、うん。ちょっと、お昼にね。お腹が空いちゃって」
「珍しいな。まぁ、そんな時もあるか。それで、何かそこにあるのか?」
「っ! な、何もないよ! ただ、お布団をギューってしたくなったの」
そう言って天羽さんは、シーツを丸めるように、僕がいる事を察知されないように、抱き締める。
天羽さんの体温が、シーツ越しに僕の顔に、肩に、横腹に。
好きな女の子に強めに抱き締められて、僕はこんなギリギリな状況下でも、温もりを感じて逆に落ち着いてしまっていた。
「パズル、知らないか?」
「えっ!?」
「白いアザレア畑の、あれだ。部屋に無くてな」
「あ、そ、それはね」
天羽さんが、か細い声になる。そうだ、僕を隠すのに必死で、ジグソーパズルはそのまま床に置きっぱなしだった。
なんて絶体絶命でも、僕の意識はもう既にそちらではない。
鼻が、脳が、魂が、幸せに満ち溢れている。僕をここに居て良いのだと包み込んでくれているような感覚の正体は、僕がここに居たいという本能から来るものだ。
この香り……間違いない。天羽さんの……体から出る自然な香りだ。
理解した途端、鼻息が深くなった。せめて音を立てないように堪えろ。バレたら終わる。色々と終わってしまう。
「ん。何故ここに?」
「あの、その、これは」
「……花恵」
天羽さんが、息を吸いながら最高潮に抱きしめる。僕は、天羽さんに思いっきり抱き締められ、この香りに包まれて、意識がどうにかなってしまいそうだった。天羽さんの腕の中で息絶えるならば、我が生涯に一片の悔い無し、なんて変な事を考えてしまった。
「なるほど。また、紐が切れたのか。それを、パパが帰る前に直してくれたのか」
「え? う、うん」
「ありがとう。何やら気を遣わせてしまったな」
「うん。だってそれ、大事なんでしょ?」
「ああ。そうだな。でもな」
お父さんが、ジグソーパズルを持ち上げる音が聞こえた。
「これを直す時間も、パパは好きだ」
そう、ぽつりと言って、お父さんは部屋を出ていく。
「花恵。ありがとう」
「うん!」
───トン トン トン
階段の音が小さくなり、次第に天羽さんの抱き締めも緩む。
「はあああびっくりしたぁぁ。石上くん、ごめんね、びっくりしたよね? って、石上くん?」
「だ、だ、だいじょーび」
僕は、天羽さんからの抱擁を堪能しすぎて、長風呂した時のように頭がのぼせてしまって、起き上がれなかった。
ベッドに付いている天羽さんの匂いを嗅ぎ過ぎて、脳がトロトロになってしまった。




