20話 これが、あなたの答え
「……」
夢から覚めてしまった。
駆馬くんと出会って……駆馬くんに守られて……駆馬くんから告白してもらえて、私はたくさん笑顔になれた。幸せだった。これから先も続くと思っていた。
夢であってほしいと願っても、もう意味が無い。現実を受け入れなきゃ。好きな人の言葉なら。私を守るために頑張ってしまえる、あなたの言葉なら。
駆馬くんとの間に子どもを授かったら、私は死ぬ。26歳で死ぬ。
時間にして、10年しかない。どうすればいいのか、答えが出ないまま、目が開いてしまった。眠りすぎて体が重いし、喉が渇いた。
それに、パンを焼かなければ。今日は予約が5件入っている。
切り替えよう。ひとまず起きなきゃ。
───ガチャ
と、部屋の扉を開けると、パンの焼けた香りが鼻を通った。
1階のキッチンへ行くと、バァバが食パンを焼いていて、今まさに梱包している最中だった。
「おはよう」
「おはよう。バァバが、何で?」
「今日は5件だろ? 駆馬くんはケガしてしばらく来れないし、花恵は昨日から元気無いように見えて、ね」
「……そっか。ありがとう」
「何かあったんだろ。言ってごらん。聞くよ」
バァバが椅子に腰掛けて、私の目をじっと見る。
とっさに私は精一杯の元気な笑顔で返事をした。
「大丈夫。心配しないでいいよ」
「……そうかい」
それだけ話して、私はキッチンを出て、御手洗いに向かう。
大丈夫? そんな訳無い。
でも、腰を悪くしているバァバにこれ以上の心配をさせたくない。自分よりもずっと若い孫が、あと10年で、26歳で死ぬなんて聞かされるのは、あまりに酷。
駆馬くんも……こうやって隠してきたんだ。こんなにも心を削って笑顔にならなきゃいけないなんて。
人の幸せのために行動出来るって私を褒めてくれたけど、そっくりそのまま言ってあげたくなった。
「それじゃあ、行ってくるから」
御手洗いを終えた私に、バァバはそう言って、梱包されたパンを運ぶリュックを背負って玄関へ向かっていた。
「えっ、まさか、バァバが届けに?」
「そ。お隣の金森さんに車を出してもらうよ。大丈夫、金森さんからね、いつも世話になってるから車くらい出すよってさ。駆馬くんが治るまで手伝ってくれるみたい」
「それは……ありがたいけど」
「いいのよ。だから、花恵は何も気にせず、駆馬くんの所に行ってあげなさい」
「っ…………ありがとう」
顔を上げられない。バァバはきっと優しい笑顔だ。今、それを見ても、笑顔で返す事が出来ない。
腰を痛めていても、私の心配を優先してくれる。そんな体になっても優しいバァバに、私はもう一歩だけ甘えたくなってしまった。
「ねぇバァバ」
「ん?」
「バァバは、長生きして、幸せ?」
絞り出せた心の声。
どうしても聞きたくなった。バァバはどんな事を考えて長く生きているのか、と。
そんな突然で曖昧な質問でも、バァバはリュックを降ろしてくれた。
「何か、怖い夢でも見たのかい?」
「ちょっと、ね。夢だけど、ね、ママみたいに若い時に、死んじゃうの」
「そうかそうか……それはびっくりするよねぇ」
ゆっくりと、キッチンの方に戻り、椅子に腰掛けて、一呼吸。
視線で促された私も、椅子に座って対面する。
「少し……バァバの話をしようか」
もう一呼吸の後、バァバは続けた。
「7年前、バァバが腰を悪くしたのを覚えてるね?」
「うん」
覚えている。7年前。道路を歩いていたバァバは車に撥ねられて、腰骨を折ってしまった。その時から今に至るまで、長く歩く事や重い物を持つ事が出来なくなってしまった。
「運良く、車椅子だとか寝たきりにはなっていない。けど、運悪く打ちどころが違っていれば、死んでいたかもしれない。でもね、だからこそバァバは気が付いた。今こうして元気に過ごせる事とか、花恵と一緒に居られる一日一日が、本当に尊いんだってね」
バァバが優しい眼差しで見つめる。
「花恵。人生何が起こるか分からない。どんな人でも明日死ぬかもしれない。だから、今この瞬間を大切にしなさい。大切な人と一緒に過ごしなさい。なるべく悔いの残らない未来を選んでいれば、ふと振り返った時に長生きしてて幸せだなってそのうち言えるから」
「バァバ……」
「ほっほっほ! よしよし」
私は、衝動に駆られて立ち上がって、バァバの膝に擦り寄る。バァバも抱きしめ返してくれた。その優しさが温もりになって、私の心に染み渡った。
◇◇◇◇◇
私は、運良く駆馬くんが助けてくれたから、ここにいる。運が悪ければ、死んでいた。
そんな私があと10年も生きられて、駆馬くんと結婚もできて、子どもを授かる事も出来るなんて……それはとっても尊い事なんだ。そんな人生でも決して悪くない選択なんだと、バァバの言葉で気付けた。
そう、気付けたのに。
綺麗に、素直に、それを選べない。どうしても、もっともっと贅沢を願ってしまう。10年だけじゃ足りない。もっと一緒にいたい。誰一人欠けず一緒にいたいなって……やっぱりそんな未来が一番幸せだと思う。
でも、分かっている。それは望んでも手の届かない未来。だから、その次になるべく悔いの残らない未来は……子どもを諦めてでも駆馬くんと一緒にいる未来。でも、それだと、駆馬くんはどう思うのだろう。
まだ高校生なのに。そんなの聞かれても、困っちゃうかな。
「あれ? 花恵ちゃん?」
ふと呼ばれた方を見ると、私の目の前に、梅次さんがいた。
「やっぱり花恵ちゃんだ! 今日はどうしたの?」
「あ……はは、迷っちゃって」
駆馬くんの家に行こうと思って歩いてたら、考え事が多くて下を向いて歩いていて、梅次さんの家の方向に来たようだ。方向音痴だな、私って。
「迷っちゃうなんて、相変わらずだね。どこ行くの?」
「駆馬くんの家です」
「あっ、お見舞い? ケガしたんだよね……早く良くなるといいね」
「そうですね。……梅次さんは?」
「私? ちょっとお買い物と、お散歩もね。ちょっとでも痩せないと産む時に困るよ〜ってお医者さんに怒られちゃったから」
そう言って明るく笑う。
体重を気にするくらいに以前よりも食べる事が出来ているようで、私もつられて嬉しくなった。
「そうだ、良かったらうちにおいで。水まんじゅう沢山あるの。食べてって」
「えっ、いいんですか?」
「いいよ〜。むしろ食べてほしい。間違えていっぱい買いすぎちゃってね」
「あらら……じゃあ、お言葉に甘えます!」
「うん! 行こ行こ!」
2人で歩く。
水まんじゅうは好きだし、それに、駆馬くんへのお土産に貰っていけたらと思った。だから、ちょっとだけ寄り道してもいいよね。
「それにしても、花恵ちゃんに会えて良かったよ」
「私もですよ。梅次さんの元気な顔が見れて嬉しいです」
「うん! 本当に、花恵ちゃんのお陰だよ。お腹の子も順調だし」
お腹に手を添える。
そう。おめでたの時から、よく聞いている。梅次さんは、文字通り本当に命懸けで赤ちゃんを守ってきた。
「花恵ちゃん?」
「えっ、何です?」
「何だか真剣に、ずっとここ見てたから」
「あっ、その……お腹の子がちょっと気になって。梅次さんは、どうして大変な思いをしてでも子どもが欲しいと思ったのかなぁ、って」
赤ちゃんを授かる決意が気になり、つい聞いてしまった。
「どうしてって……んー……私が赤ちゃんを可愛がりたいってのもあるけど、それだけじゃないかな。旦那が欲しいってね。あの人、もうベビー服とか買っちゃってるの。気が早いよね」
「それだけ楽しみなんですね」
「うん。だから……よく思うの。私一人で産むんじゃないし、私一人で育てるんじゃないって。旦那も一緒に頑張ってくれるし、喜んでくれるから。旦那だけじゃなくて、お父さんもお母さんも、旦那のお父さんお母さんも、親戚の人たちも、みんなが祝福してくれる。喜んでくれる。新しい家族として受け入れてくれる。だから、産んでみたいなって思えたの」
梅次さんは、照れて笑いながら、はにかんでくれた。
「そのうち分かるよ、花恵ちゃんも」
「そ、そうですか……?」
「そうだよ。彼氏さん、素敵な人だもんね」
「……はい。本当に」
私も駆馬くんも、まだ高校生で、まだ結婚もしていないのに。そんな未来が鮮明に描ける。
だからこそ、つらい。
◇◇◇◇◇
駆馬くんは、ずっと秘密にしておきたかったのに、寿命の事を打ち明けてくれた。それは、それだけ私と私たちの子どもの事を大切に思っているから。
……もしも。
あんまり考えたくないけれど。
私が出産して、死んでしまっても。
駆馬くんは、ちゃんと育ててくれる。
ちゃんと育てていきたいと思って、駆馬くんは決意するんだと思う。
まだ結婚もしていないのに、そんな安心感があるのは、未来の私がそう思えたからだろう。だからこの人との子どもを授かろうと思えたんだと、今なら気付ける。
結婚する未来の私……きっと幸せなんだろうなと、今だから気付けた。
「駆馬くん……」
頭の中の整理がつくのと同じタイミングで、駆馬くんの家に到着。手にはお土産の水まんじゅう入りの箱の入ったビニール袋を持って。
寿命を教えてくれた駆馬くんに、返事しなきゃ。
私は、10年後の未来で、駆馬くんと結婚する。子どもは、駆馬くんとの間には授からない。それでも欲しくなったら………………養子を迎え入れる。今思いついたけど名案だと思う。
それが、なるべく悔いの残らない未来。
私たち2人の、幸せな選択。
そう、意を決して、私はインターホンを押した。
「別れよう」
ベッドの上で座る駆馬くんが、部屋に入った私に開口一番で伝えたその言葉に、私の頭の中は真っ白になってしまった。
崩れるように床に座る。
胸の苦しさを抑えながら、私は何とか言葉を発した。
「どうして」
「その方が花恵さんは幸せになれるから。僕じゃない他の人と結婚したら、花恵さんは長生きできる。幸せになれる。もう分かるから」
「どういう、事?」
「そんな未来も見えたんだ。でも……あんまり詳しく言えない。言いすぎたら未来が変わる。だから、こんな大雑把な情報でも信じて欲しい。僕じゃない人となら、子どもを産んでも死なない。孫やひ孫に囲まれて長く生きられるんだ」
ひ孫も出来る。つまり、90歳くらい……いや、それ以上。変な事故や病気で死ぬ事なく、長く生きられるのだろう。
産んでも死なない……なら、何で……駆馬くんとは、ダメなの?
疑問が溢れてくる。別れたら幸せになれるなんてイメージが湧かない。信じられない。
「分からないよね。だけど、これが真実なんだ」
ただ分かるのは、駆馬くんの目から、嘘ではないという事。
「僕らがこのまま付き合っていれば、結婚する。今は欲しくないと思っていても、子どもが欲しくなる。……そして、死ぬ。だから別れ───」
「じゃあ! じゃあ、養子は?」
そう聞いても、駆馬くんは首を横に振るだけだった。
「どうする事も、出来ないの?」
「……」
「別れても、本当に、幸せになれるの?」
「うん」
「私じゃなくて、駆馬くんが、それで幸せなの? って聞いてるの!」
「っ……」
「私だけ幸せになるなんて、そんなの嫌だよ! 2人とも悔いの残らない未来を考えようよ! 2人で! 一緒に!」
「僕は……花恵さんが長生きしてくれる事が、一番の幸せだから」
「わ、私だって───」
「だから───」
「だからじゃなくて───」
「花恵さんっ!!」
「っ……」
やめて……その先は、もう、聞きたくない。
「別れよう」
◇◇◇◇◇
別れを告げられ、それから何日経ったか数えていない。会えない日を数えたくなかった。
自室のキッチンで、ぼんやりと、パンが発酵してゆっくり膨らむのを眺める。
何も考えてはいけない。そう思っているのに、思い出してしまう。
このキッチンで、お揃いのマグカップで一緒にココアを飲んで時間を忘れてゆっくりしていた事も。
リュックを背負って出ていく度、行ってきますと行ってらっしゃいのやり取りを、まるで新婚夫婦のようだと感じていた事も。
一緒に食材を買いに行く度、駆馬くんの分のご飯を作ってあげたいと何度も思った事も。
一緒に学校に行く度、さりげなく車道側を歩いてくれた事や、自転車が来たら肩を寄せてくれた事も。
お洒落をした服に見蕩れてくれた事。その後、私を火事が起こる前に避難させて守ってくれた事も。
何度も。何度も。私が死ぬ夢を見て、私に気付かれないように動いて、笑顔で一緒に過ごしてくれた事。
思い出してしまう。
思ってしまう。
一緒に居たい。
◇◇◇◇◇
気付けば、夏休みが終わっていた。
明日は学校。宿題と荷物を入れようと、散らかった押し入れから鞄を久しぶりに出す。
また、思い出してしまう。教室で手を振りあって、私のノートを写して、放課後に宿題をして……。
これ以上考えたら、学校に行けなくなる。
無理にでも歩いて、外の景色を流し見て、別の事を考えるようにしないと。
「……あれ」
歩いて歩いて、考え事が止まりかけていたのに、気付いてしまった。
以前までならパパの車で途中まで送ってもらっていた。今は、歩いていける。駆馬くんのお陰だ。駆馬くんと学校を帰るたび、思い出が募るたびに、景色を覚えられたから。
もう迷わない。
けど、今日くらいは迷いたい。
「おはよう!」
「おはよ」
「……おはよう、2人とも」
校門近くで、文実ちゃんと鈴子ちゃんに久しぶりに再会。でも、いつも元気な鈴子ちゃんは珍しくぎこちなく挨拶だ。
「あのさ……聞いたよ。別れたって」
「えっ、知ってたの?」
「うん。石上くんから文実ちゃんに連絡があって、文実ちゃんから私に」
「……そっか」
文実ちゃんの方を見る。
「文実ちゃん。何か……聞いたの?」
「別れた、って事と、一言、お互いに嫌いになって別れた訳ではない、って石上くん言ってた」
「っ……そっか」
だから過剰に心配しないでほしい、そんなメッセージなのだろう。
「私がどうこう出来る事は無いけど……何かあったら助けになるからね」
「そうそう! また一緒に遊びに行こう!」
「文実ちゃん……鈴子ちゃん……うん。ありがとう」
そうして、私たち3人で教室へ。文実ちゃんの席で談笑しながら、私は決意する。私は、付き合えた事はすぐ周りに言えたのに、みんなが祝福してくれていたのに、別れた事は誰にも言っていなかった。私から伝えないと2人みたいに心配させてしまう。
パパとバァバに、私から伝えなきゃ。
心配しないで、だけでは説明が足りない。バァバとは、パンの配達のバイトだってある。私の部屋で遊んでいても咎めないくらい、パパは個人的に信頼している。
本当の事を、言わないと。
私の寿命のために、別れた事を。
「おーっす! 石上!」
その時。片桐くんの声が聞こえる。
駆馬くんが、教室に来た。私の視界の後ろの席へ。
「うーわ、やっべぇな!」
「どうしたんだよ! その目!」
「ちゃんと見えてるか? ああ、視力は大丈夫なのか」
他の男子が、駆馬くんの目の傷を心配している。夏祭りで、私を守ってくれた時のケガだ。その傷は一生残る。全然喜べない。
私のために。
私のせいで。
でも、見てはいけない。私たちは、別れたのだから。
今いる文実ちゃんの席も、私の席も、どちらも教室の前。わざわざ振り向かないと目が合わない。だから、耳を澄まして聞く事しか出来ない。
◇◇◇◇◇
そう、思っていたのに。
新学期になって、席替えする事になって。視力の弱い人が先に選んだのもあって、視力の良い人同士で後ろの方で隣同士になる確率は高くなったと思っていたら、まさか本当になるとは思わなかった。
駆馬くんと、隣同士になった。窓際の一番後ろに私。だから先生の方を見ようとしたら、視界の端に駆馬くんが見えてしまう。
……ほんの少しだけ、嬉しいという気持ちが、まだ残っていた。
「……」
「……」
やっぱり、雑談は無い。
チラリと見える机で、駆馬くんはペンを走らせている。その左手の甲には、あの時の傷跡が。綺麗だった皮膚が引っ掻かれてボロボロになっている。
痛かっただろうな。怖かっただろうな。
それでも、私を守って、優しく微笑んでくれた。
ごめんねと、ありがとうを、いっぱいいっぱい伝えたいのに……。
「天羽」
「は、はい!」
いけない、次は、私が読み上げる番。今は授業中。切り替えなきゃ。
「よし。次」
「はい」
私が読み終えると、すぐに駆馬くんが続きを読み上げる。ちゃんと授業に集中しているんだ。えらいなぁ。
そういえば、今日は、まだ一度も眠っていない。私と会話しないように、敢えて勉強に集中しているのだろうか。無理して頑張っているように感じるのは私の思い過ごしだろうか。よく頑張ったねと言ってあげたいし、あんパンで頭を休憩させてあげたい。
「天羽?」
「は、はい!」
また、やってしまった。慌てて立ち上がって、黒板に回答を書く。
戻る時、ふと見る。
見てしまった。
右目や、耳から鼻にかけて引っ掻き傷の跡がある。遠目からでも分かるくらい、その跡は皮膚の色が変わっている。
鮮明に記憶が蘇る。あの日、どんな場所にいって、笑顔で、腕をからめて、幸せだったかを。こんなになってまで、私を守ってくれたのかを。
なのに私は、あなたに何もしてあげられない。ありがとうも、ごめんねも、届けてはいけない。すぐ近くなのに、手を振る事も、抱きしめる事も出来ない。
「っ……」
何だか、胃がムカムカする。不安な気持ちになりすぎたかもしれない。
冷えてきた。これは……ちょっと授業どころじゃない。
「あの、先生」
◇◇◇◇◇
保健室へ。保健の先生も気軽にベッドに寝かせてくれた。
休めたお陰で、頭がスッキリして、ムカムカは減った。完全に取れた訳ではないけれど、授業を受けながら治っていくはず。そう思って、私は保健室を出て、教室へ戻る。
「あ……れ?」
教室は、誰もいなかった。
あ、そうか。次は理科。理科室に行かないと。
もう既に他の教室で授業が始まっている時間帯だ。廊下を急ぎめに歩かないと。
「あ……れれ?」
理科室に着いたのに、誰もいない。
理科で間違いない。教室でも理科室でもないなら、どこに行けばいいんだろう。
分からない。理科室の入口で立ち竦んでしまった。
「花……天羽さん……」
ふと。後ろから声が。振り返ると。
「はぁ……はぁ……」
駆馬くんが、そこにいた。息が乱れている。
「……駆馬くん」
別れてから、今日に至るまでで、初めて目が合った。目に傷があっても、相変わらず、優しい眼差しだ。
「理科……視聴覚室で、やるんだって、急に変わったから」
「だから皆居なかったんだね」
「視聴覚室、場所は分かる?」
「………………頑張る」
「気持ちの問題じゃないと思う」
いつものやり取りに、懐かしさが出てきて。不意に私は笑ってしまった。
それを見て、駆馬くんも、仮面が取れたようにポロッと小さく笑う。
「行こ」
「うん」
2人で、手を握ろうと思えば握れる距離だけど、空けて並んで歩く。
「よく分かったね。私が、ここにいるって」
「天羽さんは真面目だから。保健室でちょっとでも体調が良くなれば、勉強を頑張ろうとするから。保健室に行ってみたら、やっぱりその通りだったよ」
もう、分かりきっているように、さらりと言ってくれた。まず最初に保健室に行ってくれた。でも保健室にいなくて、私が知らずにここに来る事を予測して、もう授業が始まっている時間帯なのに駆馬くんは来てくれた。
だから、息を切らしていたんだ。
「ありがとう。分かるんだね」
「分かるよ。ずっと……教室の後ろから、見てたから」
夏休み前、駆馬くんがそれほどに私を見ていた。
そんな駆馬くんだからこそ、私がどこにいるかを気付いてくれた。
また、守ってくれた。
「駆馬くん」
階段の踊り場。誰にも見られない。
ダメだと分かってても、私は嬉しくなって、駆馬くんの手を握る。
すると、駆馬くんは足を止めた。
「天羽さん。ごめん」
顔を背けて、絞り出すように、一言。
……空気が、冷たい。
そうだ、さっきから、私の事を天羽さんって、苗字で呼んでいる。何に対して謝っているのか言ってないけれど、伝わってしまう。そこまでのメッセージを伝えてくれたら、もう、嫌でも、分かってしまう。
これが、あなたの答え。
クラスメイトとしての関係性に戻ろうという事。
「分かったよ。ごめんね……い、石上くん」
私は、手を離した。




