三十六夜「解離」
久遠たちは、薄暮探偵社に到着した。
ラブのクニから出た後は、平穏な日常の光景そのものがあった。
車の排気音と、どこかのショップが垂れ流す喧騒のような音楽。
駅前特有の生々しい活気と、行き交う人々の気配。
一歩一歩、アスファルトを踏む度に自分が現実世界に戻った感覚がした。
現実世界への帰還。
それを実感した。
その安堵は、数分後に塗り替えられた。
「やぁ、お疲れさん」
カウベルの柔らかい音がなる。
薄暮探偵社の入り口を自ら開け、箱根は久遠たちを迎え入れた。
その顔は、絵に描いたような満面の笑みを浮かべている。
余程、久遠たちが為した行動が喜ばしかったのだろう。
そこには彼らへの純粋な心配と、為した行動への賛辞が含まれていた。
「無理させてしまったね。おいしい物でも食べようか」
その「完璧な歓迎」を目にした瞬間、氷月の脳細胞が拒絶反応を起こした。
だが、氷月は知っている。
この男がどれほど信頼できず、普段どれだけ頼りないかを。
その箱根が今、まるで「一人前の頼れる大人」のような完璧な態度を取っている。
いつもは、足を机に乗せて昼寝している癖に……と氷月は内心毒づいた。
(氷月ちゃーん、おかしかってぇー)
(氷月ちゃーん、ごめーーんミスしちゃったぁ)
(氷月ちゃあああーん!)
(あああ!!!やめてください!!!)
(ごっめーんん)
氷月の心情を、一言で表そう。
吐きそう。
氷月は、胃の底からせり上がるような嫌悪感を必死で飲み込んだ。
古く錆びついた骨董品に、メッキを重ねる瞬間を直視したような……そんな感覚。
「気持ち悪いです……」
「酷いなぁ!!!??」
両手を広げて見せた箱根のポーズが、一瞬でガタガタと崩れ去った。
「そんなぁ……」
その顔は冗談めかしたものではなく、本気で傷ついたように歪んでいる。
あからさまにショックを受けて肩を落とした。
彼なりに、全員の身を心から案じていたからこその落差だった。
「氷月、それは少し言い過ぎだよ……」
「そうだぜ?箱根さんも、俺たちの無事を喜んでくれているんだから」
後ろから続いて入ってきた天谷が、苦笑混じりの声を出しながら箱根の肩を軽く叩いた。
その眼差しには、留守を守り、自分たちを本気で心配してくれていた年長者への。
確かな敬意とフォローが含まれている。
「ほら、二人は分かってくれてるじゃん!?あぁ、もう、本当に心配したんだからなぁ!? なのに開口一番それってさぁ……ひどない?」
天谷に庇われたことで箱根は、少し元気を取り戻した。
今度こそいつもの頼りない調子に戻って、大袈裟に胸を撫で下ろす。
その一連のやり取りを見て、氷月は小さく息を吐き出す。
(……やっぱり、いつもの調子の方がマシね……ほんと気持ち悪い)
胃の底に溜まっていた生温かい違和感は、箱根がいつもの「駄目な大人」に戻ったことで霧散した。
「俺らの歓迎の準備はできてんだろ?」
「ふ、不動くぅん……勿論っすよ」
へこへことした動きを繰り返す。
うわ、めっちゃゴマすってるこの人。
不動さんに迷惑かけて自覚はあるんだと思った。
箱根は、珍妙な生き物へと変化していた。
「君たちが帰ってくるタイミングを見計らってさ……特上の寿司の出前、もう頼んじゃった。奮発したんだよ?」
「経費か?」
「自腹だよ!!?なんだとおもってんの!!?」
「残高は?」
「来月分の金かしてくんない?」
「ふざけんな……!?」
「ゆうまにそういうの期待しちゃだめだよ??」
「まぁ、いまぐらいはいいじゃん。あ、百合ちゃん五万かしてくれん?」
「えー?今月だけだよー?先月の分はー?」
そこには、年下の女性に金を借りる成人男性(哀れな)がいた。
これは、流石に直視できない。
直視するのもおぞましいクズだ。
特上寿司を奮発してくれた格好良さが、1秒ごとにボロ雑巾のように剥ぎ取られていく。
「やめましょ!!?百合さん!!」
「絵面が酷いです、箱根さん」
箱根は事務所の奥を親指で指し示した。
ローテーブルの上には、まだ温かいお茶の準備が整えられている。
「美味しそうっ……」
氷月の顔が、ぱぁと明るくなる。
箱根は、作戦がうまくいったとばかりにしたり顔をした。
「でしょう?」
「箱根さんの癖に凄いですね!」
「俺!!!一応上司!だからぁ!!!?」
食事の前に、伝えるべきことがある。
「……それで、箱根さん。日比野の件ですが」
久遠が、少し声を落として背後を促した。
久遠の影に隠れるようにして、やっとの思いで連れ帰ってきた「仲間」の姿がそこにあった。
異世界から救出されたその人物は、衣服こそ整えられている。
だが、魂をどこかに置き忘れてきたかのように虚ろな目で宙を見つめている。
激しい心身の負担に耐えかねたように、その身体は今もかすかに震えていた。
「ラブちゃん……」
その声は、か細く震えていた。
完全に茫然自失の状態だった。
ここに来るまで、ずっと同じ調子。
返答がまともに帰ってこない。
眼が虚ろで、どこをみているのかわからない。
「……あぁ」
出前の話をしていた箱根の顔から、一瞬で軽薄な色が消えた。
その瞳に、いつもの頼りなさはなかった。
状況の重さを瞬時に理解した年長者の鋭さが宿る。
「……お寿司は、後回しだね。まずは静かな部屋で休ませよう」
箱根は、即座に簡潔な指示を百合に出した。
「百合、奥のソファに毛布を用意してある。手伝ってくれ」
「うん。わかったよ」
「氷月ちゃん、日比野さんを運べるか」
「わかりました。歩ける?そのさん」
いつになく真剣で、静かで確かなトーンの指示だった。
氷月は返事をして、そっと日比野の震える肩に手を添えた。
それは、ダンジョンに囚われていた恐怖ではない。
その奥にあるのは、大切な存在を失ったという経験。
痛切なまでの喪失感だった。
箱根の指示で、日比野は事務所の奥にある簡易休憩室へと運び込まれた。
カーテンを閉め切った薄暗い部屋は、柔らかい間接照明だけが灯っている。
毛布を何枚も重ねたソファに、彼女の細い身体をゆっくりと横たえる。
「そのさん……ここはもう大丈夫だから……安心して眠ってね」
氷月がそっと声をかけても、日比野の瞳は暗さがあった。
ただ天井の一点を虚ろに見つめたまま、時折小さく唇が動く。
「……ごめん……ね……」
「……なにが?」
「……私が……悪いの……私が嫌いだっていったから……ラブちゃんは……」
その呟きを聞いた瞬間、部屋の空気が凍りついた。
「……んー、ちげぇよなぁ……」
天谷は居心地悪そうに頭を掻きむしり、視線を床に落とす。
それは、先ほどラブについて悪態をついたことも含まれているのだろう。
ラブという怪物を打倒した。
それは紛れもない事実であり、自分たちが生き残るための正義だったはず。
「……僕達が、ラブを……殺したのかな……」
でも、なぜここまでもどかしいのだろうか。
物語にあるような爽快感は、そこにはなかった。
ただ事実は、一人の人間を打倒したという事実。
そしてそれによって、日比野という人間が苦しんでいるということ。
「氷月ちゃん、百合。日比野さんのそばにいてあげて。今は、冷たい現実より……温かい誰かの気配がきっと必要だ」
「……はい」
氷月は小さく頷き、日比野の手を握りしめた。
それは、驚くほど冷え切った手だった。




