3話 新しい日常
その後、エリシアがお昼寝をしている間に、セリオンは街にある屋敷に連絡を取った。
赤ちゃんを養子にした事、乳母は必要ない事(エリシアが、セリオン特製のミルクを気に入ってくれたのだ)、専属侍女は候補を挙げておく事、部屋は一番陽のあたりのよく明るい部屋にする事、等々、指示は多岐にわたっていた。
他の仕事をこなしていると、すぐにセリオンの執務室の窓をするりと手紙がすり抜けて来た。
普段、沈着冷静な執事にしては珍しく慌てた様な文面で、家具の心配をしていた。
それもそうだろう、これまで女性の影もなかったセリオン。
婚約者はおろか、恋人も若い頃に数人いるだけで屋敷に女性の物など、ましてや幼子のものなどあるはずないのである。
必要な家具の手配はセリオンがする旨を書いて送り返すと、少しも待たない間に、『屋敷の使用人一同、心から楽しみにお二人のお帰りをお待ちしております!』と気合の入った一文が届いた。
「エリシア、こんな可愛い君を見たら屋敷のみんなは仕事にならないだろうね」
左腕で抱っこをしていたセリオンは、右手でエリシアの前髪をくるくると指に絡めた。細く柔らかな髪はすぐに指からはらりと落ちる。
「あー、あー」
「赤ちゃんの言葉が分かる魔法とか、あればいいのに」
ばぁっ! と、セリオンがあやすとエリシアは目を丸くした。
「君は赤ちゃんなのにくっきり二重の大きなお目々で、鼻筋は通っていて口は花の蕾のように可愛らしい。将来は間違いなく素敵なレディになるよ」
セリオンが小さな額や頬に軽いキスを落としていくと、エリシアは嬉しそうに笑っていた。
――昼過ぎ、セリオンの士長室はまたまた賑やかだった。
エリシアの為に外商を呼んだのだが、それをセリオンの部下の医療士達が見かけて、友人の騎士達と話している所にロデリックが参入。
『俺も行く!』という大声に気付いたセルシィが話を聞きつけて部屋にやって来た。
セリオンの呆れた様子なんてお構いなしに、セルシィは次々とエリシアの服を仕立て屋と決めている。
楽しみを横取りされたセリオンは、多少の悔しさを滲ませながらも、この先ずっとエリシアとこんな風に過ごせるのかと思うと、締まりなく緩む顔を隠せなかった。
外はもう冬だというのに、この部屋は火を入れずとも人の熱気でずっと暖かかった。
――三年後
モンヴェル医療伯邸では、毎日が嵐や台風の様に慌ただしかった。
パタパタと廊下を走る足音に、執事長であるグレイは足を止めて音の主に目をやった。
何かから逃げているのか、はたまた追いかけているのか。
キャアキャアとはしゃぎながら、音の主は目の前を走り抜けて行った。
今では背中あたりにまで伸びたストロベリーブロンドの髪が、ふわふわと風に靡いている。
くっきり二重は相変わらずで、それを縁取るまつ毛は量も長さも増してきた。
しかし誰もが予想外だったのが、少しずつ垂れ目になってきた事だ。
それによってさらに愛らしさを手に入れたエリシアは、屋敷内では無敵だった。
――侍女長のマリアンを除いて。
エリシアが我儘で、傲慢にならないのは、マリアンのお陰でもある。
もちろんセリオンもきちんと叱れる親を目指して、日々奮闘中だ。
心もきちんと成長したエリシア。
つい前までは、すぐに転んで泣き声が響いていたのに、今は転んでもグッと我慢して泣かない事が多い。
そんなちょっとした成長が、毎日とても楽しくて嬉しくて、本当は走ってはいけないと言わなければならないのに、グレイはついつい見逃してしまう。
それを以前、侍女長に叱られたばかりのグレイは、やはり声を掛けることが出来ずに後ろ姿を見送った。
「グレイ……貴方また見逃したわね?」
「……今はまだ、楽しく健やかに過ごしていただきたい」
「それは屋敷のみんな思ってるわよ」
執事長のグレイと侍女長のマリアンは、庭から聞こえる楽しげな笑い声に、目を合わせるとふっと微笑みあった。
「さあ、仕事仕事!」
マリアンはグレイの背中をバシッと叩くと、何十年と変わらない笑顔と姿勢で階段を降りていった。
グレイはその背と反対に、セリオンの執務室へと向かった。
重厚な扉を三度、控えめに叩く。
「入って」
「失礼致します」
部屋の主人であるセリオンは、窓枠に体を預けて外を眺めていた。
穏やかな眼差しは、愛しい娘を見ているのだろう。
その窓からは、エリシアが遊べるようにと設えられた、庭兼遊び場が見えるようになっている。
「お嬢様は日々何かが成長してらして、頼もしい限りでございます」
「ふふ、今日もマリアンに叱られてリヴィアの後ろに隠れていたよ」
エリシアの専属侍女であるリヴィア・クロムウェルは、男爵家の次女で当時十三歳だったが、誰よりもエリシアと相性が良かったので、悩む事なくすぐに決まった。
「さて、今日もエリシアとの散歩を楽しもうかな」
「薬草園の、ですね」
「楽しくて薬草も覚えられて一石二鳥じゃないか」
「そうでございますね」
「行ってくる」
暖かな陽気の中、走り回る我が子を捕まえて抱き上げると、太陽と草、そしてほんのり汗の匂いがした。
***
屋敷の敷地内にある薬草園は屋根の部分がドーム型で、ガラス張りになっている。
ここに初めてエリシアが来たとき、上を見過ぎてひっくり返ってしまったのは、今でも大人達の良い酒の友になっている。
魔法で温度管理がされた建物内は、一つは暑く、一つは寒く、そしてもう一つは人にとって心地よい温度に保たれた、三種の部屋に分かれている。
他にも日陰やら何やら色んな条件下の薬草があるが、それらは砦の方で育てられている。
そこを散歩がてら毎日一部屋巡るのが、二人にとって楽しい日課となっていた。
綺麗な花を咲かすものもあれば、とても臭い物まで様々で、それでもエリシアは足を止めることなく、目を輝かせて歩いていた。
そんなエリシアを見て、セリオンが誇らしげに、嬉しそうに、微笑むのも日課だ。
二人が今日の散歩に選んだのは、寒冷地の部屋。
この領地が既に寒冷地ではあるけれど、季節問わず育てるにはやはり、人の手を入れなければならない。
セリオンは寒さから守る様に、エリシアに防寒のベール魔法をかけると、入ってすぐにある、赤い花を付けた薬草の前にしゃがみ込んだ。
「エリシア、この薬草は何だったか覚えているかい?」
「どくー!」
「そうだよ、偉いね。解毒薬の素地となる薬草だ。名前は分かるかな?」
エリシアは記憶の奥を探るように唸っている。小さな手を口元に当てるのは、彼女が考える時の癖だ。
エリシアが、悔しそうに小さく呟いた。
「……わしゅれた」
「マイル草だよ」
「……まいるしょう」
エリシアは赤い花を付けた薬草に顔を近づけて食い入る様に見つめていた。
時折小さな口をもごもごと動かして、薬草の名を繰り返し呟いている。
エリシアはいつの間にかハッキリと自我が芽生え、物事に興味や執着なども出て来た。
セリオンは今でこそこうやって薬草の名前や薬効を教えてはいるが、初めから強制したわけでは決してない。
別に興味を示さなければそれはそれで良いとすら思っていたのだが、幸運な事にエリシアは何よりもセリオンのする事に一々興味を示した。
もちろん他の女の子の様に可愛いものも好きで、一時期はリボンにハマっていた。
ある時、セリオンがいつも調合している薬草を見つけたエリシアは、その葉の根元にお気に入りのリボンを付けてセリオンにプレゼントした。
いつも持っていて、セリオンが好きなものだと思ったから。
それを貰った時のセリオンは、喜びに震えた。エリシアを潰さない様に抱き締めるのに注意が必要だったし、ぐるぐると回しすぎて「やー!」と怒られた。
そしてすぐさまその薬草に状態保存の魔法をかけた。
もちろんリボンも解けない様に、しっかりと。
不器用なエリシアがつけたリボンは歪んでいたけれど、それすら愛おしくてその日は一日中、医療士棟の仲間達に自慢した。
そして毎日胸飾りとして身につけていたが、今はガラスのケースに入れて執務室の机に飾ってある。
つねに薬草の周りにキラキラと銀の粒が舞っていて、とても薬草には見えない。
「おとーさまー! エルこれ分かるよ! ニャギ草! しょうどく!」
名前が上手く言えないエリシアは、いつも“エル”と言っている。
こちらに振り向いて目を輝かせたエリシアは、自信に満ち溢れていた。
今まさに思い出していた薬草だった事もあって、セリオンの空色の瞳にじわりと涙が滲んだ。
「おとーさま? だいじょぶ? 痛いの?」
「……あぁ、大丈夫だよ。エリシアがくれたナギ草のプレゼントを思い出したんだ」
両手で包む様に頬を撫でると、エリシアはニコニコと嬉しそうに笑った。
「おとーさまのお仕事の机の上! 銀の雪!」
「あはは、銀の雪か、確かにそうも見えるね」
セリオンはそっとエリシアを抱き上げると、腕を伸ばして高く掲げた。
「さあ、空を飛ぶように帰ろう!」
「わーい! 飛んでる〜!」
セリオンは高く掲げたエリシアの重さに成長を感じて、胸が締め付けられていた。
「エリシア」
「なぁに?」
「……ゆっくりでいいからね?」
「わかった〜!」
何もわかってない、分かったが可愛くて、セリオンは笑ってしまった。
――急がなくていい、ゆっくり大人になって欲しい。
セリオンはエリシアにミルクを与えていた時からずっとそう願っていた。




