菜々サイド 私は『エリシア』
赤ちゃんは寝るのが仕事って、本当なんだって今更ながら実感した。
甘いミルクは程よい温かさで、体もポカポカしてすぐに眠くなる。
でも眠いのに、ゲップが出ないからと寝かせてもらえない時があって、その時はもう大丈夫よ! って大きな声で叫びたくなる。
少しずつ声の出し方も分かってきて、あうあう話せる様になった。
笑うのはもう本能に任せてる。
――私、完全に赤ちゃんに引っ張られてる。
だけど、それが妙に心地良くて、幸せで、嬉しくて、ついニコニコしてしまう。
それはきっとあのハーブの香りのする温もりを持つ人のおかげだと思う。
まだ目がハッキリと見えないのがもどかしいけど、とても綺麗な空色の瞳だと思った。
ずっと、見ていると空の中を飛んでる気分になる。これはもう赤ちゃん独特の感覚なのかな。
もっと私を見ていて欲しい。
時系列なんてもう分からないけど、ふと目を覚ました時、綺麗な紫が目に入った。
あまりにも綺麗で、触りたくて手を伸ばしたけど無理だった。
代わりに何か楽しそうな音が聞こえてそっちに意識が持って行かれた。
すぐに眠くなるし、思ったように動けないしで、ジタバタしてると、体がふわりと浮き上がった。
あ、抱っこだ。
嬉しい。
好き。
この匂いはハーブのあの人。
心地良くてごろごろしてると、優しい声が降ってきた。
『エリシア』
全身に電気が走ったか、鳥肌がたったみたいなそんな感覚が私を包んだ。
エリシア……“私”に向けられたその名前が、心にじゅわ〜っと染み込んでいく。
それは私の名前?
『そうだよ、君は“エリシア”だ』
そう聞こえた気がした。
やっぱり“私”の名前だ!
気持ちが昂ってるのに、何故か手が気になって舐めてしまう。
あ、この感覚で自分の手を認識してるみたい。
そこからまた色んなものに気がいってるうちに、青い人みたいなのが視界に入り込んできた。
何か、おでこに指が置かれてくすぐったいなと思っていたら、周りが銀色の光に包まれた。
びっくりして、足までバタバタさせてしまう。
助けて! と思ったのも束の間、すぐに何だか気持ちよくなってきた。
そして――
私の中の全てが、ズンッ! と、この世界に楔を打たれたような――それか、魂とかそんなものを縫い付けられたような感覚になって一気に目が覚めた。
……何となくだけど、『何者でもなかった私』が、今。
たった今この世界の『エリシア』になったんだと、思った。
『菜々』だった自分は、エリシアに優しく包み込まれた。
消えてしまうわけじゃない。
でも、きっともう前と同じでもない。
……もしかしたら記憶も少しずつ薄れていくかもしれない。
そう思ったら、体中から涙が溢れ出すみたいに、止まらなくなった。
嬉しくて、嬉しくて。
一人だった菜々でなくなることが?
――違う、と心が言う。
きっと大きな声で泣いてる。
涙でもう何も見えなかった。
だけど、幸せな涙が心地良くて。
そうだね。
嬉しいね。
新しい命が誰かに大切にされている事が、本当に嬉しくて、ずっと欲しかったもので――
どれだけ安心する腕の中でも、この涙だけは止められなかった。
これは“菜々”の涙だから。
“エリシア”になった“菜々”が初めて泣いた日だった。




