2話 エリシア誕生
夜明けと共に大人しくなった魔獣達を追い払って、部隊は前線から早々に砦へと帰ってきていた。
魔獣達が棲む森から辺境伯領を守るように建てられた、大きく長い砦。
赤ん坊が現れたのは、前線駐屯地と森の間に広がる平原の、やや森寄り――普段は戦場となる場所だった。
夜になると何の因果か魔獣は凶暴になる。
毎夜戦闘になるわけではないが、一日空けることなく夜間巡回は行われていた。
その戦闘の最中に赤ん坊が現れて、驚くなという方が無理な話ではある。
しかしそんな血生臭い場所から無事保護された赤ん坊は、医療伯のセリオンの元、元気に朝を迎え、顔色も良くご機嫌だった。
セリオン達は夜明けと共に神殿に手紙を飛ばし、神官の訪問を要請していた。
神殿は融通が効かない、といった話はよく聞くけれど、ここの神殿は全くその限りではない。
元々神殿とこの辺境伯領自体、仲は良好なので、直ぐに応じる返事が返ってきた。
この時ほど、医療貢献をしておいて良かったと思った事はなかった。
そして砦内の上層にあるセリオンの士長室には、朝も早くから“騎士団長ロデリック”と神官。
加えて、昨日前線に居たのにも関わらず、直ぐに知らせてもらえず拗ねていた、“魔法師団長セルシィ”が揃って赤ん坊を囲んでいた。
「はぁ〜可愛い! 何で昨日教えてくれなかったの! 本っ当に腹が立つわ!」
長い紫の髪を頭の上で一つに束ねた女性――魔法士団長セルシィ――は、赤ん坊が眠るベッドの脇に両肘をついてニコニコと眺めていた。
眠っていた赤ん坊の目が、ゆっくりと開いた事に気付いたセルシィは、誘われる様にそっと頭を撫でた。
金色に少し赤が入っているような、薄いふわっふわの髪が、セルシィの手をくすぐる度、彼女の顔はふにゃふにゃと緩みきっていく。
セルシィの撫でる手が止まらない。
腕に付けた幾つもの細い腕輪が、シャラシャラと、音を奏でる。
その綺麗で澄んだ音に導かれた大きな目が、音の正体を探してゆっくりきょろきょろと動いた。
昨日はそこまで分からなかったが、明るい部屋の中では、若草色の瞳がハッキリと見えた。
「……綺麗な瞳ね」
小さな手をゆっくり動かしながら、あくびをした赤ん坊に、セルシィは心をぎゅーっと掴まれた。
「……っはー! 赤ちゃんはその存在だけで勝ち!」
「そうだ! 赤ん坊は正義だ!」
と、少し後ろからロデリックが昨日と同じ台詞を口にした。
うるさい男を一瞥して、頬を優しく包み込むセルシィの腕に、ようやく音の正体を見つけた赤ん坊の目が、じっと腕輪を見つめていた。
「あら、見つけられたのね。ほらほら〜」
音が鳴る様に腕を動かすセルシィに、これは終わらないなと、判断したセリオンとロデリックが流石に声を掛けた。
「セルシィ、この子が可愛いのは間違いないけど、先にする事しないとね?」
「そうだぞ、それにお前の性格が移ってしま――」
ロデリックはセルシィから口封じの呪文を掛けられて、それ以上話せなくなった。
「脳筋お花畑男は黙ってろ」
「……!」
ロデリックは、何とも言えない視線をセルシィに向けると、大人しく黙る事にした。
セルシィは、セリオンやロデリックが出会った頃から今の見た目で、何一つ変わってないどころか、何となく若返っている気もしていた。
今や二十代にも見える。
触らぬ魔女に、呪文無しだ。
もぞもぞするロデリックの隣にいた神官が、そっとセルシィの呪文を外してあげた。
もちろんセルシィは神官を睨んだが、「無垢な赤ん坊の前ですよ?」と柔らかな神官の発言によって、セルシィは矛を収めた。
気配を消していたかのように、後ろからそっと見守っていた神官が、赤ん坊のベッドの前に歩み出た。
柔らかな笑みを絶やさずゆっくりした動作で赤ん坊に近づき、そっと声をかけた。
「おはようございます、可愛い子。今から少しあなたの事を視ますね。痛い事は無いので安心して下さい」
「あ、うあ」と声を出す赤ん坊。
その声ににこりと微笑みかける神官。
ゆっくりと右手をかざした。
小さな全身を包む様に水色の光が放たれる。
五分程だろうか。
それでもいつも掛ける時間の倍以上を費やして神官は、赤ん坊を“視て”いた。
(刻印はやはり無し。おや、この世界ではあまり見ない魂の色ですね……魔力は問題なくありますが……まぁ、色なんて関係ないですね)
神官の手から光が消えていく。
「刻印はありませんでした。それどころかこの子の血縁はこの世界には居ないと思われます」
夜明け前の仮説が真実味を帯びてきて、セリオンは逆に腑に落ちたような気分だった。
セルシィも、ロデリックでさえも、何となく分かっていたのか、特に驚いた気配はなかった。
セルシィの博識は分かるが、ロデリックは野生の勘だろうか。
「しかしこの子自身、何も問題はありませんし、健康そのものでとても綺麗な魂をお持ちでしたよ。私としましては、今日このままこの子を孤児院へ連れて行く準備も出来ていますが」
そう神官が話した時、ロデリックが慌てて口を開いた。
慌てすぎて、足を近くにあった机にぶつけた。
大きな音が出て、赤ん坊が少しビクリとしていた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ! この子を孤児院に任せるのは少し忍びない」
「あら、孤児院はきちんとした所よ。私も孤児院出身だもの」
「分かってる、孤児院を否定してる訳じゃないんだ。ただ……情が湧いてしまって……」
「ロデリック……、あなたそんな犬や猫じゃあるまいし、感情だけで物事を考えるもんじゃないわよ。だから脳筋なのよ」
呆れた様に言い放つセルシィに、ロデリックは尚も食い下がろうとして、セリオンが止めた。
「神官、この子は私が養子として引き取るよ。構わないよね?」
「正式に手続きをされるなら何も問題はありませんよ。最初からそのつもりだったのでしょう?」
「「セリオン!?」」
慌てた声が重なった。
「どういう事? 貴方まで情だけでそんな判断を――」
「いや……なんだろうね。理屈じゃないんだ。この子を見た時に、私はなぜか涙が出そうになったんだよ」
「…………」
セルシィは黙って聞いていた。
「この子がこの世界に血縁がないって聞いて、なぜか妙に納得したよ。この子はここに“来るべくして来た”んじゃないかって」
「……なんの迷いもなく“来た”って言うのね」
「うん。そんな気はしてたんだ。だってあり得ないだろう? 戦場に生まれたての赤ん坊を置き去りにするなんて」
セリオンはゆっくりと赤ん坊に目を向けた。あうあうと、言葉にならない声を小さく出している姿に、胸が熱くなる。
「私はこの子に会うために、ここにいたんじゃないかって思ったんだ。この子にとってはそうじゃないとしてもね」
セルシィはまるでセリオンの真意を探るかのように、目の奥深くをじっと見つめた。
セリオンはもう、心を決めていた。
その瞳は穏やかで揺れはない。
全ての覚悟を背負う強さがセリオンにはあった。
セルシィは、ふっと笑って両手のひらをセリオンに向けた。
降参だ。
「この子にとっても、そうであればいいわね」
セリオンはセルシィに微笑むと、ベッドの横に立ち、赤ん坊を見つめた。
それだけで頬が緩んで、目尻が下がる。
赤ん坊はセリオンに気付いたのか、じっと若草色の瞳で見つめ返した。
――そして初めて笑顔を見せた。
「おい、笑ったぞ!」
「かーわーいいー!」
ロデリックが大股で近寄って、セルシィはその場でジタジタと体を揺らした。
セリオンはもちろん心を射抜かれて、息も絶え絶えにベッドに手をついていた。
「おやおや、砦の長達が揃いも揃って骨抜きですねぇ。この子もモンヴェル伯が好きな様ですし、養子縁組をしてしまいましょうか」
「……うん、頼んだよ」
セリオンは愛しい我が子になる赤ん坊から、もう目が離せなくなり、そっと手を伸ばして抱き上げた。
その小さな体の温もりに、自然と笑みが零れて、じわりと涙まで滲んだ。
「名前はもう考えているのですか?」
「うん」
セリオンは頷くと腕の中であうあうと、おしゃべりしている赤ん坊に、微笑みかけた。
「エリシア」
「う〜、あー」
「そうだよ、君は“エリシア”だ」
「それってどういう意味だっけ。聞いた事あるのに忘れちゃった」
「……遠い国の言葉で“若葉”って意味だよ。瞳の色に魅せられたんだ」
小さな拳を舐めるエリシアは、セリオンを目で追いかけていた。
若草色の瞳は、まだ全てをはっきりと映してはいないだろう。
それでもその澄んだ瞳に見つめられると、心の奥底まで覗かれている様だった。
セリオンはひとまずエリシアをベッドに寝かせると、(その後直ぐにセルシィが抱き上げてしまったが)神官と養子縁組に必要な書類にサインをしていった。
机の上で羽ペンだけがサラサラと動く様を、エリシアはめざとく見つけたのか、凝視している。
「ハハッ! エリシアは、オモチャと勘違いしてるのかもな!」
ロデリックが笑い声を上げると、エリシアがまたも、ビクリと体を震わせた。
ロデリックの普段の声量は普通の人が声を張り上げたくらいの大きさで、非常によく通る。
赤ちゃんであるエリシアには、大きすぎた様で、セルシィが蛇の様に睨んだ。
「わ、悪いエリシア! 俺は怖くないぞ〜?」
「あう、あ、うあー」
「近寄るなって言ってるわ」
「絶対言ってないだろう!」
書類を全て書き終えて封蝋をすると、封筒はそのまま神殿へパタパタと飛んでいった。
然るべき部署へ自分で向かったのだ。
「ではでは、刻印をしましょうね。エリシア、怖くないですよ〜」
神官はあやしながらそっとエリシアに近寄ると、額に中指をちょん、と押し当てた。
途端に銀色の光が眩くエリシアを包み込む。眩しいのか、目をしぱしぱとさせていて、光に溺れているように見えた。
「私はこの光がとても好きなんですよ。神々の祝福の様でしょう?」
うっとりと語る神官。
三人は、空を掴むかの様に手をゆっくり動かすエリシアに、釘付けだった。
若草色の瞳は銀色の光を受けていて、オーロラのように色を変える。
まだ生え揃っていない髪も、触れると消えそうなほど柔らかに煌めいていて、見ていると自然と感嘆の吐息が溢れた。
やがて周囲の空気がほんのり震えると、光が穏やかに収束して額に紋がうっすら浮かび上がった。
――その瞬間
今まで泣いた事がなかったエリシアが、急に大きな声で泣き始めた。
セリオンはどこかホッとしてエリシアを抱き上げた。泣かない事がどこかで不安だった。
体全体を使って泣くエリシアの声は、広い士長室に響き渡ったが、誰もそれをうるさいとは思わなかった。
ロデリックが一緒になって「うぉぉぉ……!」と、泣き始めた時は、セルシィが全力でうるさいと睨みつけていたが。
この時のエリシアは、セリオン達がどんなにあやしても、暫くの間泣き続けたのだった。
無事エリシアは『セリオン・モンヴェル』の子として刻印され――この日をもってこの世界に『エリシア・モンヴェル』が誕生した。




