34話 月の騎士
空は群青色から橙色へと移ろい、白やピンクの薄いヴェールがゆるやかに広がっていた。
朝露をまとった中庭の草木が、短い夏の始まりにきらりと光っている。
いつもの朝を告げる鐘が響く頃、同じようで、同じではない――砦の一日が、また始まる。
夏の気配は、砦の中にも訪れていた。
白衣の袖が半袖になり、エリシア達見習いも、エプロンの下シャツは半袖である。
成人を来年に控えたエリシア達三人は、見習いの卒業試験や、さらに医療士試験への勉強、論文のために図書室に通い始めていた。
本来は余裕を持って春先から準備を進めるらしい。
しかし、何せ三人はよくトラブルに見舞われるので、その度、先輩医療士の誰もが説明を忘れていたのだ。
流石にもう、誰かが教えているだろう。
またもやその厄介な思い込みによって、三人は追い込まれる羽目になった。
その事に気付いたきっかけは、魔法士見習いで友人のユーリの一言だった。
三人が、治療室の補助をしている時にたまたまやってきたユーリが、「医療士の試験って難しそうだよね、あたしの従兄弟も王都で受けるって言ってた。じゃあ頑張ってね〜」と、言ったのだ。
そしてその台詞に対して、三人がポカンとしているのを見た医療士達が、持っているものを落とす勢いで焦り始めたのだった。
そこからアランの元へすごい早さで連れて行かれたのだが、その道中はずっと謝られていた。
エリシア達は、これは何かまずい事なのかもしれないと、緊張の面持ちでアランの元へ行くと、予想に反して彼は「想定内だよ」と笑っていた。
そしてアランは三人に、見習い卒業試験が秋の終わりにある事。
医療士試験が冬の半ばに神殿で実施される事を教えた。
そんなこんなで三人は、午後は見習いの仕事を免除され勉強漬けになったのだった。
「難しい事は何もないよ。今まで蓄積してきた知識と技術を思う存分発揮してくれたら、卒業は出来るからさ。あとは医療士試験だけど――」
今日はアランが、三人に教えていた。
日によって誰もいない時もあるが、みんな時間を見つけては、エリシア達に試験の手解きをして応援してくれていた。
「――勉強あるのみ、かな」
「「「…………」」」
アランは、昨年度改定版の医療規約を三人に一冊ずつ手渡すと、「じゃあ、頑張ってね〜。わからなかったらまた言ってね」と、眩しい笑顔で図書室を出て行った。
エリシアは、医療規約を手に取って、パラパラとめくった。
医療規約――エリシアにとっては、幼い頃セリオンから毎晩聞いていた寝物語だった。
それがいつの間にか、年齢にあった本に変わっていたのだが、きっとマリアンに叱られたのだろうと、エリシアは踏んでいる。
(あ、ここやっぱり去年のと違う。もー、ころころ変えないでほしいなぁ……ごっちゃになっちゃう)
「では、セドリス・ハルデン。第三条は何でしょう!」
「は!? えー……治癒魔法の使用制限、だったはず」
エリシアはパンと、両手をあわせた。
「こ・た・え・は――あったりー!」
それと共に赤、白、ピンク、といった輝く紙吹雪が、セドリスを彩るように上から舞い始めた。
「おい、紙吹雪出すなって! 無駄に演出凝らせるなよ」
セドリスはそう言いながらも、上を向いたり横を向いたり、舞い落ちる紙吹雪を少しだけ楽しそうに目で追っていた。
ひらひらと舞いながら消えていく紙吹雪の魔法は、エリシアが幼い頃に侍女のリヴィアが教えてくれたお気に入りだった。
「可愛いし、楽しいでしょ?」
「私にもやって〜!」
アミルがウキウキしながらエリシアに向かって座り直した。
背筋を伸ばして、問題待ちである。
「ゴホン。では、アミル『第三条の治癒魔法の使用を禁ずる、または慎重に行うこと』の内容を最低三個あげてください」
「え、何か難し……えーと」
アミルは右手の人差し指を立てて、くいくいと動かし始めた。
これはアミルの考え中の癖で、エリシアとセドリスはつい笑ってしまうのだ。
「動いてる……動いてますよ、セドリスさん!」
「やめろ、茶化すなって! ふは」
「ちょっと二人ともやめてよ〜、集中出来ないじゃない」
「「ごめんごめん」」
くいくいが止まったアミルに、睨まれてエリシアとセドリスは口を押さえた。
少し考えたアミルは、「はい!」と、手を挙げた。
「はい、ではアミル。どうぞ」
「神経系・精神系の異常、原因不明の毒物・呪い、えっと……あれ、何だっけ、あ! 魔獣由来の症状で反応が不明な場合、です!」
「こ・た・え・は――これまたあったりー!」
エリシアは、パンと手を合わせて、さっきよりも多めに紙吹雪を飛ばした。
色味は、黄色や橙、緑を中心にした。
白は必ず入れる。
アミルが嬉しそうに、両手で受けては、すぐに消える紙吹雪を楽しんだ。
セドリスが自分の本を見始めた。
そして。
「エリシア・モンヴェル。第五条は何についてか答えなさい」
「お、乗ってきましたね! では、えー」
エリシアは右手を軽く握ると、人差し指の第二関節を口元にぴたりとくっつけた。
これがエリシアの考える時の癖で、実はセドリスだけが癖なしだった。
「ふふ、エルシーだって考えてるのすぐわかるよ」
「人の事言えないよな」
「そこうるさ〜い! はい、先生、答えます」
「どうぞ」
「毒物・魔獣由来症状の報告義務、です」
「はい。じゃあ内容もよろしく」
「えぇー! もう……『未知の毒物、魔獣由来の症状、または原因不明の異常が確認された場合、え〜と、速やかに士長へ報告し、研究室へサンプルを提出すること』です」
セドリスは何も言わずに、「長いよ!」と文句を言うエリシアの頭から、紙吹雪を降らせた。
白や、銀、青、水色がひらひらと舞って消えていく。
「わぁ……! 綺麗!」
両手で受け止めるように手を差し出したエリシアは、銀色に青色が少し重なった時、大きな月に重なるように現れた騎士を思い出した。
重たい時間が流れていた、あの日の夜中。
中庭のベンチで出会った騎士――
あの日の翌日、エリシアは上着を返しに騎士棟に向かった。
名前を知らないのでどうしようかと思っていたら、ちょうど騎士見習いの知り合いが通りかかってエリシアに声をかけた。
左目の下にほくろが二つある騎士を探している事を話すと、訓練場まで連れて行ってもらえた。
そこではたくさんの騎士達が剣や魔法を使って訓練していた。
そして、探していた騎士を見つけたのだが――
「あちゃー、団長に捕まってるわ。あれ長いから待たない方がいいぞ。伝えとこうか?」
エリシアは散々悩んで、お礼の手紙をささっと書いて上着を入れた包みに、小さな贈り物と共に差し込んだ。
「じゃあこれ……お願いできる?」
「任せとけ。あ、そうそう、あの人。名前は――」
エリシアは咄嗟に両手で、知り合いの口を塞いだ。
「むぐぐぐ」
「あ、ごめん! 名前はまた……本人に教えてもらうから、大丈夫。ありがとうね」
「ん、わかった! んじゃな!」
「ばいばい」
――と、いうことがあったのだ。
「エルシー?」
セドリスの声に、ハッと我に帰ったエリシア。
「あ……ごめん。何かぼーっと思い出してた」
「ちょっと休憩するか」
「食堂でお茶しよう〜」
「いいね、行こう。甘いもの食べたい」
エリシアは甘い物でいっぱいで、騎士の事はすでに頭から消えていた。
だから、食堂で出会った時はとても驚いた。
「あ、トラブル三人組。今回は試験の話を忘れられてたんだって?」
数人の騎士達と、テーブルを囲んでいた月の騎士が、ひらひらとエリシア達に手を振っていた。
“月の騎士”と言うのは、エリシアは名前を知らないので、この前の中庭以来、脳内で使っているあだ名である。
「あ、こんにちは〜」
「こんにちは、色々助けてくれた方ですよね。その節はありがとうございました」
アミルとセドリスがそれぞれ挨拶をすると、月の騎士が笑った。
「十四歳が『その節は』なんて、硬すぎ」
「はぁ」
「こんにちは。こんな時間にお昼なんですか?」
エリシアが挨拶も兼ねて話しかけた。
今は昼をとうに過ぎている。
軽食ではなく、がっつり食べているところを見ると、昼食扱いなのだろう。
こんがり焼かれたお肉や、ソースが掛かったマッシュポテト。
数種類の豆が大皿に載っていた形跡があるものの、殆ど残っていない。美味しそうな匂いだけが漂っていた。
そして、そのエリシアの問いかけに答えたのは別の騎士だった。
柔らかな茶色の髪を後ろにサラッと流している。
「聞いてよ。俺たち二年目なのに、こいつだけ団長に直接鍛えて貰ってるんだよ。しかも時間押しまくるし」
お水のグラスを持っていた月の騎士に、肘をドンとくらわせた。
エリシアがやられたら、体ごと横に倒れそうなのに、それでも水を溢さず平然としているのは、さすがの体幹の差なのか。
でも揃って食事しているのを見る限り、何だかんだ待っていてあげたのだろう。
「ゆっくり食べて下さいねー、早食いは消化に悪いから」
エリシアは笑いながら「じゃあ」と、頭を下げた。
アミルもセドリスも頭を下げて空いた席へと向かい始めて、エリシアもその後を追う。
そして月の騎士の後ろを通り過ぎかけた時、そっと彼の指先がエリシアの腕に触れた。
掠る程度の指先でもエリシアは気付いて振り返ると、月の騎士が「回復薬ありがとな、あれすごく効いたわ」と、ニッと笑った。
そして何事もなかったかのように、騎士達の話の輪へ戻って行った。
エリシアは間に合わなかった返事を飲み込み、固まった体を何とか動かしてセドリス達の待つ席へと座った。
向かいに座ったセドリスがエリシアの顔を見て、目を丸くした。
「エルシーどうした、暑いか?」
「え? 大丈夫だよ?」
「そうか。熱は……ないな。ただ少し脈が早くて、頬が赤い」
セドリスはエリシアの手首に指を当てて、魔力を流した。
「え、本当?」
エリシアが自分の首筋に触れた。
「本当だー。嫌だな、薬作っておこうかな」
「あ、私今持ってるよ」
アミルがエプロンからポーチを取り出して、お手製の白い包みの薬を手渡した。
「ありがとう! もう飲んじゃおう」
「何事も早めがいいよね」
「予防になるからな」
もし今この場に、レオニールや、他の誰かが居れば、話はもっと違う方向へ向かったかもしれない。
しかし、この三人組は純粋培養で育っている。
エリシアの頬が別の理由で赤くなっているなんて、思いつきもしなかった。
それはエリシア本人も同じで、この日は寝る前にも回復薬を飲み、早めにベッドへ潜り込んだ。
エリシアがそれを風邪ではないと知るのは――もっとずっと、後の話。




