月
――ほんの少し時は遡り。
エリシアは廊下の窓から空を見上げた。
こんな時間まで砦に残っているのは初めてなので、きっと普段ならワクワクしていただろう。
けれど、今はそういう気分にはなれなかった。
木の影から見える月を横目に小さなため息を吐くと、病室への廊下を一人急いだ。
セドリス、アミルと夕方の鐘で別れたエリシアは、屋敷に帰る気にもなれなくて、食堂で医学書を読みながらぼんやりとセリオンのことを考えていた。
父は今回のことでかなり参っているはずだ。
エリシアは心配でたまらず、開いたままの医学書に突っ伏した。
その時、他の医療士がエリシアをたまたま見つけて、騎士達が目覚めたことを教えてくれた。
エリシアは、すぐに席を立った。
行ってどうするかなんて考えてはいなかった。ただ、いても立ってもいられなくて、衝動的に食堂を飛び出していた。
エリシアが病室の近くに来たところで、中から騎士達の笑い声が、廊下にまで広がっていた。
――楽しそうに、笑っている。
それだけで、泣きそうになったエリシアは、次に聞こえた声に身を固くした。
セリオンの、かすかに震える声だった。
何を話しているのかまでは聞き取れなかった。
けれど、それ以上聞いてはいけない気がして、エリシアは足音を立てないように踵を返した。
気付けばぼんやりと、中庭のどこかに置かれたベンチに膝を立てて座って、じっと、大きな月を眺めていた。
エリシアの中で、セリオンはいつも完璧で、自慢の父親だった。
それは今も変わらない。
そしてきっと、どれだけ時が経ってもそれは変わらない。
今回の件で、エリシアは自分でもよく分からない、説明出来ない気持ちを抱えていた。
「……月、綺麗だな」
少し肌寒くなって、自分がまだエプロンを付けたままだと今更気付いた。
冷たくなった体を抱き締めるように、膝をぎゅっと抱えた。
(……冷たいな)
その時、土を踏む靴音がすぐ近くで聞こえた。
「やっぱり見習いさんだ。こんな時間まで何してんの?」
月を見上げていたエリシアの視界に、アッシュブルーの髪をした騎士が入り込んだ。
エリシアが驚いて固まっていると、騎士は何故か横に座った。
(……え、座るの!?)
座った拍子にベンチがわずかに揺れて、エリシアの右肩がトンと触れた。
途端、エリシアの鼓動もトン、と跳ねた。
「あ、ごめん」
「……あ、こちら、こそ」
「はいこれ。羽織ったら? なんか寒そう」
騎士は返事を待たずに、今まで着ていた上着をエリシアの肩に掛けた。
ずしりとした重さが新鮮で、エリシアは、思わず上着に触れた。
残っていた騎士の温もりが、エリシアの冷えた心をほぐしていく。
――きっと普段なら大丈夫だと、断っていた。
でも今のエリシアには、“名前も知らない誰か”がちょうど良かった。ほんの少し肩の力を抜いてもいいような気がした。
「……ありがとう」
「どーいたしましてー」
騎士は腕を頭の後ろで組むと、夜空を見上げるように背もたれにもたれた。
そしてゆったりと、足を組んだ。
細身なのにしっかりした肩や腕は、やっぱり騎士なんだなぁと、まじまじと眺めてしまう。
普段接する医療士達とは、やっぱり違う。
すると騎士がちらりと視線をエリシアに投げた。
「で、どした医療士見習い。へこんでんね」
(……やっぱり私。今、へこんでるのかなぁ?)
「……どうでしょうか……よく分からなくて」
「はは、何だそれ」
騎士は月に目をやった。
「お、明日くらい満月かな。魔獣が騒ぐだろうなー」
「魔獣は……満月の時が一番騒がしいって父が言ってました」
「うん。確かに鬱陶しいくらい目がギラギラしてる」
エリシアも月を見ているので、隣の騎士の表情は分からない。
それでも、微笑んでいるように感じるのは、空気が穏やかで優しい声音だからだろうか。
エリシアの口から自然と言葉が流れ出た。
「……ごめんなさい。今回、大事なお仲間の治療が……遅れてしまって」
「あー、はは。獣みたいでさすがに焦った」
隣の騎士は、軽く声を上げて笑った。
どんな顔をして笑っているのか気になって、エリシアは月から視線を外し、そっと彼を見た。
彼の視線は上空の月に向けられたまま。
どこか楽しそうに微笑む横顔が、月明かりに照らされている。
「あ」
左目の斜め下あたりに、泣きぼくろが二つ並んでいる。
その珍しさに負けて、不躾にも思わず声が出てしまった。
「ん?」
「ぁあ! ごめんなさい、思わず!」
「ほくろ?」
エリシアはただ頷いた。
そう言えば――何度か言葉を交わしたけれど、この騎士の顔をじっくり見たのは、これが初めてかもしれない。
月明かりに照らされた横顔は、派手ではないのに目を引いた。
(お父様とは違うけど……整った顔立ちだな)
派手な華やかさはない。それでも、目鼻立ちの一つ一つが不思議なくらい綺麗に収まっている。
月のように凛としていて、気づけば目で追ってしまうような人だった。
「なんか……見過ぎじゃない?」
「あ! ごめんなさい、つい!」
「いーけど」と、軽く笑う騎士から慌てて目を逸らしたエリシアは、また月を見上げた。
明日が満月かもしれないなんて、気にも留めずにただ見ていた月は、一人で見ていた時よりなぜか輝いて見えた。
静かな時間が少し流れた。
木の葉が揺れる音だけが聞こえた。
俯いて、立てたままの膝に額を乗せると、エリシアの口から感情のままに言葉が溢れ出た。
「何か、色んなことが少しずつ怖くて、ショックで……どれがとか、何でかとか、もう頭の中でぐちゃぐちゃになっちゃって……うまく考えられなくて」
騎士は小さく唸った。
「理由求めんのって、しんどくない?」
「……え?」
「感情の理由なんて、後から分かるもんじゃない? 今分かんないなら、そのままでいいと思うけど」
そんなふうに考えたことはなかった。
エリシアは、頭を膝に預けたまま、少しだけ横を向いた。
「……私、頭、硬いんですかね?」
「あんた達の同期って、みんなそんな感じじゃない? 真面目すぎ。もうちょい力抜いてもいいと思うけど。今しか出来ないバカなこと、したりとかさ」
エリシアは、昨日の見習い達を思い出すとくすくす笑った。
「転移魔法、試すとか?」
ハハっと笑った騎士は、エリシアに向き直った。
騎士の左腕が背もたれに乗せられて、一気に近くなった距離に、エリシアは不思議と身構えなかった。
彼の瞳がはっきり見えた。
――深い青色の瞳。
「巻き込まれたんだよな。うちのバカがごめん。あれはさすがに、ちょっとじゃ済まないから」
そう言いながらも、騎士の切れ長の目がスッと細められて、きっと騎士見習い達のことを思っているのだろう。そう感じるほど、優しい目だった。
「さ、じゃ行くわ。風邪引く前に早く戻れよー」
騎士はしなやかに立ち上がると、騎士棟へと体を向けた。
エリシアは、何故か一瞬その背に手を伸ばしかけ、はっとして止めると、慌てて声をかけた。
「あ、あの、これ!」
「あぁ――それ? 次、会った時でいいよ。替えがあるから」
振り返った騎士はそう言って笑うと、右手を挙げてひらひらと手を振った。
背を向けた彼の姿は吸い込まれるように、騎士棟へ消えた。
エリシアは自分の温もりが移った上着を手にしたまま、呆けたように座っていた。
立てたままだった膝は、いつの間にか地に足をつけていた。
エリシアの心は、不思議と軽くなっていた。
「一人じゃなくて、“誰か”と月を眺めたからかなぁ」
ベンチから立ち上がると、もう一度、月を仰いでから歩き出した。
更衣室への道すがら、エリシアは疑う事なく、月光の力はやっぱりすごいなぁ、と小さく笑っていた。
月の光が誰もいなくなったベンチを、静かに照らしていた。




